第27話 セカンドバージン (1)
カリンと彼は、新婚旅行から帰って来ると二日後から出社した。
新居としたのは、用賀の駅から五分位の新築のマンションだ。結婚前、優の母親の強い希望の同居を子供ができるまでという条件で二人だけで住むことになった。
二人にとっては、当たり前だが、何もかもが新鮮な世界だ。何を決めるのも二人。何をするのも二人だった。
2LDKだが、二人には十分な広さだ。旅行の後の二日間で一通り周りの状況を把握すると、カリンは“ここに優と二人でだけで住むんだ”そう思うととても嬉しかった。
ただ、ちょっと手強かったのは食事だった。思った以上に大変で要領よく出来ず、やたら時間が掛かった。それに始めは彼の方がうまく出来た。
カリンはなぜ彼が包丁を持てるのか分らなかった。自分でもこんなに大変なのに包丁など持った事ないはずの彼が、まな板の上でニンジンなどを切っていると明らかに経験者とカリンは思った。
結婚前あんなに色々話したのに、まだ彼の知らないところが有ったのかと思うと驚きと不安が少し心の中に染み出てきた。聞こうと思っても返って来る言葉が不安で、“でも聞かないと、もう結婚したんだし”そんな気持ちの中で勇気を出して包丁を使う彼に近づいて不安そうな顔で
「なぜ出来るの」
と聞くと彼は、ニンジンを切っている手を止めてカリンの顔を見ると“どうしたの”という顔をして
「子どもの頃からお母さんに邪魔にならないように、ちょっと好きなものは自分で作っていたし、結構父親と“酒の肴”にしていた。それにナイフや包丁研ぐの好きだし」
と言って笑顔を見せると
「えーっ、聞いていない。そんな事一言も聞いていない」
「うーん、言う事でも無かったし、カリン料理教室でがんばっていたから」
そう言ってカリンの顔を見ると
「その内、カリンのほうがうまくなるよ」
と言って、また笑顔を見せた。
「そうかなー」
と言って、“魚の煮付け“にチャレンジした。
二日間こんな感じでカリンは、優が手伝ってくれるとはいえ、洗濯、掃除などの家事がこんなに大変だったとは思っても見なかった。
大学時代は、勉強と研究に明け暮れ、家事の手伝いなど全く頭に無かった。会社に入って直ぐに彼と知り合い、母親が心配になって彼の家の隣町の料理教室で調理のイロハを習った程度。
洗濯機にいたっては、新居用に購入してから自分の母親の手ほどきを受ける始末だった。心の中で“お母さんは凄いな”と感心する始末だ。
新婚旅行から帰っての二日目の夜、
「カリン、明日から会社だね。二週間も休んだからギャップが大変だ」
コーヒーを飲みながら言う彼に
「そうだね」
少し恥ずかしそうに笑顔を見せる、自分の妻となったカリンに
「ちょっと恥ずかしい気持ち有るよね」
そう言って彼も笑顔を見せた。
ベッドの中で彼の寝顔を見ながら、“優はもうこれからずっと側に居てくれる”そう思うと うれしくて仕方なかった。
遠くで何かが鳴っている。カリンは、その音に段々意識がハッキリしてくると音の出ている方向に手を伸ばした。
「うーっん」
と言って伸びをすると目覚まし時計を見た。
“六時か、起きなきゃ”と思うと横でまだ寝ている彼の顔を見た。とても可愛い顔をして寝ている。“寝顔可愛いな”と思って顔を近付け彼の唇に自分の唇を合わすとゆっくりと起きた。
ベッドから出ようとするといきなり右の手首を捕まれた。顔を右に向けると彼が左目だけを開けている。
「カリン」
と呼ぶと自分の体が引き寄せられた。右手でカリンの横顔を触ると彼に
「甘えっ子」
と言って彼の顔に自分の顔を近付けた。唇が合わさるといつものように右手を大きく下に向いているカリンの左胸に合わせてきた。少しだけ気持ちの良さを感じていると胸のトップに指を当てて来たのでカリンは、
「優、私もしたいけどだーめっ」
と言って左手で彼の腕を胸から離させると
「えーっ」
と彼は言ったが
「朝ごはん作るから、おあずけよ」
と言ってベッドから降りた。そんな彼女を見ながら優は、“カリンも知り合った時とは随分変わったな”と思った。仕方なく優もベッドを降りると先に起きたカリンを柔らかく腕で包んで
「おはよ」
と言った。カリンも
「おはよ」
と言うと彼の体に寄りかかるようにしながら唇を合わせた。
カリンは朝食を終えると少しだけお化粧した。彼が
「可愛いよ」
と言うと心が和んだ。駅までは、真っ直ぐ一本道。自分達のマンションの隣は、いわゆる昔の大きな農家が三つもある。
