第33話 表舞台 (2)
「優、明日は、早く帰って来て」
「分っている。こっちの仕事が終わったら直ぐに帰るよ。優一と花音は」
「もう寝た。隣の部屋で寝ている」
「そうか、じゃあカリンお休み。明日なるべく早く帰る」
「うん、じゃあお休み」
優は、葉月コンツェルンの専務取締役として就任した。いずれ父親が会長になり自分が社長になる為の準備期間だ。
葉月コンツェルンは、葉月コーポレーションを筆頭に医療、銀行、商社、建設、証券業界に企業を持ち、それぞれにグループ系列を構成している。そして法律関係を一括で対応する法律事務所まで持つ複合企業の頂点に立っている。
全ての会社は、葉月家が七〇パーセント以上の株式を持ち、その一つ、葉月トレーディングの大阪支社に出張で行っていた。
カリンは、大阪に出張した優と電話が終わると寂しそうにスマホの通話をオフにした。
カリンは、隣の部屋をちょっと覗くと優一と花音が気持ち良さそうに寝息を立てて寝ていた。
彼といつも一緒にいるベッドに横に座るとドレッサーを見た。可愛いまでにうるおしい顔が、二人の子どもを産んだことで、女性としての顔に少しずつ変わってきている。カリンは自分の姿を見ながら、いつのまにか変わってきた自分の体を見ていた。
優と子どもしか知らない胸、彼しか知らないこの体。初めて彼に抱かれてから“ずーっ”と彼しか知らなかった。自分を除いては。
カリンは、ベッドにゆっくり入るとそのまま、目をつむった。
優は、カリンとの電話が終わると時計を見た。午後一〇時半を少し過ぎたところだ。確か、“四階のバーは一一時半までやっているはず”まだ眠るには早いと思い、軽くウィスキーを飲んで眠ろうと考えた彼は、自分の部屋を出るとエレベータに乗った。四階で降りると左に曲がり更にゆるく曲がった左に行くとバーが開いていた。
特に入口でボーイなど居ないので、そのままカウンターに行くとバーテンにいつも飲んでいるジャックをダブルのロックで注文した。
“これを飲めば寝れるだろう。明日は、一〇時からの会議に出た後、昼には、新幹線に乗れる。いまは、新大阪-東京間は、一時間半。十分に早くなった”と思いながら、チェイサー代わりに先におかれた水を飲んでいると大きなロックアイスと一緒にジャックが入ったグラスがコースターと共に優の前に置かれた。
グラスを口元に持ってくるとバーボン特有のにおいが鼻に入ってきた“やっぱりこれだな”そう思いながら、少し口につけると口の中で軽く回し喉を通した。
「葉月さん」
背後で女性の声がした。優は、こんなところで自分に声を掛ける女性などいないはずと思いながらゆっくりと後ろを見ると、切れ長の目が特徴の美しい女性が立っていた。更に後ろを見ると“お付の者だろう”男が一人立っていた。
その女性は、その“お付の者”に目を流すとその男は軽くお辞儀をして去って行った。
「三井さん」
「やっと表に出て来ましたわね。カリンは元気」
鋭い目を緩めることも無く彼の顔を見ると
「今も電話していたところです」
「そうですか。私の心から大切な友達です。大切にしてください」
そう言うと少しだけきつい目を緩めた。
「三井さん、ここへは」
そう言って、何の用事で大阪までと暗に聞くと
「父の付き添いです」
優は少しだけ黙った“三井家の跡取りが父の付き添いということは、いよいよこの人も表舞台に出ることに決めたのか”そう思うと
「いつ、前の会社を退職したのですか」
「一年前です。父の仕事を手伝う事になりました」
“決して手伝うことしましたと言わないところを見ると自分の意思ではなさそうだ”そう考えると
「そうですか」
と言った。
「あちらの件は、すっきりしたようですね。もうあのような事のないことをお願いします」
暗に“もとか”との関係を問われると
「もう昔の話です。忘れました」
そう言って少し遠くを見る目をした。忘れるはずがない。
“母親が違うとはいえ、父親は一緒だ。実際には兄と妹であるにも関わらず体の関係を持ち、ましてや子どもまで作った。そしてカリンに強く決心させるまでに至らせた自分の責任は重い”忘れようとして忘れられるはずがないことに少しだけ胸が痛んだ。
“いずれ裕一も不思議に思うことがあるだろう。その時は”そんなことを考えながら黙っていると
「思い出されるのは自由です。しかし戻れる道でないことだけは理解できていますよね」
そう言ってまた厳しい目になった、かおるに彼は、はっきりとした目でかおるを睨んだ。
