第36話 表舞台 (5)
三井かおるとの理解できない会話から半年が経とうとしていた。カリンは時々かおるとあっているようだ。大切な友達と会うといつも嬉しそうな顔をして、話したことや有ったことを話す。
“僕に厳しくともカリンに優しければそれでいい”そう思っていた。
「専務、本日のスケジュールです」
そう言って秘書筆頭の北川が、読み上げ始めると最後に
「最後に西島建設の新しいビルの着工式の後、パーティが開かれます。出席なさいますか」
西島建設、記憶にある女性の顔を思い浮かべると
「何時に終わる」
あまり出たくも無い内容だが“参加の企業への対応はたとえ五分でもしないといけない。スピーチもやらされるだろうが、文面は全て秘書が現場の人間と調整して作ったものを読み上げるだけだ”そう思うと出席は仕方ない。
「はっ、一八時始まりで中開きが一九時です。専務はこの時間までいて頂ければ嬉しいのですが」
優は、その時間なら、家族と夕食を一緒に食べる事が出来ると思うと出席に意向を示した。
「ところで、北川、そのビルの主担当部は」
「はっ、法人営業部と聞いています」
返事をしないで、窓の外を見ながら、かおるのオフィスがある方向を見ていた。
葉月コンツェルンの専務取締役の仕事に彼自身も“すっかりなじんだな”と思うようになった。
はじめの頃を思い出すと少し含み笑いが出た。北川が少し不思議そうな顔をしたが、分らないまま部屋を出て行った。
優は、なぜか“橋本玲子と会えるかな”と思っていた。
スピーチが終わり、テーブルに戻ると西島建設の社長や専務が彼のそばを取巻いた。自分の父親くらいの年齢だ。だが彼らは優の後ろにある葉月コンツェルンを見ている。
そう思いながらも既に専務としての仕事が体についた、優は、十分な威厳で彼らと対応した。
やがて少し隙間が空くと優は
「失礼」
と言ってトイレにでも行く振りをして廊下に出た。
「ふーっ」
ため息を着くと“くすくす”笑っている女性が居た。
“自分を笑う人間などここにはいない筈だ”そう思って目でしっかり見ると玲子であった。
「葉月専務、いえ、葉月優さん、お久しぶりですね。結婚式いや、この前我社にいらした時からですか。葉月さんのおかげで色々聞かれました。上司から。どんな関係だって」
“理解できない事を言っている”と思ったが、この前玲子の事を秘書の北川に聞いた事を思い出すと
「申し訳ありません。直ぐに思い出さなかったものですから。玲子さんと会ったことを妻に言いましたら懐かしがっていました」
「そうですか」
そう言って微笑むと優は“どきっ”とした。あきらかに上の部類に入る美人だ。
「ご結婚は」
「私が結婚する時はカリン、いえ奥様に招待状が必ず行きますから。届いていないということはまだ独身ということです」
一言で言えることを回りくどく言う意味に理解できないまま彼は
「パーティ後は、何か用事でも」
優はつい言った後、今日は家族と夕食を取ろうと考えていたことを思い出すと
「あっ、今度時間有りませんか」
といい直した。
玲子は“じっ”と彼を見ると“こいつ”と思った。それを分った上で
「葉月コンツェルの専務に自分の都合言うほど世間知らずではありません。専務のご都合に合わせます」
「ただいま、カリン」
「おかえりなさい、優」
三つ半になった優一とまだオムツの取れていない一歳の花音を抱いて玄関に来た。
「優、早かったね。私まだこれから食事。子どもたちに先に食べさせていたから遅れちゃったけど嬉しいな。優と一緒に食べれる」
新婚時代みたいに喜ぶカリンを見ると優もつい目元が緩んだ。
「優、優どうしたの」
彼のいつもより激しい抱かれ方にカリンは夫に何があったのか、体中に走る快感の中で聞いた。
初めて彼に抱かれてから、彼にしか見せたことのない自分の大切な部分をいつもより激しく責める彼にカリンは気持ちのよさとは別に彼の心の中に何かあるのかと思い始めた。
そして、強く突き上げられるとたまらない刺激が体に走った。彼の背中に手を回しながらそれを受け入れた。彼の感情が頂点に達したのが分るとカリンも付き添うように頂点に達した。
三〇歳も目の前のカリンの体は、女としてそれを求めるようになっていた。声が頂点に達すると彼の体が自分の体に覆いかぶさった。
カリンの大きな胸に顔を埋めると
