第28話 セカンドバージン (2)
優は、何となく道玄坂方向に歩いて行った。“このまま帰ってもカリンいないし、一人だし”。優は、今更ながら自分の心の中のカリンの存在がいかに大きいか分った。
「カリン」
つい言葉を出すと何とはなしに、カウンターにお酒が並んでいる写真が映っている表示のお店が目に入った。地下に通じる階段に少し抵抗を感じたが、足が勝手に下りていく感じだった。
少し重そうなガラスと木のドアを見ると中にあるカウンター席だけが見えた。抵抗のない感じのカウンターだったので“あそこでロックの二杯も飲めば帰りたくなるだろう”と思ってドアを開けた。
誰も声を掛けないので“まずいな”と思ったが、カウンターの内側にいる少し年配の人が、
「いらっしゃい」
と言ったので“大丈夫そうだな”と思うと回りの人間もそんなに悪そうな雰囲気ではない。
彼は“外した訳ではなさそうだ”と思うとカウンターの右の方にある、空いている席に座った。カウンターの内側にいる女性が自分の方にやって来た。
「いらっしゃ」
と言ってお絞りを渡されるとコースターだけを置いて
「何にしますか」
と聞くので
「何がありますか」
と言うとカウンターの後ろの棚においてあるメニューを出した。
“ちょっとのつもりなのに”と思っていたが、好きなジャックダニエルでもそんなに高くないのでつい
「ジャック」
と言ってしまった。女性は、ジャックのボトルとグラスを持ってくるとまた
「どうします」
と言ったので
「ロックで」
と言うと氷の入ったアイスボックスと水を持って来て、グラスに氷を入れるとジャックを三分の一位注いだ。
グラスを彼の前に置くと優は、カウンターの自分の前に置かれたボトルを手に持っていきなりグラスに六分位入れてグラスの中にある氷を指で回した。目を丸くして見ているカウンターの中の女性に
「君も飲んでいいよ」
と言うと嬉しそう顔に変わって自分のグラスを持ってきた。
優は、グラスを右手に持って自分の鼻の側に近づけるとバーボン独特のにおいが漂った。“これだよな”そう思いながら口の中にゆっくりと琥珀色の液体を入れると口の中に広げながらゆっくりと喉に通した。
何とはなしに左を向くとカウンターとは違った風景がそこにあった。“へーっ、結構広いんだ”そう思いながらもう一杯口に入れると後ろを通る人の気配を感じた。その人がその広いフロアの方へ行く後姿を見たとき、優はグラスを落としそうになった。
「元花」
つい口に出てしまった。居る筈が無い。元花は、母親の指示で生活に困るどころか裕福な暮らしをしているはずだった。“こんなところ”にいるはずがない。会社は辞めたと聞いているが。
“ありえない”そう思いながら優は、その女性の後姿を見ていた。
少し経って優が入ってきた時、声を掛けた初老の男性が、
「お客様、誰かお呼びになりますか」
と聞いた。優は、
「あの人は」
と聞いたが、
「すみません。予約が入っています」
優は、
「それではその後で」
と少しきつい口調で言うとその初老の男は、優しい顔をして、
「できればあちらのボックス席行って頂けると」
と言った。その男の顔を少し見た後、優は
「分った」
と言うとカウンターの席を立った。
ずいぶん待たされた。一時間半位他の女性が入れ替わり来たが、優は、さっきの後姿の女性をずっと見ていた。忘れるはずが無い。たとえこの身が焼かれようと忘れるはずが無い姿だった。
ゆっくりと自分の隣に座ると
「いらっしゃいませ」
と言って、何も言わないが目が潤んでいた。
優は、“なぜこんなところに”と思いながら、自分の心を氷河の数キロ下に置きながらずっとその女性を見ていた。
「お客様、何か飲んでいいですか」
少し目元に含みを持たせながら言うと優は、
「何でも」
ついきつい声で言ってしまった。
「すみません。お客様の心なので。もしだめでしたらそのボトルを一緒に飲ませて頂けますか」
優の顔を見ながら忘れる事のない笑みを見せながら言うと優は、自分の心の“たが”が限界を示した事を感じた。
「元花」
その言葉にその女性は少しだけ微笑むともう一人の女性が
「元花って誰のこと」
と言って愛想笑いをするので優はつい
「すみません。料金は払いますから外して下さい」
優が、失礼と思いながら言うと“思いっきり失礼ね”という顔をしながら席を立った。
「どういうことなんだ」
