第32話 表舞台 (1)


カリンは、出産二ヶ月前にダイナース・オリンピアを退職した。彼女の退職は、同じ部署の小池にとって、ショック極まりないもので有った。

しかし理由が理由なので仕方なく思うと、今度は、“送別会だ”と言って騒いだ。カリンの心のファンは多く、三〇〇人いる社員のほぼ全員、社長までが、色紙にメッセージを書いてくれた。もっともその原因を作った彼には、男の社員からどういう目で見られたかは、“察し”の通りである。


「おい、葉月、口に出したくもないが、ここにいる全員でお前の首を絞めたいと言っている」


結婚式の時のショックから立ち直った自称先輩が、“奥方の為の送別会の代理”とかわけの分らないこと言って飲み会に連れ出したのだ。総勢一〇名。但し、葉月の素性を知っている者ばかりだ。


「えーっ、嘘でしょう。勘弁して下さい。先輩」

「どうしても首絞められたくなかったこれを奥方に渡せ。お前にではない」

大きな袋をいきなり体の前に突きつけられて仕方なく受け取ると袋の中を覗いた。今流行のリラクマの特大の人形だった。


彼は呆れるなり、嬉しくなって立ち上がって心から礼を言った。自称先輩は、彼の態度を見て更に

「但し、条件がある。目の前のボトルを今日中に開けろ」

と言った。仕方ないという顔をすると

「じゃあ、先輩たちも」

と言って一緒に飲み始めた。


カリンとの出会いからその後の事まで“根掘り葉掘り”聞かれた事を適当に流しながら話していると、いつの間にか自称先輩は途中で眠りに入った。

会社で側に座っている仲のいい同僚が

「ところで葉月、お前自身どうするんだ。親父さんの後もあるだろう。そろそろって感じじゃないか」

「うーん、父親はまだ元気だ。だが、元気なうちに色々覚えなくてはいけないものもある。長男として生まれたから仕方ない。母親はカリンのことがすっかり気に入っているから、俺がまともにしないと、それこそ“カリンに葉月家を継がせる”と言い出しかねない勢いだ。それではカリンが可愛そうだ。ここはがんばるしかないと思っている」


同僚は天宮さんのあまりにも“さわやかで可愛い”顔を思い出しながら

「俺には想像もつかないし、お前がこれからしなければいけない世界は理解できないが、お前のそんなとこ好きだぜ。まあがんばれや。あの“笑顔のさわやかな奥さん”の為にもな」

そう言って、お互いにジャックのグラスを目線まで上げると一気に飲み干した。

次の日、さすがの優も重い頭を抱えて出勤すると、隣に座る同僚が、

「葉月、あれ、今日は“撃沈“だと連絡があった」

と言って笑っていた。


カリンが、優一を産んだ後のにぎやかな時間も過ぎ、両方の親もやっと落ち着いた。そして何回かの春が過ぎ、そして葉月花梨になってから四回目の秋も終わろうとしていた。


カリンは、葉月家の生活がなじんできていた。彼の母親の習いもカリンの覚えのよさに“嬉しいのやら呆れるやら”というほどにカリンは吸収して行った。

いつの間にか“カリンへのチェック”はなりを潜めた。まだ二〇代にも関わらず、ほとんどが終わりに近づき、後は趣味としての世界に移りつつあった。ただ、料理の方だけは、成長が遅かった。


