奥々風土記 巻一 ①

                           陸奥国 江刺恒久 撰

岩手郡

 ヒムカシ閉伊郡ヘイノコオリ(現在の宮古市~遠野市周辺)、南は斯波シワ(現在の盛岡市南部~紫波郡)・和賀ワカ(北上市の一部、花巻市の一部、金ケ崎町、西和賀町)の二郡フタコオリにわたり、西は出羽イデワ陸奥ミチノクの国の堺を限りて、仙北郡(仙北市、大仙市の大部分、横手市の一部と美郷町)につづき、北は鹿角・二戸・九戸の三郡ミコオリにわたる。

 さて岩手郡イワテノコオリというよびなが古書にでてくるのは、大和物語に記載されているのは平城天皇は狩りを大変好んでおられた。みちのくの国岩手郡から献上された御鷹は、この上なく素晴らしいものであったため、この上なく好んで手鷹になされた。名前を岩手とつけられ、早々と郡と定められ公表された。(物語書はよろしくないこと{帝の手鷹を逃がしてしまった}があった。国の名、郡の名などはあらかじめ用意しているものではないので、地名の由来としては不足しないだろう。)

 東鑑あづまかがみ巻九、文治5年(1190年)9月23日庚辰の条に、藤原清衡の継父、清原武貞死後、奥六郡(伊沢、和賀、江刺、稗拔、志波、岩手)を領したと伝わる。また同書巻四十六、建長8年(1256年)6月2日辛酉かのととりの条に、岩手の左衛門太郎、岩手の次郎という人の名前も見られる。これは当時、岩手郡を領してやがて地名からとって名乗ったのか、又は先祖などの所領地であり、後世までの呼び名になったのかもしれない。

 又日本三代実録、貞観4年(862年)6月15日壬子の条に、山城国、正六位上、天穂日命、陸奥国鎮守府正六位上岩手堰いわてい神が並んで神社を預かっていた。延喜神名式に、陸奥国胆沢郡石手堰の神社などを見える、石手堰の神は、もと岩手郡に所以のある神で、岩手郡で奉られるべきものであるが、鎮守府に近い胆沢郡にも奉られるようになった。上古においては、その国、その地において功のある神を、そこで奉祝し、その地名をもって、その神のなとし、又はその神の名をもって地名とすることも多い。それは岩手堰の神も岩手の地名をとって御名とし奉った。かくして、岩手郡は古くから郡と定まりてその地名も、大変古いように見えるが、延喜式・和名抄など国や郡名の記載されたものから漏れていることから、当時は仮の郡であったと考える。拾芥抄しょうがいしょう(鎌倉時代中期に成立とされる)よりあとの書籍には記載されている。



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