隣に座る女性はなにも言わず下を向いていた。優は下をむく女性の横顔を見ながらあまりにも一瞬に“二人でいた熱い時間”を思い出していた。忘れるはずが無かった。
「認知しろとか、妻にしろとか、絶対に言わない。でもこの子があなたの子であることだけは知っておいてほしい」
そう言って大粒の涙を流したあの時の顔を。顔を覆った指の間から流していた姿を。
彼にしか聞き取れない声で
「優、お願い。ここでは前の事言わないで。お願い」
そう言って顔だけは笑顔にしている女性の顔を見るとすがるような目をしていた。優は、隣に聞こえないくらいの声で
「何時に終わる」
と聞くと
「三時」
とだけ言った。
「分った。外で待っていればいいか」
「だめ、店長が送る事になっている」
「そんな事、断ればいい」
「だめなの、ここの決まり」
「どうすれば」
「店長に話してみる」
そう言って席を立つと先程の初老の男性に近づいて耳の側で何かを囁いた。その男は、一瞬驚いた顔をすると彼の方を見て媚を売るように笑顔になった。
優は、“たぶん、自分の素性を言ったんだろう”と思った。カリンにもまだ話していない葉月家のこと。彼女は母から聞いている、自分の家の事を。そう思うと少しだけ寂しさを感じた。
「優、もう大丈夫。でも三時まで側に居てくれないと困る」
下を向いてそう言う女性に
「分った」
と言うと優は、彼女の顔を見た。
「元花、どういうことなんだ。こんな仕事しなくても十分に君と裕一は、困らない生活が出来るはずだろう」
そう言って、かつて自分に“あなたが全て”と言ってくれた女性に静かに声をかけた。
「優、あとで話します。ここでだけは普通のお客様のように振舞って。お願い」
そう言ってその女性は、優の顔を見た。目元が少しだけ潤んでいた。
長い時間ほとんど何も話さなかった。まわりの客が怪訝な顔で見ても“お前には関係ない”という視線を来ると“ふんっ”という目線を返した。
既に三時半を過ぎていた。店が閉まるのが遅れていたからだ。
「送る。でもその前にお腹空いていない。会ってから二人とも何も食べていないよ」
そう言うとその女性は
「うん、実言うとお腹相当に減っている」
そう言って嬉しそうな顔をやっと見せてくれた。
「何が食べたい」
「優が食べたいもの」
本当に嬉しそうな顔をして言うと
「分った。じゃあ、お寿司でも」
と言うと
「優、元花嬉しい」
そう言って、彼の腕に抱きついた。ただ二人の後ろ姿を見ている目が有った。二つだけではない目が。その事に彼は気付かなかった。
「元花、説明して」
それだけ言って、その女性の目を見ると下を向いて少し時間だけ過ぎた。
「優、ごめんなさい。あなたのお母様から忠告を受けたのに、その後またあなたと会った。その後、あなたのお母様からの圧力で私が、松戸の工場に移された。
そしてあなたのお母様がもう一度来た。そして言ったわ。私の母の前で。“秋山さん、約束は守らないといけません”って。私は最初何を言っているのか分からなかった。でも少しだけ、ずいぶん前から不思議に思っていたことが少しだけ理解できた。秋山さんと言ったのは、私にでは無く母に言った言葉だったことが。そして私は、葉月家のお金で育てられたのだと言う事を」
優は、顔が真白になった。元花の言っている意味が段々理解し始めたからだ。
「そんな」
それ以上言葉が出なかった。
元花は。歩きながら大粒の涙を溢していた。向こうから来る人が“からかった目”をしている。気にもかけたくないが、元花の言葉にショックを受けていた。
優の頭の中は理解できない言葉で埋め尽くされていた。優は元花をマンションまで送っていくと、目を見つめながら
「ごめん」
とだけ言って元花を抱き締めた。
「優」
それだけ言うと腕の中に居る元花が瞳を閉じた。優は、“してはいけない”理性が切れていた。
「元花」
とだけ言うと唇を合わせた。強くそして強く。
電話では、“らち”が明かないと思った優は、タクシーで直接実家に戻った。
“夜中など構うものか”既に五時に近かった。
「お父さん、お母さん」
そう言って、玄関を開けるなり、ベッドルームのドアを叩いた。彼の母親は、今頃来るはずのない愛おしい息子の態度に
「どうしたの、優こんな時間に」
そう言って、いつもの優しい顔をすると
「お母さん、なぜ話してくれなかったですか。元花と僕のことを。先に話してくれていれば」
優は、目から涙が溢れていた。
「もっと、もっと」
泣き崩れそうになった。
「何故ですか」
始めて見る厳しい目をする息子に