いつの時だったか、

「花梨さん、ちょっと“たらのお煮付け”少し味が濃くありません」

と言われて

「そうですか」

と言って、自分も食べて見ると“あっ、この味は”思い出しながら頭の中で“砂糖とみりんの量が違っていたのかなあ”自分の頭の中で考えながら不思議そうな顔をすると

「花梨さん。定量を入れた後、ご自分で味を確かめて調整しました」

「はい、確かしたような」

と困った顔をすると

「カリン、僕は美味しいよ。ちょっと濃いけど」

彼の言葉にカリンが“にこっ”とすると彼の父親は、

「あっ、花梨さん私もおいしいですよ」

と言って笑った。


諦めたように優の母親は微笑えむと“たらの煮付け”をお皿に取った。

あとで優はカリンに聞くと

「優、どうもみりんと砂糖の分量を間違えたみたい。院でこんな失敗なかったのだけどなあ」

それを聞いて優は、ソファからずり落ちそうになった。

「カリン」

と言うと苦笑いをした。でもなぜか彼の母親は、料理だけは寛大だった。彼とカリンが不思議がるほどに。


「優、どこー。ブランケット干すの手伝って」

カリンは、ゆっくりと歩きながら廊下を歩いていると

「あっ、お母様、優を見ませんでしたか」

まだ大きくないお腹を触りながら廊下を歩くカリンに、嬉しそうに微笑みながら彼の母親は

「優は確かリビングだと思うわ」

カリンが、リビングに行くとソファで居眠りをしていた。

「優、手伝って」

「んっ、何を」

眠たい目を擦りながら言う彼に話しかけた。

「なにを、じゃなくてブラケット」

「えっ、ブラケット」

「もう、干すの手伝って」

「あっ、分かった」

と言うとソファから起き上がってカリンと一緒に二階に行った。

二人の部屋は、二階の西側にバルコニーを持つ二部屋を自分達の部屋とした。最初は優の母親は、子供の事を心配し一階を勧めたが、“二階の西側に見える景色が良い”と二人が主張したので、今のところになった。


優の母親は、息子夫婦が来ると言うことで、キッチンやトイレなどの水回りや優一のためにとバス迄リニューアルする始末。

夫は妻がカリンの事で言い出したら止まらないことが分かっていたので好きにさせた。優の母親は、二人が来た当日からカリンと優一に対する愛情は熱く、彼が呆れるほどであった。


「ダイナース・オリンピアを退職するの」

「仕方ないよ。僕ももう三一だ。父親について、そろそろ葉月家の事を覚えないと。カリンは、ちょっと早く覚え始めたから良いけど」

優は自分の失言を悟った時は遅かった。ブランケットを持っているので両手が塞がっているところに

「優のせいでしょ」

といって頬をつねられた。

「いてーっ」

カリンと結婚してから“何度つねられたのだろう”と思うくらい自分の失言が有ったと思うと少し含み笑いをした。


「優、何含み笑いしているの。反省の色ないよ」

「そんなことない、そんなことない」

と言って彼は、また笑った。

「お父様のお仕事の手伝いをするということは、海外にも出かけるのでしょう。私寂しくなるな」

「大丈夫だよ。海外と言ってもほとんどがアメリカだし、出張と言ってもほとんど一~二週間位だし」

「十分に長いよ」

そう言って彼の顔を不安そうに見た。


二月に二番目の子が生まれた。カリンにそっくりな女の子だった。まだ目が見えないが、パッチリと開けた目は大きく、それだけでまつ毛が、目の上にくっ付いてしまうほど長く、よけい可愛く見えた。


優の母親は、一人目は跡取りを産んでくれ、そして二番目は自分が出来なかった女の子を産んでくれたカリンに、以前にもまして愛情を注いだ。

優はどちらが“実の子か分らないくらいだ”と思うほどだった。ただそれは優にとってもとても嬉しい事だったが。

優は、子どもが生まれるとまた睡眠不足が続いた。

「女の子、うーっ、分らん。どうすれば」

悩むほどにジャックに手が伸び、毎日二日酔いと睡眠不足で会社に行って居眠りしては同僚から小突かれた。


父親からは“病院を出るまでには、考えてあげないと可愛そうだ”と言われ、何とか“ない知恵”を絞ったが出てこない。三日目の夜中に

「えーい、もういいや」

なぜかなにも考えない中で、ぽっかりその名前が浮んだ“花音”。

“花梨の名前を一つとって花梨が産んでくれたしるしの音”後付っぽく思いながら、“これで良いや”と開放されたかのように眠ってしまった。


「カノン“花音”。素敵な名前ね。葉月花音、でもちょっとスタンダード」

彼が付けてくれた名前に不満はないものの、“もっと今風の名前をつけるかな”と期待していたカリンだが、彼が付けた名前ということで、もういま考えていたことなど忘れたように