「カリン、ごめん。少し仕事でストレスが溜まっているみたいで」
「優」
一言、言ってから少し間を置くと
「いいのよ、私の体は優のものだから。でも最近、優がいない時は苦しい時がある」
暗に“大人になった自分の体が、それを求めているの”と目で言うと
「カリン」
と言って唇を合わせた。
「カリン、明日は遅くなる。ごめん」
と言うと
「明日の分」
と言って、彼はカリンをもう一度抱いた。カリンは彼に抱かれることに本当に幸せを感じていた。彼が自分のそばにいる何よりの証拠だから。彼の唇がそこに触るたびにカリンは声が漏れた。ただ嬉しかった。
「優」
そう言うと彼より早く一度頂点に達した。そして彼が入ってくると背中に腕を回しながら気持ちの良さに浸った。
「じゃあ、カリン行って来る」
「優、行ってらっしゃい」
いつもの妻と子どもたちへの抱擁が終わると、優は玄関を出た。
「パパ、会社」
少し言葉を話すようになった優一は、カリンの顔を見て言うと膝をまげて同じ目線で
「うん、パパはお仕事」
そう言って微笑んだ。
「花梨さん、今日のお茶の習いはお師匠のご都合で中止になりました」
初めて会った時から比べると優の母親も既に六〇に近くなっていた。もう習いもどちらかというと母親との趣味の共有みたいな場になっていた。
「花梨さん、今日は子どもたちを連れてお昼は外食にしましょう。優一も一人で歩けるようになったし、美味しい中華料理を食べに行きましょう」
そう言って“にこっ”と笑うと
「本当は、私が行きたいの」
と言って更に目元を緩めた。
優の母親は事の他、カリンを大切にし、愛情を注いだ。自分に娘がいなかったせいもあるが、愛おしいほどに“可愛くさわやかなお嬢さん”が、いつの間にか大人の女性へと変わっていく姿を見ながら、習いは完璧なまでに身につけ、どこに出ても恥ずかしくないほどに育った娘の姿は、優の母にとってたまらなく愛おしかった。その姿を見ながらいつも“私が見初めたお嬢さん”という気持ちがあった。
近所でも評判の娘に優の母親は鼻が高く、カリンが一人で行けばいい買い物にわざわざ一緒について行ったりしていた。
カリンも久々の外食に心が弾むと洗濯と掃除を早く終わらせたかった。ただ、葉月家は広く大きい。お手伝いはいるが、やはり全てを任すわけには行かず、ほとんど自分でこなす。
特に二階の自分と子どもたちの部屋はお手伝いには入らせていない。カリンは“彼と自分だけの世界”という思いでいたので他人が入ることは許さなかった。
優の両親はそれを理解しているのか、子ども達の部屋は時々入るが、カリンと彼の部屋には入ることがなかった。
「優一。君も来年から幼稚園だね」
そう言って微笑むと
「ようちえんってなあに」
優一はバギーに乗せていた時から大変な人気者だった。少し目を離すと回りの人が寄ってきてしまうくらいに。いつだったか、二子多摩川のデパートでほんの少し目を離したら、店員が仕事を放棄して優一の乗るバギーに群がっていた時もあったほどだ。
そして母親の顔を見ると納得したように笑顔になった。彼には無反応だったが。
可愛い顔をして言う優一に
「お外で少しずつ色々な事を覚えるところだよ」
そう言って自分の胸を大きく開け、ミルクを花音にやりながら会話していると母親が嬉しそうな顔で
「優一」
と言って部屋に入ってきた。
「あっ、お母様」
と言うと
「あっ、花音のミルクの時間だったのね。そうね、今飲ませておけば大丈夫だわね」
そう言って笑顔を見せると
「あと一時間位で出かけましょう」
そう言ってまた階下に降りて行った。
カリンは、優一と花音の洋服を整え、自分の洋服を着ると、鏡の前で少しだけ型を作ると“ふふっ”と笑顔が自然に出た。
優一が一人で、後ろ足で階段を降りながら自分もゆっくりと花音を抱いて階段を下りて、
玄関まで行くと母親が、既に入口に待たせた黒塗りの車の中で待っていた。入口の側には“お付の者”が少しだけ頭を下げてドアを開けて待っている。
カリンは、いつの間にか慣れてしまった葉月家の黒塗りの車の後部座席に座ると直ぐに車が静かに動き出した。
「花梨さん、“アスター”というお店を予約しました。とても美味しいところよ」
そう言って優一の頭をなでながら
「優一は本当に可愛いわ。花梨さんには感謝ばかりだわ」
そう言うと