「優」
と言うと少し、彼に目の視線をずらした。もう、知った理由など聞く意味もないこと悟った母親は、
「優、リビングに居なさい」
そう言って自分は“奥の間”に行った。
リビングに戻った母親は、手に持った一つの写真を“じっ”と見ると彼に渡した。なにも言わず“自分で理解しなさい”という目で。
優は、その写真に自分の父親と元花にそっくりな綺麗な女性、そしてその腕に抱かれている幼い子どもの姿を見た。
「そんな。そんな、ばかな」
「なぜなんです。お母さん何故なんです」
それだけ言うともう言葉にならなかった。
カリンのこと、元花のことが走馬灯のように駆け巡った。何時間たったか分らない少しの時間の後、母親の顔を見て
「帰ります」
とだけ言って自分の実家を後にした。
「ただ今。優、会社休んだって聞いたから早く帰ってきたよ。優」
カリンは、名古屋への新薬の説明をした後、翌日会社に戻ったが、彼が会社を休んだ事を知って、早く帰ってきた。ベッドに横になっている彼を見ると
「優、どうしたの。体調悪いの」
そう言って彼の顔を見るとカリンは倒れそうになった。
生きている人間の顔では無かった。顔は真白で呼吸もまともにしていない。カリンは、自分の知恵を総動員した。
「呼吸、体温、脈拍、意識」
カリンは、帰ってくるなり全て頭の中で知識をフル動員させて彼を見た。
「呼吸も普通、体温も正常、脈拍も正常」
言葉で確認項目を間違いなくチェックしながら彼の目を見ると明らかに視線が無かった。
「優、優、どうしたの、どうしたの、カリン、私よ、忘れたの」
その言葉にゆっくりと目を戻すと
「カリン」
それだけ言って、誰かを待っていたかのように安心した目をすると意識を失った。
「お母様、どういうことなんです。優に何を言ったんですか」
聞いた事のない口調で言うカリンに母親が言葉をつまらせていると、少しだけ意識が戻りつつある自分の目の中にカリンと母親そして父親が立っていた。
「カリン」
それだけ言うとまた、意識が朦朧としながら少しだけある意識の中で
「お母さんを責めないで。お母さんは何も悪くない。僕が・・」
そう言ってまた意識を失った。
目がゆっくりと開き始めるとカリンがベッドの側で目を赤くしながら“じっ”と見つめていた。まだ、意識が遠くにある感じがした。何か頭の後ろに鉛のような重いものが有る感じだった。
「カリン」
今度は明らかに目覚め始めた意識の中でカリンの顔を見た。愛おしく可愛い顔が目を赤くしながら疲れた顔をはっきり見せながら
「優、だいじょうぶ。心配したんだから」
そう言って彼のベッドの側で瞳から流れる涙を隠そうともしないで流していた。
彼は、なにも言えず彼女の顔を見ていると、彼女は自分の顔に掛かっている髪の毛を顔から後ろに回しながら
「優、言わなくていい。もうなにも言わないで」
そう言って大粒の涙を流しながら
「優、“ずーっ”と私の側に居てくれるよね」
そう言って彼の横になっているベッドのそばに泣き崩れた。彼は、自分がしたことの罪の重さを知った。そして父の血を引いている事も。
彼は結局、それから三日間会社を休んだ。カリンも彼を置いて会社に出るなど考えも無く彼のそばにいた。“会社の同僚に何を言われてもいい”そう思いながら、目が視点を合せない彼のそばに居た。
三日目の夜、カリンは、意を決したかのよう焦点を定めていない彼の顔に向って、
「優、明日、あなたの両親の元へ行きます。あなたも一緒に来てください」
優は、思考の緩んだ心の底で“まさか”という考えに当った。ただ全ては自分の責任と思うと強く“自分の実家に行く”というカリンの言葉に反論出来なかった。
いつも二人で乗っている“黄色いカリーナ”が寂しそうな顔をしている。その横でタクシーに乗りながら、優は、心の中に溜まった不安を支え切れない思いでいた。
昨日の夜、いきなり息子の妻から電話を受けた彼の母は、玄関に現れた息子の情けない視線と厳しいまでに自分を見る妻のカリンの目に抵抗を隠しきれなかった。
“この子にここまで厳しい目をさせる理由”
優の母は、“万が一の思い”が心の中に宿った。
この前、言ってしまった事も含めて。
リビングに通った彼とカリンは、彼の母親が
「今紅茶を」
と言う言葉をさえぎって
「結構です」
と言うと彼の母親の目を鋭く見つめた。
“私の目に狂いは無かった。しかしここまで”そう思いながら愛おしい子どもの妻の次の言葉に自分の耳を疑った。
