第35話 表舞台 (4)


「志津、遅くまですまない」

「いえ、かおる様のお世話をするのは、この志津の務めですから」


両親とは別に目黒のマンションに一人で住んでいる。志津は、生まれた時から、かおるの世話役だ。もう夜中の一一時を過ぎているが、自分の帰宅を待ってくれている。


付き合いたくもない夕食会に出席した後、拓と会ってからの帰宅だ。

“私もそろそろ、決めないといけないか”

父親に“好きでもない男に抱かれるくらいなら自分が後を継ぐ”と言って強気に出たものの、やはり父親の仕事はきつく、少し精神的に効いていた。


本来は自分の好いたパートナーと結婚し、その上でこの仕事をすれば、少しは精神的にも肉体的にも負担は軽いだろうが、仕事を徐々に引き継いでからは、そんな暇も無かった。 

ただ、体だけは既に大人の女になっていた。カリンと同じ二九歳。一段と魅力を増したその容姿に行く先々で父親を通して声を掛けられたが、かおるから見ればあまりにも中身の無い男達にしか映らなかった。


故に、今だ、浅井拓と付き合っている。と言っても向こうも結婚するつもりは無いらしく、自由な身持ちを楽しんでいた。

それは、かおるにとっては、都合が良かった。拓といると心が休まるのも事実だ。しかし、彼は定職につかず、アルバイトのような事をしては、今だに両親の家の三畳一間の部屋に住んでいる。

親がそんな“だらしない息子”をほうっておくのも不思議に思ったが、かおるにとってはどうでもよいことだ。


「拓と結婚する訳にもいかないし。カリンはさっと結婚してもう子どもが二人もいる」

独り言をつぶやきながら、ソファに“どっと”体を横たえた。


カリンの子どもは、かおるにとっても目に痛くないくらい可愛かった。ただでさえ“愛くるしいカリン”が産んだ子だ。その子はカリンと同じ位可愛い。

かおるは羨ましいとは思わなかったが、自分自身の時間の流れにほんの少しだけ、気持ちが揺らいでいた。

風呂から出た後、鏡の前で自分の体を見ながら、拓にしか見せた事の無い体を見て、

「少しやせたかな」

そう思いながら、タオルを巻くと頭に別のタオルを巻いて部屋に戻った。


「お嬢様、お迎えが参りました」

「分った」

そう言って玄関に出ると志津が見送りに出てきた。

「では行って来る。今日は少し遅くなる。無理しないで先に寝ていてもいい。志津も無理が聞く年ではないだろう」

既に六〇をとうに越えた大切な世話役に声を掛けると志津は、頭を上げないまま

「お嬢様、お気を使わないで下さい。志津は、お嬢様のお世話をするのが、何よりの元気の源です」

そう言って、涙が床に落ちるとかおるは、本当に申し訳ない顔をして

「志津ありがとう」と言った。


エレベータは専用になっている。誰も会うことなく一階まで行くと“お付の者”が後部座席のドアの前で待っていた。

マンションの他の住人とは顔を合わした事はあまり無い。たまに一階で会っても少し“にこっ”とするだけで声は掛けない。向こうも“どこのお嬢様”程度にしか興味はなさそうだった。


