第16話 現代、花彌の章 9
『花彌、花彌、そんなに泣きぃなや。花彌は悪ぅないよ。花彌は間違っとらんよ。大丈夫じゃ、大丈夫じゃけぇ。な、花彌、泣きぃなや。』
泣き疲れ、肩で息をする花彌の、耳にはめたイヤホンから流れていた大音量の音楽が消えている。
代わりに響いた穏やかな男の声。
(…うん、)
『大丈夫じゃけぇ。大丈夫じゃけぇ、な、少し寝ぇや。』
(…うん、…うん、…ありがとう。)
全身の力が抜けてゆき、花彌はようやく眠りに落ちた。
※ ※ ※
翌日、午後三時からの出勤だった花彌は、重い足を引き摺るように、産婦人科病棟内にあるスタッフ用ロッカールームへとたどり着いた。
花彌の事情を知っているスタッフは今のところ重光と婦長しかいないはず。
しかし、病棟内を漂う雰囲気がどこか重い。
自分の意識が、見える景色さえも憂鬱にしているのかと、深い溜め息を吐き捨てた。
しかし、
「曽我部さん、ちょっと、」
ナースステーションに入ろうとした花彌の背を、婦長が強張った声音で呼び止めた。
握ったナースステーションのドアノブが手に冷たい。
ドアノブから手を離し、花彌は緊張した面持ちで振り返った。
小柄でふくよかな婦長が、トレードマークの柔和な笑みを封印したように、眉根を寄せ、口角を下げている。花彌は生唾を飲み込んだ。
「曽我部さん、事情は重光さんから聞きましたよ。とても大変でしたね。」
「…いえ。ご心配をおかけしました。昨日は突然お休みをいただいて、申し訳ありませんでした。」
「災難だったんですもの。それは構わないのよ。それは構わないのだけれど、」
婦長は言い淀み、節の目立つシワの多い手を胸元で擦り合わせた。そして沈痛な面持ちを隠しきれず、眉を下げ、上目遣いに花彌を見た。
「落ち着いて聞いてね。」
婦長のその一言は、花彌の緊張をさらに煽って下腹部をキリキリ刺激する。花彌は小さな声で「はい」と答えるのが精一杯だった。
「一昨日の晩、病院内の医療従事者用のホットラインが外部からハッキングされたらしくてね、…その、女の人のね、その、…裸の写真が添付されたメールが、従業員に一斉送信されてきたの。」
「……ぇ」
「その写真には、その、顔にモザイクがされていたけれど、…右の腰と右の太ももに、大きな傷跡があってね、」
「……!」
そこまで聞いて、花彌の額からは一気に血の気が引いてゆき、花彌はそのまま崩れるように卒倒した。
※ ※ ※
花彌が目を覚ますと、視界には見覚えのない白い天井が広がった。
鼻をくすぐる嗅ぎ慣れた消毒液の匂いで、ここが病院内だということは辛うじてわかった。
「え、…ここは、」
頭に靄のかかった花彌が何度か瞬きを繰り返しているうちに、ふと、人の気配がして視線を投げる。
そこの立っていたのは、心配そうにこちらを伺う見覚えのない青年。
見覚えはないはずだが、どこか懐かしい。
「…あなたは、誰?」
青年に問うと、青年は色素の薄い目を見開いた。
『え、花彌、…俺が、見えるんか?』
「…え、」
青年の言葉に、花彌はがばっと起き上がり、慌てて青年の腕を掴んだ。
「あなたは、誰っ」
花彌の、涙に濡れた声は嗚咽混じりでよく聞き取れない。
それでも青年は、自身を掴む花彌の手の上に大きな自分の手を乗せて、
『俺はナナシ。花彌の魂の行く末を見守るよう義務付けられた、<呪い>じゃ。』
自身を<呪い>だと言う青年は、悲痛なほど顔を歪ませ、俯いた。
『花彌が不幸に見舞われるんは、全部俺のせいなんじゃ。』
「違う!」
反射的に出た花彌の声は、驚くほどしっかりと芯を持ち、強く谺した。
「違う!あなたのせいじゃない!あなたのせいで不幸が舞い込んだんだとしても、私の手で避けられたものもあったはず。なら、避けなかったのは私!それに、」
花彌は奥歯をぐっと噛み締めて、真っ直ぐナナシを見据えて言い切った。
「他人の悪意を、私たちのせいにするのは違うわ!絶対に違う!ナナシは悪くない!」
花彌の悲鳴に近い言葉に、ナナシは花彌に掴まれていない方の腕で目元を隠すと、歯を食い縛り、肩を震わせた。
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