途中カナディアンな喫茶店やスパゲティの喫茶店、はたまたセトモノ屋もあれば、自動車の民間修理工場もある。コンビニもあるし駅の側には、大きなスーパーが二つある。
とにかく世田谷らしい世田谷だ。階段を降りて左の壁を見るとテレビに出ている、綺麗なと言うか魅力的な顔の女性がポスターで壁一面に貼られていた。
二人は、用賀の駅まで行くと新玉ラインに乗った。まだ、渋谷から二子多摩川までしか走っていない。朝の通勤も途中までは楽だった。
表参道で銀座線に乗り替える。まだ銀座線も隣の渋谷発なので混んでいない。大変なのは赤坂見附の駅からだ。ここからすごい人の量になる。彼はカリンを降りるドア側の隅に立たせるとドアと椅子のバーを手で押さえて入って来る人がカリンに触れない様にブロックする。
カリンは彼に“ありがとう”と目配せすると彼も周りに気付かれない様に微笑んだ。
“結構押してくるな、カリンに触れさせるか”という気持ちもあったが、カリンに体への負担を与えさせたくなかった。やがて虎ノ門の駅に着くとカリンが立っている方のドアが開くとカリンが降りたのを見計らって、自分も降りた。
“ふふっ、優、ありがとう”という目をして微笑むと彼は“にこっ”とした。
二週間ぶりの出社だ。結婚前とは逆の方向からの出社になるが人通りの多い表通りを歩かないで、一つ内側に入った通りを二人で歩いた。
オフィスのあるビルに着くと二人でエレベータを上がりダイナース・オリンピアの玄関に入ると、新しい受付の子が座っていた。
彼は“変わったんだ”知っているはずの当たり前のことを思いながら、二人とも“またね”の意味で手のひらを腰のあたりで振ると彼女の部署とは反対方向にある自分の部署に廊下を歩いた。
すれ違うほとんどの人は、天宮さんとの結婚のことは知っていても他人事だ。いつもの感じですれ違うと廊下を左に曲がり少し行ったところで右に曲がって自分の部署に入った。
ほとんどが大きくパーティションで区切られている為、ちょっと迷路のような感じもするが、セキュリティを考えれば当たり前のことだった。
優は、最初に持田部長の所に行って
「部長、長く休みを取らせて頂いてありがとうございました」
と言って頭を下げると“ニコニコ”しながら
「よかったな。これからもがんばってくれ」
「ありがとうございます」
と言って部長の席の席を離れると、近くに座るセクレタリの吉村に手土産を配るようにお願いした。
持田部長は、優の素性を知っている。皆のまえでは媚こそ売らないが、腹の中ではいつも彼を意識して“自分可愛さ”に優には対応が優しかった。
やがて、自分の席に着くといつもならちゃちゃを入れるはずの自称“先輩”が、優の顔を見て、“ぺこっ“と頭を下げるとディスプレイの方を見て仕事を続けた。
隣に座る同僚に”どうしたんだ“と目配せすると、同僚が、耳の上にそれぞれの手を持ってウサギみたいに手を前後した。
“どういう意味だ“という顔をして首を傾けると”後で”と目線を送って来たので優は、ディスプレイをオンにした。
カリンは彼と受付で分かれた後、少し心臓を“ドキドキ”させながらアドバタイズメントへ歩いて行くと彼女を可愛がってくれる小池が自分のデスクのパーティションから“チョコン”と首だけ出していた。
「あっ、天宮さん」
そう言ってパーティションから出ると“にこにこ”しながら、カリンのデスクにやって来た。社内結婚の場合、妻の方は旧姓のまま呼ぶ。そうしないと誤解のもとになるからだ。
「二週間ぶりね。どう」
「えっ、どうって」
そう言ってなんとなく質問の意図を理解して少し顔を赤らめると
「あははっ、天宮さん結婚しても変わらないな。やっぱり抱き締めちゃおうかしら。旦那様に怒られるか」
そう言って笑うと、カリンはますます顔が赤くなった。
「天宮さん、今日はお昼一緒よ。楽しい話聞かせてね」
そう言うと、急にパーティションからアドバタイズメントの先輩たちが顔だけ出して
「私も」、「私も」
と声が掛った。
同じ部の“モズ頭”こと、吉村が
「俺も」
と言うと小池が
「あんたは、駄目」
「えーっ」
と言って首を引っ込めた。カリンは、恥ずかしいやら嬉しいやらで顔を赤くしたままだった。
「優、どうだった。部の人たち」
「結構聞かれたよ。お昼に。新婚旅行の事とか。新居の事とか。適当に言っておいたけど」
「やっぱり、私もお昼は質問攻めだった」
