第17話 現代、花彌の章 10
「おい、曽我部、」
カーテンの向こうから谷口らしき声がして、花彌が視線を移すと、ナナシの腕を掴んでいた手の感触がふっと消えた。慌ててナナシに視線を戻すが、ここにはもう、誰もいなかった。
「開けてもいいか。」
遠慮がちに問う谷口に対し、花彌は動揺を抑えきれず返答できなかった。
「そこに誰かいるんだろ?」
刹那花彌の心臓が強く跳ね、「いません!誰もいません!」と、反射的に答えてしまった。
「開けるぞ。」
そして谷口はゆっくりカーテンを開けた。
「………」
この医療従事者用医務室に、花彌以外他に誰もいないのを確認すると、谷口はベッド脇に置いてあったパイプ椅子を引っ張り出し、広げてドカっと座る。
「今回はまあ、色々、災難だったな。」
この数日間の出来事を、男の人に話すだけの心の余裕がない花彌は返事に困り、谷口の視線から逃げるように俯いた。
「それで今、お前は誰と話してたんだ?」
話を変えるため、というよりも、本題はこちらにあったのだろう。そう思わせる谷口の声は低かった。
花彌は谷口の意図するところを探りきれずに言葉に詰まる。
「……死神、か?」
「死神」と言われ、花彌ははっと顔を上げた。
そしてようやく谷口を見た。
花彌の視線の先の谷口は、至って真剣な眼差しでもう一度問った。
「死神なんだな?」
「…いえ、〈彼〉は死神ではありません。救いです。私の。」
「……そうか。そうだよな。」
そう呟いた谷口は、少し笑ったように見えた。
だが見る見る眉根が寄ってゆき、谷口は泣きそうになる。
花彌は目を見張った。
その様に気がついた谷口は、少し慌てた様子で椅子から立ち上がると花彌に背を向けた。
「こんな時にスマンな、変なこと聞いたな。忘れてくれ忘れてくれ。」
わざとおどける声音が心に刺さり、花彌はゆるゆると首を横に振った。
「いえ。私は聞きたいです。そのお話。」
花彌の言葉に、谷口は振り返った。
目が合い、だがすぐさま谷口は花彌から目を反らした。そして首の後ろを掻きながら、言葉を探し、沈黙する。
時計の秒針の音さえ聞こえてきそうな静寂が漂った。
「あの、谷口せんせ…、」
「俺にもな、死神が憑いているんだよ。」
花彌の言葉に被せた谷口の声は、心情の吐露に近く若干震えている。
「そうだな、俺もあの人を〈死神〉とは呼びたくないな。まあ呼称はなんでもいいか。」
谷口は自嘲気味に笑い、そして、息を大きく吸い込み、溜め息混じりに吐き出した。
「〈彼女〉らはな、俺たち未熟な魂の天寿を全うさせることで初めて『罪』が許される、怨霊なんだ。」
怨霊。その言葉と、花彌の見た『ナナシ』が結び付かず、二の句を継げない。
「だが、俺たちみたいな未熟な魂は、なかなか天寿を全うできないから、〈彼女〉らは、いつまで経っても罪が許されず、輪廻転生の輪に戻れない。…そう仕向けられてるんじゃないかと、俺は思っている。」
「………」
「〈彼女〉はな、昔、貧しさから、口減らしのために我が子を殺めた。……その子供ってのがさ、俺の魂の源なんだとよ。信じられねぇだろ?」
谷口の声は小さい。
にわかに信じがたい話をしていると自覚しているのだろう。そもそも、こんな話を信じてくれる人などそうはいない。
「………」
そんな疑心暗鬼が見え隠れしている。それでも、谷口はこの話を誰かに聞いてもらいたかったに違いなかった。それも、おそらくずっと昔から。
花彌は谷口のくたびれた白衣に隠された背中をじっと見据えた。
「………」
「死神は、自ら殺めた魂を、浄化し終えないと転生できない。だからお前に死神が憑いているなら、お前もその死神にとっては『忘れてはいけない魂』」
「……!」
「俺は昔、数年だけ、〈彼女〉と暮らしたことがあるんだ。まだ子供の頃だったが。俺の親がネグレクトでな、ほとんど家にいなかった。…〈彼女〉と暮らしたあの日々がなければ、俺は間違いなく餓えて死んでいた。」
谷口の声が次第次第に震えてゆく。
「…あの日々が忘れられねぇんだ。あの人にもう一度会いたいんだよっ」
谷口の、体の横で固く握られた拳が白い。
花彌は静かに何度も頷き、
「わかります。私も会いたい。もう一度、」
そして、たださめざめと泣いた。
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