車が、丸の内北口にあるビルの前に停まると、待ち構えたように数人の男が車の後部座席の前に並ぶ。

セキュリティたちと秘書の元山だ。かおるの姿が車から現れると頭を深く下げて挨拶をしたが、かおるは何も言わずビルの中に入って行った。


かおるには生まれた時から備わっているものがある。人を一歩下がらせる“人となり”の雰囲気だ。それが家の威光によって自然と磨きがかかり今に至っている。

かおるは、三二階にある父の執務室に顔を出すと、秘書のものから今日のスケジュールを受け取った。


「お父様、衆議院の議員の方との昼食会の後、UFA銀行で経営報告があります。その後は、経団連の会合です」

そう言って、父の顔を見ると

「かおる、そろそろ一人で行ってみるか。お前もその立場についてから一年半が立つ。もう独り立ちしてもよいだろう。私も年だ」


かおるが生まれた時、父は既に四〇を過ぎていた。その後、直ぐに妹が生まれたが、母親は、妹の方しか可愛がらず、かおるには目もくれなかった。

母親の系統である美しさを持つが故か、それとも男に生まれなかったせいか分らないが、母親からの愛情は無い。

かおるは自然と父親の方へ愛情を求めた。父親も娘のそんな姿がいじらしく、自然とかおるへ愛情をそそいだ。それがよけい母親とかおるとの距離を離してしまった。


既に七〇を過ぎた父に言われると

「分りました。お父様、私一人で行ってまいります。ご報告はその後にいたしますが、よろしいですか」

「本日中でなくても良いが」

「いえ、それは出来ません。経団連との会合は二一時に終わります。その後戻ります」

「そうか」

と言うと、一段と美しくなり、跡取りとしても立派になってきた可愛い娘を、目元を緩ませながら見ていた。


「ところでかおる、お前も二九だ。そろそろ考えないか。お前の目に掛かる男がそうたやすく見つからないのは分っている。しかし、私も年だ。せめて孫を見てから死にたい」

「お父様」

そう言うとかおるは、申し訳なさそうな目をして

「お父様、私のパートナーとする人間にこの仕事をさせなくても良いと言うならすぐにでも致します。しかし、もしパートナーとしてこの三井を継ぐ者なら私の目に掛からない男は許せません」

かおるの言葉に

「あのだらしない男か」

かおるが、なにも言わず頷くと

「少し考えさせてくれ」

以前では話題にもしなかった父が、かおるには信じられない言葉を聞くと、珍しく弱気になった父親を見て、少しだけ心が揺らいだ。


議員との昼食会と言っても食事をするのが目的ではない。今後のビジネスをする上で彼等をどう利用するかだ。向こうに取っては、自分たちを潤してくれる企業に対して意見交換という形で情報を流す。かおるにとっては重要な場だ。


そしてUFA銀行から経営報告の会議が終わると少し時間が空いた。父の元へ行き、先に報告と思ったが、一時間半という中途半端な時間では、戻って報告をしてもまともな説明時間がないと思うと、車を経団連の会合があるホテルへと向わせた。


一室を取らせ少し休む事をしようと考え、部屋に行こうとすると、かおるは見知った顔が見えた。

「あいつも今日の会合には出席するのか。当たり前か」

そう思うと少しだけ心が揺れる気がした。


会合と言っても立食パーティのようなものだ。それぞれに自分の人脈を作りながら仕事に繋げる。かおるにとっても重要なパーティだった。会合が始まり直ぐに視線を会場全体に流すと数人の男に囲まれてあいつはいた。


かおるの周りには何人もの男が仕事と興味で集まっている。うまく挨拶を流しながら、あいつを見ていると、その取巻き見たいな連中から場所を外して、廊下に出て行った。


かおるは自分も用事が有るような振りをして廊下に出ると

「葉月さん」

と声を掛けた。優は、声の主に振向くと

「三井さん、いらしていたんですか」

「当たり前です。仕事ですから」

「お父上は」

「今日は私一人です。そろそろ父も休ませる時期になりました」


“優は、その若さで総帥としての立場になるのか”と思うと少しだけ身構えて

「そうですか」と言った。


「最近お活躍のようね。耳にしています」

優はまた

「そうですか」と言うと

知り合った頃から攻撃的な態度を見せる、かおるに気を許せなかった。ほんの一瞬のあの時を除いては。


「葉月コンツェルンとは、仕事でも深い関係が有ります。嫌でも若き専務の手腕は耳に届きます。ところでカリンとお子様は元気」

ほんの一瞬だけ優しい目になると優も

「ええ、妻も子どもも元気です」


妻という言葉に一瞬だけ心を刺された気がした。

“中学校で初めて会って以来、ずっとそばにいたカリン、私の心の中で本当に気を許せる友達。その大切な友達を私から奪って行った。この男だけは・・”

