見知らぬ妹

 トウキチは引っ越すことになった。今すんでいる三畳間では一人ではなんとかくらせても二人では暮らせない。そんな矢先に都合よく、なかなか入居できない市の公営団地に空室ができたからだ。

 トウキチは考えないことにした。ことによると自分に運がむいてきたのかも知れない、とそう考えることにした。

(むいてきた運から目をそらすのは馬鹿だけだ……)

 誰かがそういってたような気がする。

 運が向いてきたついでに、「妹」も姿を現さない。仕事は相変わらずだったが、彼はそのまま現状が続けばいいと願った。

 だが、そうは問屋がおろさない。「妹」がやってこないかわりに、トウキチは彼女を迎えにいくはめとなった。

 しびれをきらした福祉課が車をさしむけ、彼をつれて「妹」のいる場所へと迎えにいかせたのだ。

 そこは、掃きだめのような袋小路だった。取り壊し予定の一角の、不法投棄の粗大ゴミでうまったなかに、住むところのない者たちが仮のねぐらを構えている。

 そこにいるのはまだ若い、おそらくは未成年の浮浪者たちであった。福祉課の車の他に警察の車も止まっている。どうもその袋小路は包囲されているようだ。

「まだ終わってないのか」

 福祉課の役人が舌打ちした。

 どうやら捕り物が始まるようだ。まず警察の説得係がスピーカー片手に呼び掛ける。どうしても少年少女たちを力づくで引きずり出したいとしか思えないような説得だった。

 さばの味噌煮の空き缶がくわんと間の抜けた音を立てて説得係のよりかかっているパトカーの屋根にあたって跳ねた。ぴかぴかに磨いた屋根にほんのわずか傷が入り、そして腐った中身の汁がはねかかる。説得係の眉間にしわが寄った。途切れた言葉のかわりに彼は手で合図を出した。それを待ちかねていたように颯爽と鋭い呼子の声が長く尾を引き、ずんぐりと肉の詰まっていそうな制服姿たちが意外な敏捷で突入する。あたふたと逃げ場のない袋小路を逃げまわる姿に罵声を浴びせ、逃げ出す隙も与えずに一人づつ追い込んでは手荒くおさえつけて手錠をかける。数珠つなぎにされた若者たちはそれでも汚い言葉で警察を罵るが、警棒で乱暴に小突かれてぶつぶつと声を小さくする。それを横目に説得係は傷も消えよと汚れたパトカーの屋根を神経質にふいていた。

 福祉課の役人はつかまった少年少女たちをじっと観察していたが、ふいにここで待っていろと言うなり車をおりて監視の警官の所へと歩いていった。

 何を言っているのか聞こえないが、警官と役人はしばらく言い争っているように見えた。

 やがて、警官がしぶしぶ折れたようだ。捕らえた若者たちの一人の腕をぐいとつかんで立たせ、役人に突き出す。自分でやったのか、短く切った髪がかなりふぞろいのほっそりした姿だ。役人が何か話しかけると、少女はきっとトウキチの乗る車を睨んだ。

 見覚えのない・・・いや、見覚えのある顔だった。

 少女は大股に車に歩み寄ると乱暴に屋根を叩いてトウキチを覗き込んだ。

「この、ろくでなし!」

 少女の罵声にトウキチはたじたじとなる。役人がなにかささやくように警告してドアをあけると、彼女はするりとトウキチの隣に座って、強く肘で小突いた。

「ひさしぶりだね、兄さん」

 からからにかわいた言葉だった。肉親に見せる親愛のかけらもない。

「・・・」

 どうこたえたものか、困惑するばかりのトウキチを見て、少女はようやく思い出したようだ。

「そっか・・・兄さんはこわされちゃったんだよね」

 しかしそのことを受け入れているようには見えない。

「でも、記憶は残ってるはずだよね?」

 何か答えなければいけない。トウキチは必死に頭を巡らせた。だが、混乱するばかりだ。

 むんずと襟首を掴まれてトウキチは乱暴にゆさぶられた。

「なんとかいいなよ、え?」

 驚きに目を白黒させるトウキチ、あわててとめようとする役人。しかし少女はトウキチを座席に投げ捨てるとむっつりした顔で自分のひざにほおづえ突いた。

「けっ、猫をかぶりやがって」

 その言葉はまったくあたってはいなかったが、トウキチは抗議することもせずに呆然と自分の受けたしうちの意味を理解しようとしていた。トウキチの人格再構成はよほどうまくできたらしく、昔のトウキチならきっと持ったであろう怒りの感情はまったく出てこなかった。

 車が振動もなくすうっと動き始めた。少女はごみためのような路地をまるでふるさとかなにかのようになごり惜し気に顧みる。一瞬、その気持ちが理解できるような気がして、トウキチはそれがどんなものか必死に理解しようとした。それがわかればこの少女とうまくつきあっていけるかも知れない。

 だが、その気持ちはトウキチが考えるほどぼやけ、うすれ、ついに完全に消えてしまった。きっとそれは破壊された昔のトウキチの人格のなごりだったのだろう。トウキチと少女の相互理解の最初で、もしかしたら最後かもしれない機会はこうして失われた。

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