「花音。君の名前だよ」

そう言って生まれたばかりの女の子の赤ちゃんを右手で赤ちゃんの頭の後ろにやりながら話した。


「本当に花梨さんそっくり。花梨さんのように“さわやかで素敵なお嬢様”になると思うと今から楽しみだわ。大きくなるのが。花梨さん、この子が大きくなったら三人で色々なところに出かけましょう。男たちは置いていけばいいわ」

そう言って嬉しそうな顔をする母親に優は

「お母さん。そんなに急がないで下さい。優一もまだ小さいと言うのに」

まだ二歳と半年を過ぎたばかりの優一が可愛い顔をして花音の顔を見ていた。

「優一も可愛いわ。じゃあ、女三人と優一ね」

彼は滑りそうになった。

「ったく」


葉月家に戻ったカリンは、まだ二歳の優一と花音の世話で結構忙しくなった。葉月家の台所をまだ、彼のお母さんに任せているから助かるものの、やはりまかせっきりというわけにはいかず、それになぜか優の母親は、カリンの料理下手だけには寛大だった。他の習いは厳しかったが。


「ただいま」

夫の声をキッチンで聞いたカリンは、リビングで彼のお母さんと遊んでいる息子の優一に声を掛けると玄関に行った。


「お帰りなさい」

優は、玄関まで優一と迎えに来た妻を見ると

“知り合った頃は、愛おしいくらいに可愛いかったのに、最近女性としての色気を少し感じるようになった。可愛さと綺麗さが出てきている。子どもを産んだせいなのかな”そう思いながら玄関で妻の顔を見ていると

「優、どうしたの。私の顔に何か付いている」

「いや、そういえばカリンいくつになったっけ」

「えっ、妻の年も忘れたの」

「えっ、そう言うわけじゃなくて」

「もう」

と言うと下を向いて

「まだ、二八ですけど」

と言って顔を赤くした。

「そうか」

と言って、また、カリンの顔を見た。


食事が終わり、子どもたちも寝かしつけるともう一一時を回っていた。

「カリン」

そう言って横でまだ眠りについていない妻の顔を見ると、カリンは目を開けた。

彼は“じっ“と自分の顔を見ていた。

「カリン、最近、子どものことばかりで相手してくれていない」

そう言って、また自分の顔を見た。

「優」

とだけ言うと体の疲れを我慢しながら

「いいよ」

と言ってカリンは目を閉じた。

彼がゆっくりと自分の唇に彼の唇をつけてきた。子どものせいで少し大きくなっている左の胸をゆっくりと彼の手のひらの中に包むように触られると、最近忘れていた感情がよみがえってきた。ゆっくりと触られると、やがて胸に変化が現れた。

彼が、指で意識的に触ると更に体の中により強い感情が走った。久しぶりだった。

「優」

と言って彼の背中に手を回すと、彼はゆっくりと唇を下げていった。


彼の手が、胸から、腰にそして自分のお尻に回ると、彼は、自分の体を横にしながら後ろから、そこに手を回してきた。心の底まで届くような気持ちが久々によみがえった。

彼に体をゆだねてからもう何年たつのだろう。そう思いながら、彼のするままにしていると、彼の唇がカリンの一番感じるところに降りてきた。

カリンは、彼の頭を触りながらされるままにしていた。ただ声が漏れていた。

やがて、彼は自分のそれを大事なところにつけるとゆっくりと入ってきた。

“この気持ち、この感触。彼が始めて教えてくれた。彼にしか見せていない自分自身”

