第34話 表舞台 (3)
「優、行ってらっしゃい」
玄関で靴を履いた後、軽く抱擁されたカリンは、これから出社する夫の優を見ていた。
彼はカリンを抱擁した後、優一と花音を順番に抱いて頬を自分の頬に合わせた。
「カリン、行って来る」
さわやかな可愛さから、大人の女としての魅力が加わってきた自分の妻に微笑むと玄関を出た。
外には、黒塗りの車が停まっている。自分の姿を見ると頭を下げながら後部座席のドアを開けた。
ダイナース・オリンピアを退職した後、数ヶ月の時間を持って今の立場についた。周りは当然のように受け取ったが、自身は、相当なギャップを感じている。
回りの人が、
「おはようございます」
と声を掛けると、つい自分も
「おはようございます」
と言いたくなった。
始めて出社した日など周りの声に都度対応していた時、
「専務、無視してください。威厳を保つ為です。専務は、二〇〇社を超える会社の頂点に立つお方です」
秘書からの声に戸惑ったが、今は慣れてきた。自分の部屋に入り、席に着くと早速、秘書の北川が、
「専務、本日のスケジュールです」
と言って、説明をしはじめた。
本社ビルは、溜池にある。その二五階にある自分のオフィスから四〇〇メートル先にある三井家の経営するホテルを見た。
“あの人は、始めからうまく行っているのだろうな。生まれた時から備わっているものがある”
そう思いながら顔を秘書の方に向きなおすと
「では、早速、“五島産業の買収”に関する会議が一五分後に行われます。お時間になりましたらお迎えに来ますのでお願いします」
そう言って部屋を出て行った。
「土地、建物などを含む債務、債権を検討しました結果、五島産業の買収には、十分な利益が出ると考えます」
法人営業第一本部営業二部の新垣部長が自分の案件を自慢そうに言うと
「では、採決を」
と言って、執行役員が決を取ろうとした。
「待って下さい」
大きなU次形のテーブルに座る役員の全員が、優の顔を見た。
「専務、何か」
隣に座る役員が“何か疑問でも”という顔をすると
「五島産業の知識財産権に関する報告がこの中にありません。また、土地について我社の不動産部門の評価記載がありません。更に債権の明細に担保物件となっているものがあります。これに関する評価記載がありません。これら全て、詳細に再度の報告をさせなさい」
そう言って、隣にいる役員の顔を見ると少し驚いたような顔をした後、新垣の顔を見て
“どうなんだ”という顔をする。
「申し訳ありません。再度上程させて頂きます」
と言って頭をテーブルに着くまでに下げた。
「社長、専務の評判とても高いです」
“うんっ”という顔をすると
「お若いながら、ご指摘や行動力、さすがは、社長のご長男とみんなが褒めております」
「世辞は、いい。別の評価は」
「はっ、少し手厳しすぎるかと」
「そうか」
そう言って、窓の外を見た。
“優、それでいい。甘く見られてはいけない。頂点に立つ人間は厳しく、そして隙を見せてはいけない”
そう思いながら息子の顔を浮かべると、ほんの少し目元を部下に悟られないように緩ますと更に遠くを見た。
「専務、一二時半から古宮議員との会食の後、西島建設の報告会議に出席、その後は二世会の会食になっております」
「北川、その二世会の会食というやつはキャンセルできないのか」
「専務、申し訳ありません。どちらの方も将来の日本、ひいては世界を背負っていく方たちです。ぜひご人脈の育成にご出席をお願いします」
懇願するように言う秘書筆頭の北川に言われると
「分った。何時までだ」
「予定としては、一九時半始まりの後、二一時に終わる予定です」
「そうか」
そう言って仕方ないという顔をすると北川は、頭を下げて専務室を出た。
“そんな事よりカリンの笑顔を見ながら食事をしたい”
この立場についてから、慣れない事に結構ストレスが溜まっていた。しかし、妻のカリンの笑顔と子ども達の顔を見ると“固くなった心”が緩み明日へのエネルギーが出る。
特に子ども二人産んでくれたとはいえ、カリンと体を合わせると本当に心が安らぐのであった。
西島建設のビルの入口に入ろうとした時、頭を下げる従業員の中に見知った顔があった。“あの人は確か”そう思うとそのままその人の前を歩きながら
「北川、今の女性は」
「えっ」
そう言って、彼の顔を見た後、後ろを振返り、
「直ぐに聞いてご連絡します」