そう思うとまた、厳しい目つきになった。


「三井さん、今日会合が終わったら、少し時間頂けませんか」

彼の質問の意図が理解できないまま“どきっ”したが、

「よろしいですが、どのような事でしょう」

「いえ、少し話をしたくて」

かおるは、少なくない心の揺れを感じていた。


会合が終わる前に父親に電話を入れて

「報告は明日になります」

と連絡すると彼と一緒にホテルにあるラウンジに行った。


テーブルを挟んで座る二人にウエイターがジャックとブランディを運んでくると

「葉月さん、どのような事で」


“この男、気を許してはいけない”という思いがかおるには有った。その意味は自分自身の心の底にあるそれとつながっている。


優は、“なぜ、自分にこんなに厳しいんだ。確かにカリンとの結婚する前の自分の責任は重い。その時それを責められても仕方ないと思った。しかし、既に昔のことだ。カリンとは二人の子を産み、家族の間はうまくいっている。何故この人は、こんなに厳しい顔をするんだろう”と思うと


「三井さん、葉月家と三井家は、我々が生まれるはるか前から共に協力し成長してきた企業です。いまやこの日本にはどちらがかけてもバランスが取れないほどに各産業に浸透しています。僕としては三井家とこれからもビジネスパートナーとしてうまくやっていかなければいけないと考えています」

それだけ言うと優は一度言葉を切った。


かおるは、何を言うつもりなのだろうとまだ出方を伺っていた。


「三井さん、あまりうまい言い方ではないかも知れないが、あなたの僕に対する姿勢は必ずしもそれに沿っているとは思えない」

優はここまで言うと相手の出方を見ようと思った。


少しの間、時間が流れた。


かおるは言葉を無視するかの様にブランディを口元に持っていき、ゆっくりと口に含むとその“香の味“を広げた。そしてゆっくりと喉に通すと

「葉月さん、言っている意味が分りません。私は、あなたに対してなにもしていません」


その通りだった。かおるは優に何もしていない、厳しい目以外は。優は思考をめぐらすと今度は、ストレートに言った。


「そのあまりにも美しい目です。そしてあまりにも厳しい目。他の方を見る時、ましてや自分の妻や子どもを見る時の目と比べると、あきらかに僕を敵対視しているように感じる」


かおるは戸惑った。こんなにストレートで来るとは思っていなかった。確かにカリンとの結婚前は意味もあった。だが今の自分が彼に対して厳しい目をするのは、“心の緩み”を見せたくないことを自分自身で分っているからだ。


“この男はカリンの夫”その思いがよけい厳しい目を自然とさせた。


「葉月さん、三井の家と葉月家が、今後とも良きビジネスパートナーとして発展していく事に何の異存もありません。しかし、それは企業としての事です。私は個人的に・・・」


優は何を言いたいのか見えなかった。ただ、かおるの目が厳しい目から少しだけ緩みを見ると言葉を切るように


「分りました。何故そこまで僕を敵対視するのかわかりません。ただ妻へのあなたの気持ちだけは、変わらないようにして頂ければと思います」


そう言って、優は理解できない自分への気持ちを聞こうとしたが、目の前に座る美しい女性の心を聞くことができないと思うと席を立った。


かおるは、心への突き刺すような彼の言葉にショックを受けていた。


“自分自身がなぜこの目をしなくてはいけないのか。この男には理解できないのか。カリンとは流れの中だけで今に至っているのに、自分の流れには、全くこの男の流れは沿わないのか”

そう思うと少しだけ、目に涙が潤んだ。


立ち上がった優は、じっと見ていた。“何の意味だ”そう思うと帰ろうとした足が止まった。


「葉月さん、どうぞお帰りになって下さい。目に少しごみが入ったようです」

そう言ってハンカチで目を覆うとよけい涙が出てきた。なぜか止まらなかった。声を出さないようにして下を向いていた。少し間そうしていると心が落ち着いてきた。


“もうあいつも帰ったのか”そう思って顔を上げると立ったままの彼が居た。

「何故帰らないのです」


切れ長の美しい目が涙で潤っている。かおるは見られたくない姿を見られたようによけいきつい目をすると


「三井さん、なぜです」

優は全く理解できなかった。


“自分への敵愾心を思いっきり目に出しながら、涙を見せるこの女性。どういうつもりだ”という思いしかなかった。


「葉月さん、失礼します」

そう言って三井かおるは“すっ”と席を立つと逃げるように立ち去った。


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