見知らぬ兄

 まったくもって災厄だ。

 「妹」のアカネを「引き取った」トウキチは正直そう思った。

 最初から彼にはこの「妹」が罵倒と皮肉と嘲弄でできているかのような少女にしか見えなかった。しかも家に受け入れてすぐにそれを裏書するような言動ばかり見せる。

「はん、似合わないね」

 まずいきなりそう言われた。一応三室ある家を安く借りることができたうれしさのあまり毎日掃除と整頓を怠らないおかげでこざっぱりと、そして貧しいながらも居心地よく整えられた家である。いきなりけちをつけられてトウキチは憂鬱になった。

 そんな気持ちなぞみじんも考えていないのか少女はじろじろ家を仔細に検分してまわりそしてため息をついた。

「なあんだ。金目のものなんかありゃしないじゃん」

 あったらどうするつもりなのか、聞くまでもないようである。トウキチはますます憂鬱になる。

「じゃあ、ここには用事はないね。バイバイ、兄さん」

 腹がすいていたのか少女は台所にあったパンを一切れくわえて裏の窓をあけた。ここは三階だが、猫のように敏捷であればどうにかおりることはできるだろう。

 少女に逃げられたら「保護者」であるトウキチの責任になる。臆病さがこれからどうなるかを一瞬で読み取らせた。

「ま、まって」

 あわてて引き止めるトウキチ。少女は彼を困らせることができて嬉しそうだ。

「こんな辛気臭いとこで兄さんなんかと一緒に暮らせますかって」

 舌を出して窓枠によじ登る。力づくで……トウキチの頭をそんな考えがよぎった。

 だめだ。その考えを強く否定するや彼は思いつきを口にした。

「しばらくは、監視されてる」

 説得力を感じたか、少女の動きが止まった。

「それ本当?」

 本当のところはそんな話は聞いていない。だが、彼らならまったくやりそうなことだろう。

「あ、あの連中のやりくちを考えて見ろよ」

 少女はじろっとトウキチをにらんだ。ひるむトウキチの前で、彼女は大きなため息をついた。

「あーあ、やんなっちゃう」

 どさっと体をトウキチのお気に入りの椅子に投げ出して彼女は足を机の上に乗せた。

「ビールない?」

 いてやるんだからありがたく思え、ということらしい。


 その晩はほとんど言葉をかわすことなく、アカネは彼の作った夕食を食べ、テレビの低俗番組を見てげらげら笑ってすごした。いつまで起きてたかはわからないが、翌日も仕事で早めに寝る彼に一瞥も与えず、コメディアンの馬鹿ネタに足をばたばたさせて笑い転げていた。

 これが毎日続くのだろうか。別にそれは悪くない。にぎやかなのはいい。そう思いながら彼は眠りに落ち、翌朝目覚めてぎょっとした。

 ベッドサイドの椅子にアカネが座って、実験を観察する研究員のような目で彼を見下ろしていたのである。シャワーを浴びてきたのか、髪が濡れている。

「お、おはよう」

「殺そうかと思ったんだけどさ」

 アカネはそう言った。ぶらんとさげた手に包丁があった。

「やめた」

 包丁を壁に投げる。突立ったその切っ先が折れて包丁はどこかにとんでいった。トウキチはすこし悲しかった。

「ねえ、兄さんの顔と体を持っていて、兄さんと違うらしい人。あんたはなにものなの? 」

「わからない」

 正直に答えるほかなかった。

「君は自分が何者かわかるのだろうね。でも僕は気がついたらここにいた。もしかしたら、ただの記憶喪失なのかも知れない」

「兄は猛々しい人だった。寝ぼけてても攻撃的だった。あなたは断じて兄ではない」

「それは、僕の処置をした脳神経科医にいわれたよ。攻撃性のない構成に苦労したと」

 話しながら、トウキチはその言葉をもう少し正確に思い出した。

「何度も失敗したと」

 アカネの目がちょっと見開かれ、そして細くなった。

「じゃあ、また暴れだすかもしれないということ? 」

「警戒されてるんだろうね。君とくらせというのも、言ってることと裏腹に実験してるだけなんだと思う」

「実際どうなの? 」

「正直とまどっている」

「こんなかわいい妹がいるのに? いや、かわいげはないか」

 アカネはからかうようにいいながら、トウキチの表情を観察した。

 本当に戸惑ってる、と気づいて彼女はまじめな顔になった。

「もしかして、肉親とか理解できないの? 」

「理屈ではわかっているんだけど、実感はない」

「調子狂っちゃう」

 少女は苦笑した。

「そうだ、兄さんがどんな人だったか、どんな兄だったか教えてあげましょうか」

 トウキチは迷った。実のところ、ある程度のプロフィールは知っている。それでも聞きたいのか、そして彼女は話したいのか?