“君に言われる筋合いはない。これは僕の家族の事だ”そんな目だった。
かおるは、一瞬“どきっ”とした。“この人にこんな目があるなんて”いつもかおるから見れば芯のない男にしか見えなかった。
カリンから紹介された時も“葉月家の人間”でなかったらこんなに厳しい態度をすることもなかっただろう、そんなことを考える自分に少し驚いていた。
「三井さん、何か飲まれます」
「ええ、ブランディを少し」
そう言ってバーテンに目で指図すると分っているかのようにヘネシーのコニャックを持ってきた。
「そうか、ここは君の一族の系列だった事を思い出したよ」
そう言って、バーテンの仕草だけで気がつく彼に少しだけ驚いた。
少し、お酒が入ると一段と輝きを増す綺麗な顔に引き付けられるような唇がしっとりとぬれていた。
彼は、少しだけ“じっ”とかおるを見るとジャックの入ったグラスを持って三分の一位を“ぐっ”と飲んだ。
「ふふっ」
かおるは微笑んだ。ほんのりと赤い顔がキャンドルの炎に映されて隙を見せているかのようだ。
「葉月さん」
それだけ言うと彼の顔をやはり“じっ”と見た。少しの間、二人の間に沈黙が流れた。
光るように磨かれた髪の毛、大きくて切れるように美しい瞳、“すっ”と通った鼻筋に吸寄せられるような唇。
首から胸元にかけて見える、透き通るような肌がキャンドルの炎で悩ましく映る。そして適度に大きい胸。少しだけ胸元を開けてある。胸の部分に目をやると
「ふふっ、葉月さん、カリンほど大きくはないですよ」
そう言って、誘っているかのような仕草をした。
優は明らかに頭の中で“自制の線”が解けて行きそうになる自分と戦った。“何を考えているんだ。俺は”そう思いながらかおるを見ていると
「葉月さん、部屋に戻られた方がよろしいのでは」
そう言って暗に“まだ、私を相手するほどの男ではない”という目をした。
「そうですね。そうしましょう」
途切れかけた“自制の線”をもう一度繋ぎ直すと彼は、バーテンに請求書を持って来させた。彼がルームナンバーを書くとかおるはそれを横目で見ていた。
かおるは“自分の体は三井を継ぐに値する男に捧げるだけだ。そして子どもを宿す。それだけだ。もし、それ以外の男が私をほしいと思うならそれだけの価値を見せればいい。いくらでも抱かれてやる”そんな気持ちでしかなかった。
それが、かおるにとってカリン以外に心を塞いでしまった原因になっている。そのことを自分で理解しているからこそ、逆説的に“拓”みたいな不釣合いな男を選んでいるのかもしれない。
かおるは、カリンの夫が帰ったカウンターの席を少しだけ見ていた。そして“ふん”と思うと自分もカウンターの椅子を立った。
最上階のスイートルームでかおるは、鏡に映る自分自身を静かに見つめていた。
“あの男にだけはこの体を許す事は出来ない。カリンを裏切る事は出来ない”そう思いながら心の底に残る違和感を無理やり押し殺そうとしていた。
父が紹介した長崎という男も所詮中身のない人間だった。父親に言って、男との事は無しにする代わりに自分が、父の後を継ぐ意思を示した。
かおるの父親は、少しだけ難色を示したが、かおるが“結婚によって三井を守るくらいなら、結ばれるより自分自身がこの家を継ぐ。好きでもない男に抱かれるくらいなら自分で後を継ぐ”と言って父親を説得した。
母親は驚いた。自分自身“三井の家に嫁ぎ何一つ不自由なく生活し、女は男に嫁ぐもの”と思っていただけに娘の言葉に驚いたが、意見を言える立場でもない事を理解しているが故にこの件に関しては沈黙を通した。
そして一年前、かおるは三井インジェクションを退社した。ただその時だけ、隣の女の子に自分の素性を話した。
ゆっくりと彼女の瞳を見ながら
「いままでありがとうございました。ほんの少しだけ本当は・・でも何となく分かっていたのよね。ごめんなさい。三井の家を継ぐものとしてあなたに何も言えなかった。でも本当にありがとう」
彼女は目を丸くしてただ驚くばかりだったが、かおるが“今までありがとう”と言うと涙を流して喜んでいた事を思い出す。
そして今は、総帥である三井の父の元で少しずつ事を覚えている時期だった。
かおるは、鏡に映る自分自身に一瞥するかの様にするとその場を離れバスルームに行った。
次の日、優は一〇時から行われた支社の会議に出席した後、急いで新幹線に乗った。
カリンに会いたかった。“かおるのせいかもしれない”。そう思いながら窓の外に映る景色を見ていた。家に帰ると
「カリン、ただいま」
そう言って玄関に入ると