「えっ、どんな事聞かれたの」
「優と大体同じ事」
「大体って」
「だから大体」
「そうか、大体か」
あまり聞いても仕方ないと思ってその辺で止めておくと彼女が、下の見ながら少し顔を赤らめて
「少しあっちのことも聞かれた」
「えーっ、女の人ってやっぱり男よりエッチ」
と言うと
「大丈夫、“しら“きっといたから」
なんとも言えない顔をして
「そう、どの位」
と言うと
「ちょっとだけ話した」
彼は“えっ”と思うと
「ふふっ、うっそ。言う訳ないでしょ」
と言って嬉しそうな顔をするカリンがたまらなく可愛かった。
優はカリンの横顔を見て“やっぱり可愛いな”と思うとカリンの手を握った。カリンが、“えっ”と思って彼の顔を見ると嬉しそうな目をしていた。
カリンは、“ふふっ”と笑って彼の目を見ると彼は、もっと嬉しそうな顔をした。
カリンは、結婚前は会社の裏の出口を出てから右に曲がったが、結婚後は左に曲がり歩いて帰るのが、何となく嬉しかった。
「優、ここ、美味しそうなコーヒーの匂いしているね」
「うん、僕も思っていた。今度入ろうか」
「うん」
と言うとカリンは、心が温まった。
なんとも言えない心の温かさだった。そして虎ノ門駅の近くに行くと左手に結構大きな酒屋があった。
「優、ここ結構有名なお店だよね」
「うん、僕も名前だけは知っている。今度入ってみようか」
「うん」
誰にも気兼ねなく、会社の人のことも気にしなくて二人で並んで帰れることが、カリンは嬉しかった。
虎ノ門から銀座線に乗り表参道で“新玉ライン”に乗る。
「優、今日の夕飯どうする」
「カリンが作ってくれるもの」
「そう言われても」
「ねえ、昔テレビで新婚さんが、“君のハンバーグ美味しいね”って言ったら、毎日ハンバーグが出来たんだって。それは勘弁だけど、カリンの作る料理は何でも嬉しい」
「ありがとう優」
そう言って、地下鉄の暗い窓を見ながら言うと彼が、急に
「じゃあ、駅の側のスーパーで、二人で食材選ぼう」
カリンは嬉しかった。
「うん」
と言うとさっきまで“夕飯どうしよう”と思っていたことが記憶の風の中で後ろに流れて行った。
「優、話があるんだけど」
“えっ”と思って不安を一杯に心に溜めながら妻となったカリンを見ると
「名古屋に出張に行かないと行けない。小池さんは“無理しなくていいよ“と言っているけど新婚だからといって、それを仕事の甘えにしたくない。ごめんなさい。もし優が”だめ“と言ったら断る。でも私は行きたい二人の為にも」
彼は黙っていた。
「大丈夫、後藤は来ない。今回は小池さんと二人。新薬の説明に行かないと行けないの。名古屋の子会社に」
優は、思ってはいけない事を思っていた。“今までは自分一人。だからいくらでも我慢も自由も出来た。でもカリンは僕の妻だ。なぜそこまでさせなければいけない”真剣な目で“じっ”と窓の方を見ていると
「ごめん怒った。分った。小池さんに断る」
そう言って彼の手に自分の手を乗せると優は自分に戻った。そしてカリンの顔をしっかり見ると
「カリン、行きなさい。カリンが考えた事なら間違いはないよ。でも」
「でも、なあに」
「・・・・・」
下を向きながら少し赤い顔をしてカリンの顔を見ると
「ふふっ、そういう事。優はエッチね」
そう言って、目線をベッドルームに流した。
優は、名古屋に出張に出かけた夕方、“夕飯どうするか”と思って、途中で渋谷に降りると取りあえず駅の側にある昔親とよく行っていた渋谷の“てんぷらや“に一人で久々に入った。
「こんにちは」
ドアを開けて久々に来た“てんぷらや”のカウンターの方を見ると、見知った顔が有った。
「葉月の坊ちゃん。いらっしゃい。今日はお一人かい」
「はい、もう“坊ちゃん”は、止めてください。僕ももう二七ですから」
「いえいえ、いつまで“坊ちゃん”ですよ。わしにとっては」
そう言って目元を緩めると目線で仲居に“直ぐ席を用意しろ”と指図した。
カウンターで昔話をしながら結婚した事を言うとカウンターの中の主は、
「そりゃ、よかった。今度奥方を連れて来て下さい。“うでによりをかけて”うまいてんぷら揚げますから」
そう言って嬉しそうな顔をした。
優は、そのまま家に帰ろうとしたが、食事の時に取ったビールと日本酒で少し心に緩みがあった。
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