第30話 セカンドバージン (4)
「志津、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
志津は、深くお辞儀すると生まれた時から世話をしている自分のご主人を見送った。門のある所をから玄関迄戻ると
「志津、かおるは出掛けたのか」
「はい、今出かけられました」
「かおるもそろそろ私の後を継ぐ準備をしてくれても良いのだが」
可愛いが故に好きに生きらせ、それがやがて将来の為の良い経験になると考えての事だった。
ところが現実は、不相応な男と恋仲になり世間勉強のつもりで子会社の社長秘書室に入れたのは良いが辞めようとしない。
辞めさせるのは簡単だが、それでは結果が裏目に出てしまう。あくまでも本人の意思を尊重することで、三井の家系を守る気持ちになるまで待つ必要が有った。
“女の子に生まれた故に、長女として生まれた故に、その宿命を背負わなければならない娘が気の毒と思うからこそ自由をさせて来た。そろそろ話すときか”
そう思いながら遠くに見える高尾山系を見ていた。
「おはようございます」
明るく声を掛けると返事が返ってきた。
「三井さん、おはよう」
かおるは、自分のデスクの隣に座る女の子に、挨拶の変わりに“にこっ”と笑うと
「三井さん綺麗ですよね。ここなんかいないで芸能界とかの方が似合うんじゃないんですか」
本気とも真面目とも受け取れる言葉を言うと
「有り難う、でも私は無理よ」
「えーっ、そんなことないと思うけどな」
“意味が違うけど”と思いながらかおるは、笑顔で返すとデスクに向かった。
かおるの素性を知っているのは社長と秘書室長だけだ。他の人は綺麗な女の人くらいにしか見ていない。
“芸能界か”あまりにも縁の無いことに少し含み笑いをしていると室長が
「三井さん、社長がお呼びです」
回りの人の視線がかおるに集まった。秘書室の事務をしている社員が社長から呼ばれることなど無い。かおるもまったく自分の素性を隠して故の勤めであった。
“えっ、何故私が”と思いながら返事をすると、回りの視線を体に感じながら部屋を出て社長室に向かった。
一度ドアをノックしてから
「三井です」
と言ってなかに入るとドアを閉めた。社長は、かおるの顔を“じっ”と見ると
「先ほどお父上から電話があり、少しお嬢様とお話をしたい。時間を開けるようにと言われました」
「片桐社長、申し訳ない。お父様のわがままを」
「いえ、お嬢様、あの」
「なんだ」
「いえ、自分ごときが、口にしてはいけないと思いますが、お嬢様は十分に社会人としての経験も積まれております。そろそろお父上の後を継ぐことを心に留めては」
かおるは、途中まで聞いた子会社の社長の言葉を区切るように
「黙れ、片桐、お前の口にすることではない」
言ってから、自分が恥ずかしくなった。“何と言う事だ。これまで自分を守ってくれた人に私はこんな言葉しか言えないのか”
片桐社長は、かおるの厳しい言葉に固まった。下を向きながら、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように。
「片桐社長、ごめんなさい。今の言葉謝ります。お父様の要件はそれなのですね」
「はっ」
そう言って、まだ頭を下げている男に
「分りましたお父様には、時間を取ると伝えて下さい。それから目立たないようにと」
「分っております」
そこまで言うと嵐が頭の上を過ぎたように“ほっ”とした目でかおるを見た。
社長室を出た、かおるは自分の生まれ育った環境、生きてきた世界を思うと、ほんの少し寂しくなった。
“私は、女の子。なぜ”そう思うと目に涙が潤んできた。片桐社長は、自分の立場を理解し自分のわがままを許してくれた。決して三井の令嬢と言う事ではなく、“生きる事を一所懸命している女の子を守ろう”としてくれた。
ある時かおるが、自分の素性がばれそうになった時、あえて厳しい言葉をみんなの前で言いその後、土下座まして誤った事を。ただ私の事を思ってしてくれた行動にかおるは涙を流した事を。
“自分は、なんでこんな最低な人間なの。親の威光だけで生きる人間ではないか。なにも無い。空の人間。そんな私が三井を背負えるはずが無い”そんな思いが込みあがってきた。
「カリン」
自分が故に、自分の全く反対の世界を行き、初めて会った時、今でも忘れていない、あのあまりにも人を疑わないさわやかな“天然で純粋無垢”な少女の笑顔を思い出していた。
「カリン、会いたい」
彼女といると、自分の心が解き放たれるような気持ちになる。彼女が何をする訳ではない。ただそばにいて、ほんの少し微笑むと心が空に浮ぶように気持ち良くなる。
あの時から自分の心の支えにした“カリンの笑顔”
だから、自分の命にかえてもこの笑顔を守ろうとした。カリンのそばにはいつもいた。カリンもいつの間にか自分の存在が心地よくなったのを覚えている。