そう思いながらカリンは、彼の腕の中で、体に走る久々の感情に浸っていた。

「カリン、出しても大丈夫」

「今は、大丈夫」

自制心が切れている中でそう言うと彼の感情が思いっきり自分の中に入ってくるのを感じた。


“いつのまに、こんなに好きになってしまったんだろう。こんなことを”そう思いながらも、もう前のようには迷わなかった。“自分は彼だけのもの”その思いだけが、カリンの心の支えだった。


「カリン、だたいま。今日で一通り手続きは終わったよ。明日から有休の消化に入る。今月末に一度挨拶に行ってダイナース・オリンピアの社員の身分も終わりだ。これからは立場が一八〇度変わると思うとなんとも言えない」

靴を脱ぎながら玄関で言う彼に

「お帰りなさい」

と言うと

「お父様が、“食事後に声を掛けてくれ”とおっしゃっていましたよ」

「お父さんが。今日はいるのか」

「ええ、“今日で実質、優は退職だからこれからのことを少し話さないといけない”と言っていました」

「えーっ、少しは休みないの」

と言って玄関に上がると仕方ないという顔をして首を横に曲げた。


優一と花音を隣の部屋で寝かしたカリンは、父親との話が思ったより長く一一時近くなって彼に心配した顔で“お風呂は”と言うと

「これから急いで入って来る」

と言って、階下に下りていった。


カリンは、彼の後姿を見ながら、なぜか心の中に忘れていた風の回廊が少しだけ現れたような気がした。

優とあの廊下で始めて会って以来、優はいつもそばにいてくれた。どんな時でもいつもそばにいてくれた。結婚した時も本当は普通の家庭でずっとそばにいてくれると思っていた。

彼の行動を知った時、少なからず心が揺れた。でも自分には優しかいない。心のどこを探しても優だけ。だから優があの人と体を合せ子どもまで作った時も、自分がその子を引き取り優のものはすべて自分のもの、そう思って受け入れようとした。

そして、葉月家の本当の姿を知っても優のそばにいれるなら何でもする。優は私の全て。私は優の全て。そう思って、どんな時も優を守ろうとした。そんな優が少しだけ離れていくような気がする。

優は私の思う心と違うのだろうか。そんな事ない。優は自分の全て。あの時言ってくれた“大切にするって、恋人にするって”心の中で問いかけながらその言葉が、いまでもカリンの心の支えであった。

“優、いつもそばに”

言葉にしない心の声にカリンは、少しだけ目元が潤んだ。


「カリン、出たよう」

そう言って、二階に上がり二人の部屋に入ってきた彼は、潤んだ目に寂しそうな顔をするカリンに一瞬、足が止まった。

彼は、自分の目を見ると何も言わず、ゆっくりとそばに来た。

優は、彼女の目の中に寂しさを見ると、さわやかな可愛さに女の人の装いが出てきた顔を見ながら

「カリン、もし、もし本当にカリンがいやだったらいいんだよ。葉月家は僕にとって大切な家だけど、カリンと比べたら何も無い。カリン」


すこしだけ時間が経つと

「カリン、ごめん、嘘ついたつもりはないけど、カリンに取ってはそう思っても仕方ないよね。いいよカリン。僕がずっとそばにいたいのはカリンだけだから」

そう言って、まだなにも言おうしない妻に彼は

「カリン、明日、お父さんとお母さんに話すよ」

そう言って、まだタオルしか巻いていない体をそばに寄せて目だけ見た。


「優」

それだけ言った後、

「大丈夫、私はもう“葉月家の女”ですから」

そう言って少しだけ目元に涙を溜めながら定められてしまった自分の運命を受け入れようとして、まだ消化しきれない気持ちを優の見つめる目に返した。

「優、お願い、私がどこにも行かないように抱き締めて」

そう言って、本当に救いを求めるような目をするカリンに優は、思いっきりカリンを抱き締めた。

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