「はーい、お帰りなさい、優」
そう言って、花音を抱きながら優一と一緒に現れた。優は、優一を抱き上げよとすると
「優、だめ。手を洗って着替えてから」
いつの間にか母としての自覚がしっかり付いたカリンは、彼が優一を触ろうとするのを制止した。
「カリン、そんなこと言ったら、優一、外で遊べないよ」
「大丈夫、きちんと外で遊んでいます」
そう言って優一の手を引いた。
優は仕方なくバスルームにある洗面台に行くと自動的に明かりがついた。母親が、カリンが手を塞がっている時や優一がまだ小さいからと、人感応センサーをつけた。洗面台とバスルームにだ。
母親のカリンに対する愛情は深く、本当の子どもでここまでするかという位だった。もちろん優一にもだ。
優は、手を洗いとうがいをすると二階に上がりスーツのポケットから小物を出すとウォーキングクローゼットの前にある洋服掛けにスーツを掛けた。
そして花音を抱いているカリンから、花音を取り上げて頬を可愛い娘の頬に摺り寄せるとゆっくりとソファの上に置いた。
そして、カリンを抱き締めると唇を合わせた。更にきつく抱かれるとカリンの胸が自分の胸に押し付けられるようになった。もっと強く抱きしめたかった。
“優、どうしたの”そう思いながら彼の口付けを受けているといつの間にか彼の手がお尻の方に行っていた。仕方なくそのままにしていると優一が“きょとん”とした顔をしている。彼の胸に手をおいて唇を外すと
「優、子どもが見ている」
そう言ってそれ以上されるのを制止した。彼は、恥ずかしいような顔をして
「ごめん、カリンに会いたくて急いで帰ってきたんだ」
甘えた様に言うと
「わたしもよ」
そう言ってカリンは、彼の唇にほんの少自分の唇を当てた。
優は、本当は昨夜の“心のわだかまり”を忘れたかった。妻であるカリンを抱けば忘れるだろう思った。でも現実は、二人の子を持つ母であることを実感させられた。
“さわやかさ”に女としての“色気”が出てきた妻はとても魅力的だった。直ぐに近所でも評判になった。
彼女が歩くだけで“さわやかな春風”が吹いた気分させられると。
それだけに母親も鼻が高く、カリンを大切にする要因の一つでもあるようだ。だが二八歳といえば立派な女性だ。当たり前の話だが。
優は知り合った時のカリンの“天然の純真無垢”な女の子がここまで変わるとは思っても見なかった。まして自分が原因とはいえ、そこまで芯のある女性だったとは。今、目の前にいる女性は確かに自分の妻だ。
でも僕が“一生大切にする恋人でもあるんだ”その気持ちだけは変わらなかった。そう言う意味ではカリンと優は間違いなく結ばれていた。“愛”という見えないもので。
「優、どうしたの。また何か考えている目で私を見ている。何かあったの」
“じっ”と下から覗くように自分の目を覗き込まれるとつい手を頭の後ろにやって
「いや、なにもない」
「本当、優、正直に言いなさい。隠し事はだめよ」
そう言って、更に目を近づけると
「いや本当だ。何もない。ただ最近、カリンが“さわやかさ”に、たまに“女の人の色気”を“チラッ”と見せる時があるので・・・」
優は、またまた失言を悟った時は遅かった。左の頬に既にカリンの手が伸びていた。
「いたーっ」
「たまにだけ余分です。もう私は大人の女性です」
「わはらった・・から。手はらし・・」
「じゃあも一度言い直しなさい」
「カリンには“さわやかさ”に“女の人の色気”がしっかりと出てきて」
そこまで言った優の口に人差し指を当てると
「じゃあ、許してあげる」
と言って目を閉じた。
優は、今度は優しく彼女を包むとゆっくりと唇を彼女の唇に当てた。少しの間そうしていた。ゆっくりとカリンが自分の体に倒れるように寄りかかってくると
「カリン、子どもが見ている」
今度は、彼が、途中で止めた。カリンは、
「もうっ」
と言うと仕方なさそうに花音をソファから抱き上げた。可愛かった。カリンに良く似た目のはっきりした女の子だ。
優はたまらなくて頬を娘の頬に摺り寄せると娘が泣き始めた。困った顔をしてカリンに渡すと、直ぐに泣き止んだ。カリンは
「ふふふっ」
と笑って
「優ももっと家にいて花音を抱いてあげないと覚えてくれないわよ」
と言った。優は、
「うーん」
という顔をして優一を抱き上げると嬉しそうに笑ったので
「ほら優一はこんなに笑ってくれている」
そう言って思い切り目元を緩ませた。
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