「秋山さんの子どもは、私が引き取り育てます。彼のそばで」
彼の父親は、目を丸くすると下を向いた。彼の母親は、はじめ何を言っているのか分らなかった。優は、自分の意識が一気に元に戻ったことを知った。
「よろしいですね。私は優が、いえ夫がこれ以上“情けない姿”で居る事に我慢できません。優は私の夫です。そして彼の血を引く子どもは私の子です」
彼の母親は信じられなかった。初めて会った時、“春風が吹いたようなさわやかな雰囲気をもつかよわい女性”と思っていた。しかし、何か強いものを目の奥に潜む事を見抜いたから、優の妻にしようと考えた。葉月家のために。しかし、自分の考えが甘かった事を知った。信じられなかった。
「花梨さん、待って、少し待って」
優の母親はたじろいだ。自分の夫が外で子どもを生した時、怒りに任せながらも葉月家のことを思い、相手女性に“一生の面倒を見るから二度と夫とは会わないでほしい”と言い、その女性は自分との約束を守った。
だが、運命の神様は、そんなにたやすく葉月家を見守ってくれなかった。まさか自分の子どもが、夫とその女性との間に生んだ子と関係を持つなんて。
そして今、自分の愛おしい息子の嫁になった女性が、その子を引き取るなんて理解の範囲を超えていた。
時間が流れた。そして彼の母は、カリンも始めて見る厳しい目で
「花梨さん、あなたの優に対する思い、はっきりと受け取りました。しかし、葉月家として、それを認める訳には行きません」
言葉を切ると
「花梨さん、優とあなたの間に生まれた子どもは葉月家の跡取りとして育てます。しかし秋山の家に生まれた子に“葉月家の敷居”をまたがせる訳にはいきません。たとえ優の妻の言葉であったとしても」
カリンは、彼の母親の瞳を射抜くように見た。そして彼の母親もカリンの瞳を同じ力で見た。
優も彼の父親も言葉すらなかった。二人の女性の視線の“決して外す事のないぶつけあい”が、言葉を出す事を失わせていた。
ずいぶん時間が流れた。
「お母様、私が秋山さんと話すことを許して頂けますか。優の妻としてお母様がしたように夫の犯した事は妻の私が始末します」
優は信じられなかった。初めて会った廊下でのあの“さわやかな女の子”にどこからこんな強い意志があるのだろうかと。
優の母親の瞳から少しづつ涙がこぼれ始めた。そして
「花梨さん」
と言うとカリンの手を持って
「優と葉月家をお願い」
そう言って、後は涙が止めども無くこぼれていた。優の父親は、ただ下を向いているばかりだった。
「秋山さん、お久しぶりです」
そう言って、元花がマンションから出てきた時、声を掛けた。
元花は、会社に居た頃の天宮さんのイメージしかなかったので一瞬人違いかと思ったが、人目を引く“可愛さとさわやかさ”は、変わらない女性に
「天宮さん」
というと少し下を向いて
「葉月さん」
といい直した。
「少しお話できません」
そう言ってカリンは、元花に“断れない”視線を送った。
「秋山さん、いえ“お姉さま”と言えばよろしいですか」
そう言って厳しい目で元花を見ると元花は、カリンがここに来た理由を悟った。
「知ってしまったんですね」
そう言ってカリンに負けない視線を送ると
「どういうお話ですか」
と言った。
「ご理解頂けると思います。私の夫の子どもの親が、夜に働く事は許せません。子の為にも。秋山さんには優の子どもの為に大切な愛情を注いでほしいんです。それが私たち、いえ優とあなたが、“知ってはいけない世界”に入ったことの償いです。子どもの為に」
それだけ言ってカリンは、“葉月家”と書いた銀色のカードを元花の手に握らせた。
カリンを強い視線で見ていた元花の瞳が、少しずつ力を失うと、明らかに分る液体が目元に溢れてきた。そして強く、強くそのカードを握り締めるとカリンの目の前で声を上げて泣いた。激しいほどに。狂おしいほどに。
カリンは、そんな元花の姿を見つめていた“もし、あの時、あの病院での事が無かったら”そう思うと元花の泣き顔を冷たく見ることが出来なかった。
「あなた、私の見る目に狂いはありませんでした。でも少しだけ見損なっていました。あの女性を」
と言ってはっきりした目で夫を見ると
「私より強い女性です」
そう言って目元をゆるまし、
「早く男の子を生んで頂かないと」
そう言って微笑んだ。
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