「かおるといると何か心が安らぐよね。かおるずっと私の側にいてくれる」
かおるはたまらなかった、そして始めてカリンに抱きついた。その時の言葉も今でも覚えている。
「かおるー。苦しいー。胸ー。二人ともでかいー」
涙が出るほど嬉しかった。それ以来、カリンは私に取って“かけがえの無い大切な友達”になった。
秘書室に戻ると隣の女の子が、
「三井さん、どうしたの。心配した。でも直ぐに帰ってきたから安心したけど何か心当たりあるの。なに言われたの」
少し、黙った後、
「うん、ちょっと仕事の事で」
「えっ、それって大抜擢」
あまりにも違う方向に思考を奪われている隣の女の子の言葉に呆れていると室長が
「こら、私語はそこまで、仕事しなさい」
そう言って、二人を見た。
隣の子は、“ぶーっ”と顔して“三井さん、後でね”という顔をするとデスクに向った。
かおるは、室長の方を少し向くと室長は、ほんの少しお辞儀をした。
「お父様、どういうおつもりですか。家で話せばよいことではないのですか。お父様が来られれば私の立場は苦しくなります」
「かおるの仕事場が見たくなってな。この片桐に無理言ったんだ。片桐が悪いわけではない」
そう言って、会社の応接を使って話していた。
「わーっ、なにこれ」
かおるが勤める“三井インジェクション“、一部上場企業で優秀な会社だ。丸の内北側にあり、一流の会社が連ねている。
その”三井インジェクション“の正面玄関に黒塗りの大型の車が止まっていた。車の側に2人、入口に2人。更に社長室へ通じるエレベータの入口に2人、黒いスーツを着て細いブルーのネクタイ、耳には、イヤホーンをあて、サングラスをかけている。
「知らないの。さっき“共有情報緊急通達”で三井の総帥が、我社に来るという連絡があったじゃない。あれ以来、社長以下全員“ぴりぴり”よ」
「えーっ、うちの会社何かあったの」
「知るわけ無いでしょ」
「とにかく、私たちは“触らぬ神にたたりなし”よ。分った」
「はぁーい」
能天気な返答をしながら、かおるの同僚が昼食時間を会社の正面玄関を入っていた。
「お父様、その事は、もう少し待てないのですか」
下を向きながら、少し寂しそうに話すかおるに
「もういいだろう。社会に出て一年半、十分ではないか、好きなことをするのは。お前が紹介してくれたあの“さわやかな笑顔のお嬢様”も葉月家に嫁いだという。お前も考えても良い時期ではないか」
「お父様、カリンのことは言わないでください。“私の大切な心の宝物”です」
自分の娘にこんなに鋭い視線が有ったのかと思うくらい鋭い目で父親の目を見た。かおるの父親は驚いた。
「悪かった、花梨さんの事を言うのはよそう」
父の娘に対する優しさであった。
「お父様、もう少し時間を頂けないでしょうか。もう少し」
目元に涙を湛えながら言う娘に
「心の準備はまだなのか」
なにも言わず無言で頭を縦に“コクン”と振ると
「分った。もう少しかおるの好きにしなさい。もしお前の心が固まった時、お父さんに声をお前から掛けてくれるとお父さんは嬉しい」
下を向きながら
「お父様、ありがとう」
と言うと
「今日の夕食、お母様は」
と聞くと
「同友会の連中との会合で私の代わりに出席してもらった」
かおるは目元を緩ませると今までの話が風の中で消えたよう
「ふふっ、お父様、かおると夕食してくださるわよね」
一瞬、経団連との会合の予定が入っていた父親は、少し考えると
「かおる、分った」
とだけ言った。かおるは父親の側により
「お父様、嬉しい」
そう言って笑顔を見せた。
かおるは、母親からの愛情は全く無かった。目を合わせても“あなたは義務よ”そういわれているような気がした。
ところが妹には、目に入れても痛くない位に可愛がった。故に父親は、かおるを可愛く思った。それが母親にとってマイナスだったのだが。
先にかおるは応接室を出た。エレベータで一階まで降りるとエレベータの側にいた男たちが一瞬驚いた様子をした後、深々と頭を下げた。更に外に出ると入口と車の側にいたサングラスをかけたセキュリティたちが、一斉に頭を下げた。
回りに居た人たちは、自分が下げられたのだと思い恐縮しながら入口を出入りすると、かおるは一度会社のビルを離れた。
そして父親がいなくなる時間を見計らって、いかにも昼食に時間が掛かった振りをして社長秘書室へ戻った。
「うーん。少し食べすぎ」
空腹を押さえながら言うと
「ねえ、ねえ。聞いて三井さん。さっき、三井の総帥がうちの会社に来たんだって」
「へーっすごい。なんで、なんで」
他人事のように空き過ぎたお腹がならないように我慢していると
「そういえば、三井さんも三井よね。何か関係有るの」
かおるは一瞬“どきっ”としたが、
「無理有りすぎです。うちの実家は紀伊半島のいなかですから」
嘘はついていない。ほんの少しの事実を覗けば。
