第62話 憤怒の炎は我に
夜ふけの池は静かだった。
池の浅瀬に、頭をなくした九頭の大蛇がころがっている。のちほど湿原の遠くまで運び捨てるらしい。池の水は一度ぬかねばならぬと、森の民が話していた。
池のほとりに座り、その死骸をながめる。
「無理だ。勝てない」
ヒューはあのとき、そう言った。早い判断だった。それは、まちがいではない。いまから考えても、ほかに手はなかった。
逃げてもいいが、あれが家々のある場所まできたとなれば、もっと大惨事だ。
人のなんと弱いことか。自分の腰にある剣をぬき、月明かりにかかげた。
グール相手になると一対一で人は勝てぬ。このグラヌス、人のなかでは強いほうなのに。
風にふかれ、カエデの葉が一枚、飛んできた。剣をよせると風圧でカエデの葉がくるりと舞った。
カエデにすら負けるのか。自分の剣は。
立ちあがり、ふり返った。池のまわりにはカエデの樹が多くあった。そのひとつに近づいてみる。
下から見あげた。大きなカエデの樹だ。葉は赤色を過ぎ、茶色になっている。
また風がふき、カエデの葉が落ちてきた。一枚にねらいをつけ剣をふる。カエデはくるりとかわした。
なかなか当たらぬものだ。きちんと剣をかまえる。葉が落ちるのを待った。
かさっと小さな音がし、一枚だけが落ちてきた。刃で風を切るようにふる。当たった。当たったが切れない。
何十回か試したが、数回に一度は葉を切ることができた。これが五英傑のゴオ族長ならどうだろうか。ゴオの剣は、ひと振りで首を飛ばすと言われている。
いや、それすらどうでもいいのか。剣の優越など、どうでもよい。
力まかせに剣を土に刺した。腕を組み、池を見つめる。
ざわつく心がわかった。自分は腹を立てている。
森の民は英雄と褒めたたえたが、それはあの三人だ。このグラヌス、戦士とは名ばかりで、なにひとつ倒していない。
アトは疲れ果てるまで弓を練習していた。なぜか。みなを守りたいからだ。それは仲間のなかにいる戦士、このグラヌスがみなを守れないからではないのか。
うしろで葉が落ちる音がした。土に刺した剣をぬく。落ちてくる葉は四枚。剣をふった。一枚も当たらなかった。
カエデの樹を足裏で蹴る。多くの葉が落ちてきた。剣をふりまくった。なにも当たらない。
なんだこれは。このグラヌスの弱さは。
池の浅瀬に走り、蛇の頭をさがした。あのとき、すべての頭がこなごなになったわけではない。
形をとどめた頭があった。首のない蛇の頭に剣を突き刺す。そうだ、剣は刺さるのだ。勝てないわけではない。おのれが弱いだけだ。
もう一度カエデの樹に走り幹を蹴る。落ちてくる葉に剣をふった。なにも当たらぬ。この弱さに身がよじれそうだ。
何度か樹を蹴ると、カエデに葉はなくなっていた。もう一本のカエデに移る。
気がつくと朝だった。
枯葉の上で寝ていたらしい。顔の上にカエデの葉が落ちてきた。起きあがる。
剣を下にむけてかまえた。ふりまわすのはやめた。落ちてくる葉を待つ。
長いのか短いのか、待つのが苦ではなくなった。落ちてくる葉。剣を下からふる。一枚が切れた。ふりおろして二枚目。二枚目のカエデはするりと逃げた。
夕方ごろになると、二枚切れるようになった。
三枚は無理なのだろうか。やりつづけると、こつが飲みこめてきた。
葉は見ているようで、見てはいけない。剣はにぎっているようで、にぎってはいけない。
昼より、夜のほうが感覚がつかみやすかった。剣をかまえ目線を落とす。しばらくすると自分の呼吸がわかるが、それもいつしか
夜の森は明るい。木立の一本からはっきりと見えた。池の浅瀬にころがっている大蛇の死骸もよく見える。
ころがった頭のひとつが、昨日から、ずっとこちらを見ていた。頭の右半分は
