モルモットの見上げる満月
一週間後、トウキチは再び福祉課に呼び出された。
「どうです? 妹さんは順調に更正していますか?」
初めて会う男だった。言葉も物腰も温和であったが、眼鏡の向こうの表情はまったくよめない。若く見えるが、実際はそう若くもないようにも見えた。そして、何か危険なにおいをただよわせていた。トウキチは萎縮した。
「毎日、僕の作った食事を食べています」
嘘ではなかった。「妹」はちゃんと家にいる。そして一緒に食事をとる。少なくとも、トウキチのいる時間はそうだった。いない時間をどうすごしているのかわからないが、トウキチの情報端末を使って、いろいろ電子図書館からかり出しては閲覧しているらしいというのはわかった。
なにか難しい式を書いた紙くずがゴミ箱の中でまるまっていたこともある。何をやっているのかわからないが、見かけによらずかなりの知識と知能を持っているようだ。そして、頼んだ買い物の代金をやりくりして時々安酒をかってきて飲んでいる。買ってきた材料にはレシピが添えてあって、その通りに作ると安物を使っているとは思えない味になるのだ。
「僕……ねえ」
眼鏡の男は鼻で笑った。
「まあ、本当ならば結構なことだ」
トウキチはひどく居心地の悪い思いにとらわれた。この男はトウキチを信用していない。それがあかしに、トウキチが身じろぎするたびに油断なく姿勢を変えている。それはまるでトウキチが危険人物であるかのような警戒ぶりと見えた。
「あなたは前の僕を知ってるのですか? 」
「書類と映像でね。君は思い出すことはないのか? 」
「思い出す前に、いろんな人が教えてくれました」
「ふうむ」
男は興味深げに眼鏡の奥から彼を観察した。
「記憶というのはいい加減なものでね。はっきりしないところは印象、願望、刷り込みで作ってしまう。これは自分についての記憶だけではなく、他人についても同じだ。人格再構成刑は、そういうところにつけ込んで、言語、社会の基本的な常識といった生活必須な知識だけを残して、自意識のありようを作り変えていく。昔なら洗脳と呼ばれた技術だ。昔の洗脳が心身ともに限界に追い込んで自我を崩したのと違って、今は薬物と機材で短時間でより徹底した確実な処置を行うがね。何がいいたいかというと」
職員はそこではっと何かに気づいたように口をつぐんだ。
「よけいなことを言うところだった。要約する。君は君だ。別人だ。だが、これからどうなっていくかはわからない。統計では、再構成刑を受けた者の六割は結局もとの人格と似たようなものになっていって、その半分が再度似たような犯罪を犯している。彼らがそうなったかということについては、論文がいくつか出てるがその中に、以前を知る人間の繰り返す言葉によって再洗脳されたというものがある」
わかるかね? と問いたげな目にトウキチは確信した。この職員はその手の研究者だ。そして彼は観察の対象。
「つまり、人の言葉を気にするなと? 」
「そうだ。そう心がけてほしい。そして君が何者になっていくか見せてくれ。それが五年の観察期間だ」
アカネが学校にいくと言い出したので、トウキチは驚いた。
「大学受験資格までは、無料でとれるけど、大学はそうはいかない。奨学金は期待できないし、取れても少し足りない」
どうして奨学金が期待できないかは、トウキチも聞かなかった。
「私が学校にいって正業につくのは、お上にとっても都合がいいはず。ひいてはあんたにとっても悪い話にはならない。そして私もそうしたい。できるだけ切り詰めるし、アルバイトもするから、支援してもらえないかな」
そのときのトウキチの胸にわいたのは、とんでもない話、ということだった。今でもかつかつの暮らしである。学費など出してやっていけるのか。
「月に、いくらあればいいんだい」
その額を聞いてから、理詰めに無理なら無理といおうと彼は決心した。
「まあ、聞いて」
アカネは待ち構えていたに違いない。紙と電卓、そしていつつけたのか家計簿を出してきて説明を始めた。
二時間後、トウキチは音をあげた。
「わかった。わかったよ。なんとかなるだろうというのは。ただ、これうっかり風邪も引けないんじゃないかい? 」
ただの不良娘かと思ったが、とんでもない。トウキチは一生かけてもこの娘の頭のよさには勝てないだろうと確信した。だが、アカネの計算がかなりぎりぎりなのは彼でもわかる。そもそも無理そうなのを、ここまで詰めただけでも驚くべきことなのだ。
「そこなんだけど」
アカネはずいっと身を乗り出した。近い。トウキチは戸惑った。荒っぽいが、これでも若い女性なのだ。
「もうすこし条件のいい仕事がないか、役所のほうに掛け合ってみない? 」
「そんな虫のいい話が」
「とおるかもよ。あちらが、あたしの更正を本気で望んでいるなら」
「だからって、そうほいほい斡旋してくれるかなあ」
「たぶん、相談して最初に見つけた条件のいい求人に応募すればいいだけだと思う」
アカネは確信を持ってそう言った。
「とにかく話してみて」
気圧されっぱなしのトウキチは、やってみると答えるのがやっとだった。
「でも、役所にその気がなかったら? 」
「そのときはそのときよ」
口に出せない考えをもってるな、と彼は直感した。
それをやらせてはいけない。彼は膝の震える思いだった。
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