無言で頷くとエレベータに乗った。
会議は、一時間近くかかった。報告書の不備を指摘された営業部長が、その言い訳に時間を割いたからである。
“基本的なところから直さないといけない”そう思いながらやっと終わった会議室を出ると北川が
「専務、先程の女性ですが」
と言ってファイルを見せて来た。
写真に写る女性の顔に確かに記憶があった。カリンとの結婚式の時、来てくれた女性だ。三井の令嬢のそばにいたので記憶に残っている。
“橋本玲子。西島建設、法人営業本部第三部。途中入社”
「専務、その女性が何か」
「いや。なんでもない」
そう言って、ファイルを北川に戻すとエレベータに向った。
「“ちい奥様”には、私の教える事はもう有りません。奥様」
そう言って頭を下げる踊りのお師匠が言うと、嬉しそうな顔をしながらカリンの顔を見た。
「お母様、まだ、私は何も覚えておりません。お師匠様の言葉に惑わされずに、私の至らぬところをご指摘頂ければ嬉しく思います」
優の母は、自分自身のレベルは良く分っていた。それゆえにカリンのレベルはとても分った。指先、足先、腕の動き、どれをとってもカリンが上だ。
「花梨さん、師匠もそう言っております。そろそろ名を継いでは」
カリンは、言葉に意味を感じると
「お母様、とても出来ません。まだまだ教え頂かないと」
と言うと、目元をこれ以上緩まないくらいの表情をしている優の母は
「お師匠。娘もそう申し上げおります。よしなに」
そう言って、頭を下げた。
「優、もう私限界。これきついよ。葉月家に来たらちょっと楽になるかと思ったのにー」
そう言いながら優一と花音の顔を見ながら甘えた声で言うと
「優、どうしているの」
「えっ、どうしているって」
言われても
「ねえ、優は、私といない時どうしているの」
痛烈な言葉だった。
「いやっ、・・・」
「何が、“いやっ”なの」
「えっ」
カリンの質問の意図を悟った優は、
「うん、少しお酒飲んで眠りやすくして直ぐにベッドで寝るよ」
少しだけ心に呵責を感じながら言うと
「ふふふっ、優は昔から嘘が下手。というかつけないのね。優のそんなところ大好き」
そう言って体を優につけて手を背中に回すと
「なぜ、そんな事聞くの」
素直さだけで聞くと
「優が心配だから」
「えーっ」
“やっぱり自分の妻はやきもち焼きだ。気をつけないと”
と思うとこれ以上、突っ込まれないように自分の唇でカリンの唇を塞いだ。
少し体を彼に預けながらそのままにしていると優一がまた、“きょとん”としている。
カリンは、その顔を見ると仕方なく自分から唇を離して
「優、残念だけど、子どもたちを寝かしてから」
そう言って彼の腕の中から離れて花音を抱いた。彼は三二歳、カリンは二九歳になっていた。
「カリン、そう言えば結婚式の時、来てくれてかおるさんのそばにいた女性、うちの関連企業にいたよ。知っている」
「えっ、玲子が。なんて会社」
「西島建設法人営業本部第三部」
「へーっ。知らなかった。でも何故知っているの」
「うん、今日、西島建設の経営報告会議に出るので行ったら、ビルのフロアで会った。頭下げていたので人違いかなと思いながら秘書の北川に聞いてもらったら、やっぱりそうだった」
「ふーん、あれから会っていないな。確か世田谷の弦巻にご両親と住んでいたと思うけど」
「そう」
他愛無い話をしながら風呂上りの頭をタオルで拭いていると彼が“じーっ”自分を見ているのが分った。
「優どうしたの。なにか私についている」
「いやっ、なんでもない」
既に子どもは、隣の部屋で寝ている。
カリンは、ドレッサーの前で体をタオルに巻きつけながら、頭を別のタオルで拭いていると、なぜか、彼がソファで“じっ”と見ていた。
「優、エッチ、あまりじろじろ見ないで」
「えっ」
優は、少しだけ変わった自分の妻の“タオルに巻かれた体”を見ながら近づくと
「カリン」
と言って優しく後ろからカリンの体を抱き締めた。
「待って、まだ髪の毛が乾いていない」
「いいよ」
「だめ。明日も習いがあるの。“きちっ”としないとお母様にしかられる」
「いいよ」
もう一度
「だめ」
と言ったが、彼が首筋に唇を付けると
「もう」
と言いながらカリンは目をつむった。もう大人の女性になっていた。
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