カエデの葉。ちょうど三枚。水平に剣をはらい一枚が切れる。切っているあいだにも葉は落ちる。地面近くの葉をすくうように切った。最後の一枚は遠い。踏みだすと同時に剣を突いた。
剣先にかすり、カエデの葉は地面に落ちた。
「そのあたり、までじゃな」
ふいに声をかけられた。寝ているはずの精霊使いだった。
「ボンフェラート殿、元気になられたか」
「三日も寝れば、じゅうぶんじゃ」
「三日?」
「左様」
三日も
カエデが落ちてくる。剣をにぎり直した。
「そのへんにされよ、戦士殿」
「もうすこしで三枚切れそうなのだ。なにが足りぬのか・・・・・・」
「それ以上は、命にかかわる」
カエデを切ろうとした手を止めた。
「ボンフェラート殿、大げさに申される」
「大げさではない。三日三晩、飲まず食わず剣をふっておる。もはや肉体は疲れを感じておらぬはずじゃ」
そう言われれば、疲れてはいない。
「小便をしたのはいつじゃ?」
小便。それはおぼえがない。
「わしは何度か、剣を極めようとした者に出会ってきた。その者らも、まれに、おぬしのような状態に入る。じゃが、長くはつづかん」
そうなのか。すこぶるほど、からだのきれはいい。
「もう、もどすぞ」
ボンフェラートが両手のひらを自分にむけた。
「
唱えると同時に耐えがたい
「アトが疲労回復の茶を作っておる。それを飲んで、ゆっくりと休め」
三日三晩とボンフェラートは言った。みなは剣をふる自分を知っていたのか。
「アトが心配そうにしておった。一緒にくると言うたが止めた。正気かどうか、わからんからの」
それは申しわけないことをした。ひざに力を入れ、立ちあがる。
「暗いな」
思わず声を漏らした。さきほどまで、世界は水色に光り、細かくすべてが見えていたのに。
「月が
上空を見あげた。雲が多い。どこに月があるのか、わからなかった。
「
そのようなことになるのか。では、命の危険というのもうなずける。
「どうすれば、ああなりますか?」
「さて、わし自身その境地に達したわけではないからの。単純に言えば、死に物狂いじゃ」
なるほど。言われて納得するのが、歩兵では一度でも戦いをした者と、まだ調練しかしていない者とでは雲泥の差がある。それは文字通り、死に物狂いというのを経験したからだろう。
「もう、せぬほうがよいぞ」
うなずいた。うなずいたが、心はちがった。
このさき、やはり相手はグールなのだ。普通の人では勝てぬのなら、普通ではなくなる必要がある。
歩きだして一度、池をふり返った。暗すぎて大蛇の頭は見えない。
自分は戦士として生きよう。それもグール相手にだ。
「しかし、暗いのう。ランタンを持ってくればよかったわ」
森のなかというのは暗い。これが戦士の道だろうか。グールとの戦いに明け暮れる日々。それは暗闇なのだろうか。
「おお、アトが」
道のむこうから灯りがくる。アトだった。ランタンを手に
「グラヌス、大丈夫?」
少年が自分に近づき、下から見あげてくる。
「アト殿は、まるで太陽であるな」
少年は首をひねった。
バラールを旅立つ日、月のような男になろうと思った。暗闇をやさしく照らす男だ。だが月には太陽が必要だ。それは意外にも、この少年なのかもしれぬ。
「ラティオが米の汁を作ってるよ」
おお、このグラヌス、どうやら恵まれすぎているようだ。
三人で歩きだす。
これは、月のような男というのも無理なのかもしれない。月が輝くには暗闇が必要だ。
だが、いま歩いているのは、ランタンに照らされた森の道だ。そのさきには仲間の待つ家がある。
それは明るく、暗闇というには、ほど遠かった。
第三章 グラヌス 決意の火 終
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