 アカネの瞳は真剣だった。きれいな瞳だな、と彼は思った。打算や企みのない、透徹した知性を感じる瞳だった。

「君の口から聞かせてほしい」

 トウキチは自然、そう答えていた。

 資料によると、処罰される前のトウキチの生い立ちがこうだった。

 犯罪への傾向の強い家庭に育った兄妹は、両親の暴力に打ち拉がれて育っている。折檻によって実はあと一人いた弟が死んでいる。それをきっかけに兄妹は施設に預けられ、ようやく人並みの食事を与えられて思春期まで成長することができた。両親は裁判にかけられ、それぞれ執行猶予または実刑を受けている。

 だが、両親が更正して、再び一家でくらすことを希望すると事情がかわった。

 トウキチもアカネも施設にいるか、別の家に養子にいくのを希望したが、聞き入れられなかった。

 そして、一家がふたたび一緒に暮らし始めて一ヶ月ほどたったところで最初の暴力がふるわれた。

 トウキチが父親を殴り倒したのである。施設にいるあいだに彼は父親を圧倒できるほどの体格と、腕っ節を得ていたのだ。

 父親を沈黙させた次は母親だった。このとき母親は奥歯を折られている。

 一家の力関係は変わっていた。その日から家の中にはトウキチの暴風が吹き荒れる。

 そして両親からまきあげた金で、彼は夜の町に出るようになり、やがていくつも暴力沙汰や犯罪に関わっていく。

 両親は堪えかねてそれぞれに犯罪をおかし、自首して刑務所へと逃げた。

 兄妹の仲がどうだったかは記録にない。

 トウキチはやがて殺人で逮捕される。明白な殺意をもって、やくざものの一家を赤ん坊にいたるまで殺したのである。日頃のトラブルの嵩じた末のことであったと記録されている。

 これで彼は極刑がきまった。

 考えて見れば、この記録に彼女はほとんど出てこない。

「兄さんは、誰よりも自分を憎んでいる人だった」

 アカネはそう言った。

「父にも母にも似ている自分を憎んでいた。両親と再び暮らすことになった最初の頃、兄さんがこっそりくやしなきをしているのを私は見た。忘れていたかったんだと思う」

 心の奥底でなにかがずきりとうごめくのをトウキチは感じた。しかし、それ以上は何も起きなかった。

「父も母も更正したといいはるけど、本当のとこは何にもかわっちゃいなかった。ただ、大きくなった私たちに昔のようにはできないということだけはわかってたみたい。特に大きく強くなった兄さんには恐れさえ抱いていたわ。兄さんがそれに気づかなかったわけはない。だって、父を殴った時、とても自信と確信に満ちていたもの。そして確かに力関係は逆転してたわ。毎日のように兄が両親に暴力をふるうのを見ながら、私は勉強していたわ。気の毒だけど、両親に同情する気にはなれなかった。一度だけど、父が私に乱暴しようとしたしね」

「乱暴を? 」

「どうってことはなかったわ。一度負け犬根性のついた男をひるませるくらい朝飯前よ。だめおしに、投げナイフの腕も見せておいたわ」

 なにがおきたか、想像できるようだった。

「結局それがばれて父は命の危険を感じるような目にあった。そしてすぐに悪いことをやってつかまった。もちろんわざとよ」

「君と兄さんの関係は、どうだったんだい? 」

「不干渉。兄さんはどんどん荒れていったけど、私に指図するようなことはなかった。ただ、兄さんと対立してるちんぴらが時々ちょっかいをかけにくるのがうっとおしかったけど」

 そこで彼女は舌打ちした。

「だけど、一度だけ、本当によけいなことをしてくれた」

 何をしたのが、それでどうなったのか、彼女は言わなかった。

「わたしの報復は、父そっくりね、と兄さんに告げたこと。そして兄さんは事件を起こしてくれた」

 アカネはトウキチの目をじっとみた。

「どう、あなたの中に兄さんはいる? 」

 トウキチは首をふった。

「もし、君の兄さんならここでどうするのだろう」

「わたしを殺すかもね」

 とんでもない考えだ。

「肉親とは、そんなに簡単に傷つけあえるものなのか」

「肉親だから、遠慮がないんじゃないかな」

 アカネはのびをした。眠そうだった。

「あんたは兄さんと全然違う。吐き気がするくらい優しい」

「情けないとは思うけど、いけないことなのか」

「ええ、とっても」

 アカネはぴょんと立ち上がった。

「おなかすいたわ。ご飯つくって」

 折れた包丁のことを思い出して、トウキチは悲しくなった。

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