第159話 林檎畑
「モルアム、おぬし、馬がへたじゃのう」
おれを待つ馬影がふたつ。ボンフェラート宰相と、その従者ノドムだ。
馬に乗ったことはあるが、それほど長く駆けたことはない。二日も駆けると尻が痛くなってきた。それをかばって乗るので、馬が蛇行する。ボンフェラートとノドムは、たびたび馬の足を止め、おれを待たねばならない事態となった。
ラウリオン鉱山をでて二日。北へ北へと馬を走らせてきた。めざすのは王都レヴェノアではないはず。おれはアッシリアの密偵として働いた罪で、五年間はレヴェノアの街へ入れないのだから。
「宰相、どこへむかうおつもりですか?」
「もう二刻ほどじゃ。文官の意地でついてこい」
「はっ」
文官の意地とはなんだろうかと思うが、老齢であるボンフェラート宰相は疲れたようすもない。その年齢の半分にも満たない自分が、弱音を吐くわけにもいかなかった。
一刻ほど馬で駆けると、それほど高くない山が見えてきた。山のふもとには、点々と小さな村がある。
「属領への見まわりですか?」
馬を歩かせながら宰相に聞いてみる。王都レヴェノアの街より南にある村々は、いまや、すべてレヴェノア王国に帰属している。
アッシリア全土からすれば二割にも満たないが、ほんの二年前までは考えられなかった。このテサロア地方に、あらたな国ができるなど。
そんな属領への見まわりかと思えばちがうらしい。人に会うのが目的だと。このような小さな村に、会わねばならない人などいるのか。
宰相を先頭に、山すそにあるひとつの村に入っていった。
果樹園がさかんな村のようだ。山すそから中腹まで、あちらこちらに果樹園がある。秋を過ぎ、冬になったいま、
果樹園のひとつで、犬人の女が手をふっていた。若い女だ。宰相が手をふり返す。知り合いか。
「目的地に着いた。馬をおりるぞ」
宰相が言った。まさか、会わねばならぬ人とは、あのおなごか!
馬を近くの木につなぎ、女のいる果樹園へと歩いていく。山の斜面を利用した畑だった。草むらのなかに人がひとり通れるような道がある。
「宰相様、こんな小さな村にようこそ。まさか、わたしに用ではないでしょうから、どこかへの途中ですわね。立ち寄っていただき光栄に思います」
果樹園の柵を押して女がでてきた。茶色の長い毛をした、きれいな犬人の女だった。
「そのまさかでの。すこし話がある」
「あらま。畑にむしろを敷いているところでしたの。すこし待ってくださいますか。ここでの話もなんでしょうから、家のほうに、ご案内します」
むしろとは、
「テレネよ、ちょうど男手が三つもある。わしらも手伝おう」
宰相がそう言うので、果樹園に入る。藁のむしろが果樹園のすみに山と積まれていた。
「こんなに! 大勢の人でもくるのか」
おれの言葉にテレネと呼ばれた女が首をひねった。
「人ではありません。
なんと。むしろは人ではなく樹のためか。
柵に囲まれた果樹園には、何本もの樹がある。聞けば林檎の樹だった。一本の根元を三枚ほどのむしろで地面をおおう。
これを女手ひとつでやるには大変だ。手伝っていると、ふと柵のむこうのしげみが動いた気がした。
なんだろう。ちょうど地面に石があったので、つかんでしげみに投げてみる。すると、とつぜんにしげみから生き物が飛びだした!
生き物はそのまま柵にぶち当たった。柵が割れる。
「さ、宰相、グールが!」
「ばかもん、ただの
宰相は冷静に答え、柵のなかに入った猪を追いかけている。
「
呪文をとなえていた宰相が最後にそう言うと、走っていた猪が岩にでもぶつかったかのように
横倒しになった猪に、すばやくとどめの剣が刺さる。だれが刺したのかと思えば女のテレネだ。
「モルアムよ、まずは冷静に状況を見ることじゃ」
ボンフェラート宰相はそう言うが、生きた猪を見たのが生まれて初めてである。
そして、おれよりも果樹園のすみに逃げこんでいる大男がいるのだが、そのノドムには、なにも言わないようだった。
「宰相様、ありがとうございます。今晩はこれで
なんとたくましい女なんだと感心したが、返す宰相の言葉にもおどろいた。
「よければ、われらにも恵んでくれれば助かるがの」
「まあ、宰相ともあろうかたが野宿の予定ですの?」
「このあとは、あちこち周りながらボレアをたずねる予定なんでな」
ボレアの港か。王都レヴェノアから東へまっすぐ。カルラ運河につくった港だ。
テレネという女は野宿するぐらいなら、うちに泊まってくださいと申しでた。それは正直ありがたい。このあたりの冬はそれほど寒くはないが、それでも野宿はこたえる。
それに猪鍋か。レヴェノアの街で食べる肉はおもに羊、それに牛だ。冬を越える猪は、からだに脂肪をつけるため美味だと話には聞く。思わぬご馳走を思い浮かべ、はしたなく腹が鳴るのではないかと心配になった。
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