「お母様、何をおっしゃられるのです。私のほうこそ色々教えて頂き、感謝の次第もありません」
すまなそうな目を少しだけして言うカリンに
「ふふっ、花梨さんに“あの時”、言って本当に良かったわ。花梨さんほどの人、まだ会ったことないもの」
「あの時」
一瞬分らなかったが、それを思い出すと耳元まで顔を赤くして下を向きながら
「お母様、恥ずかしいです。言わないで下さい」
と言った。
「ふふ、花梨さんのそういうところも大好きよ」
本当に目に入れても痛くないほどの可愛がり様に、カリンも時々恥ずかしくなる思いだった。
“わたしではいけないのですか”そう言って優の母親を見つめ、“優のお嫁さんになって頂けない”と言われたことに自然と“はい”と言った自分を振返ると“運命”という言葉は本当に有るんだな、とカリンは思った。
優一が目の前のテレビを見ながら笑っている。花音は、母親の胸に抱かれて気持ち良さそうにしていた。
彼は今日のスケジュールが終わると赤坂見附にあるホテルのレストランにいた。向かいには橋本玲子が座っている。
「ご招待して頂きありがとうございます。葉月専務に声を掛けて頂けるのは光栄です」
口先だけなのか本心だけなのか分らない言葉を優に言うと
「いえ、こちらこそ忙しいお時間を頂いてすみません」
儀礼的な言葉と分っていても自分の心の中にあるものが少しだけ疼いている。
玲子は綺麗だった。カリンの“さわやかさ”やかおるの“人を魅了する切れ長の目” ましてや秋山元花・・自分の実の妹・・ほどの“他とは一線を画す美人”とか言うのではない。普通の美人だ。それがなぜか優には新鮮に映った。
玲子は彼の仕草を見ながら少しだけ思いをめぐらせているとウエイターがメニューを持って来た。
「橋本さんは何を」
玲子は彼の仕草を見ながら“私の給料でこういうところで食事が出来ると思っているのだろうか。こういうところでは食べれるわけが無いのは分っているだろうに。あえてメニューを聞くことで私の落しどころを見てでもいるのか”そう思いながら
「お任せします」
彼はウエイターに玲子と自分の分をオーダーすると玲子の目を見ながら
「ワインは飲まれますか」
「ええ、少し」
と言ったので彼はソムリエを呼んでフランスの“プルミエクリュグランクラス”をオーダーした。
さすがに玲子も心の中で“えっ”と思った。玲子自身もワインなら少しは知っている。今オーダーしたクラスは、サンテミリオンでも特一級Aクラスだ。このレストランでは、一〇万以上になるだろう。そう思うとなぜ自分が呼ばれたか少し分ったような気がした。
玲子はこれまで、二九を過ぎるまで別に生娘を通してきたわけではない。
恋愛もすれば、恋人と体をあわせることもした。それゆえに今日は、相手がカリンの夫というより“葉月コンツェルンの専務取締役”の呼び出しだ、というつもりで居た。
“最後まで付き合えというならそれでもいい”程度に思っていた。それだけに下着もいつもよりいいものを着けている。
“決して自分の将来にマイナスにはならないだろう。それにこの男の性格はある程度理解している。結婚式からこれまでを考えれば、もしそうなったとしても悪いようにはしないだろう”そう思うと肩に力が入ることは無かった。
「慣れているんですね。誘われることに」
食事が終わり、最上階のラウンジでドライマティーニを飲んでいると、キャンドルの炎のゆらめきに映る“ほんのりと赤く染まった顔”が、大人の女性の魅力を見せていた。
「慣れてなんかいません。今日は業務命令のつもり程度です」
優は玲子の言葉に少し考えると
「手厳しい」
少しだけ彼の顔を見た後、目をキャンドルの炎をゆらめきに移して
「逆らえばマイナス。でも逆らわなかったら少なくともマイナスにはならない。それだけの事です。私も二九です。理解できる事は理解します」
そう言って彼の顔に視線を移しながら手に素敵なフルートグラスを持つとブーブクリコのイエローラベルを口に含んだ。
「それに葉月専務は話して分りました。優しいということが。あの子があなたに引かれた理由がやっと分った気がします」
あえてカリンの名前を避けて言う玲子に少しだけ苦笑いをすると
「行きましょうか」
そう言ってウエイターに会計を求めた。
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