「そうだよね。でも三井さん綺麗だよね」
「こら、暇なのか。そこの二人、仕事足りないなら振るぞ」
隣の女の子は、また“ぶーっ”とした顔をするとデスクに向った。かおるは室長の顔を見ると回りに分らないほどに少しだけ微笑んだ。
「なあ、聞いた。この前、三井の総帥が来たとき、秘書室の三井さんが、応接から出てきたんだって。総帥が帰られるほんの少し前に」
「お前、見間違いじゃないか。だって、あの人・・」
そこまで言って言葉がつまった。
「そういえば、彼女の入社だれも知らないよな。いつの間にか社長秘書室だった」
二人で顔を見合わせながら
「確かに同じ三井だけ。えーっ、でも女性だよ」
「ばーか、女性も男性も関係ないだろう」
「何、話ているの、あなたたち」
「いや、何でも」
普段交流の無い、“テクニカル部門”と“人事部門”の交流をかねた世に言う“社内合コン”で、秘書室内でかおるの隣に居た女の子が酔いに任せて聞くと
「その話、ちょっと、少しだけ信用できそう」
ほとんど酔いに任せながら言うと
「えっ、なんで」
室長も、本人もいないことが気を緩めた。
「絶対、ここだけの話だけど」
そう言ってほとんど酔っている、かおるのデスクの隣の女性は
「いつも室長、三井さんに媚売っているの」
一瞬回りが“しらけた”
「あのなー」
そう言って呆れるテックの人間に
「本当だって、私も三井さん綺麗だと思うし、“自分は田舎者“とか言っているけど、あの身のこなし、洋服のセンス、身に着けている物、はっきり言ってうちの会社でかなう人いない。私あの人のアクセサリ一つで自分の洋服何着買えるかなと思ったこともある」
そう言って、だんだん眠り込んでしまった。同じ秘書室の女の子たちが、
「この子、ほとんど夢の中。私送っていく」
そう言って、少し年配の女性社員が言うとみんな納得したように別の話に移った。
完全に“でんすい”している同じ秘書室の年配の女性はタクシーの中で携帯を取り出すと
「室長、もう大丈夫です」
そう言ってきつい目元をゆるくした。
かおるは父親と食事をした後、父親は、仕事があると言って食事をしたホテルを後にした。ここのホテルも関連会社の一つだ。
かおるが歩くたびに従業員が深々とお辞儀をする。見慣れているとは言え、“うっとうしく”思うときさえある。
「こんな時は、拓と会うか」
そう言って、携帯を取り出した。
「志津、ただいま」
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「お父様とお母様は」
「お二人とも戻られております」
「バスは溜めてある」
「はい、いつでも入れます」
「そう」
そう言って、自分の部屋に戻った。
ウォーキングクローゼットの前にある、今日着た洋服を一時的にかけるハンガーに、上着を脱いでつるすと部屋についている専用のシャワールームに入った。ブラウスを脱ぎ、スカートも落とすと鏡に映る自分の姿を見た。
輝くほどに綺麗な髪。切れ長の目に“すっ”と通った鼻筋。吸寄せられるよう唇。透き通るような白い肌が、首から胸にかけて見える。
かおるはゆっくりとキャミソールの肩紐を外すと、そのまま床に落とした。淡いブルーのブラとパンティだけになると自分の体をもう一度見た。
「かおる、直ぐに結婚しろとは言わない。何年か、お付き合いしてからでもいい。そろそろ将来を考えた人とお付き合いしてはどうだ。私も若くは無い」
「お父様の選んだ男ですよね」
娘の目を見ながら“しかたないだろう。お前があんな分不相応な男を選ぶとは思っても見なかったから”暗に目がそう言っていた。
「その事はもう少し待てないのですか」
自分の会社まで来て、そんな事を言う父親に“なぜここまで来て”という気持ちが有った。でもその日の夕食は、楽しかった。久しぶりに自分の父親と食べた夕食だった。
かおるには、ここ数ヶ月、記憶が無い。自分の父親と食べたという記憶が。それだけに嬉しかった。
そしてその後、拓と会った。夜に会えばすることは決まっている。彼と別れた後、家に帰ってきた。
ゆっくりとブラの紐を外し、背中の後ろのホックを外すとまだ胸に拓の余韻が残っていた。
やがて、パンティも脱ぐとシャワールームに入った。ボディシャンプーで体を洗うと自然と自分の胸に手を当てた。体には少し大きい感じがするが、整った綺麗な形をしている。ボディシャンプーを手に付けると彼の余韻を消すようにもう一度洗った。
ゆっくりと“バスタブに入りながら、いずれこの体も好きでもない男に抱かれ子どもを産むだけだ。自由な時に自由にしておきたい。もう少し時間がほしい。自分の気持ちがそれを割り切れるまで”下を向きながら自然とバスタブに目から涙が落ちて行った。
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