第25話 二人の時 (4)
胸の中で今までの思い出だけが、走馬灯のように流れて行く。
「花梨どうしたの。帰って来るなり自分の部屋に入って鍵を掛けるなんて。何かあったの」
「何でもない、一人にしておいて」
娘が涙声で叫んでる。花梨の母親は、ドアの入口に立ちながら待った。どの位経ったのだろう。やがて、部屋の中から泣き声が聞こえなくなると
「花梨」
そう言って階下に降りて行った。
次の日の朝、カリンはベッドの上で目が覚めた。鏡を見ると目が腫れている。窓にカーテンが掛っている隙間から、少しだけ明るくなった外の明かりが漏れていた。
「優」
寂しかった。“あれほど信じていた人。自分の全てはあの人のもの”と思っていた彼が、自分の知らない間に他の人と・・そう思うと自分が情けなかった。そして悔しかった。
ドアがノックされドアの外からお母さんの声がした。本能的に娘が起きた感覚を悟った母親が二階に上がり声を掛けたのだ。
「花梨、大丈夫」
そう聞かれると
「お母さん、もう少し一人にしておいて」
それだけ言ってまたベッドにうつ伏せになった。
優は、どうしていいか解らなかった。あの時、
「えっ何のこと」
その一言さえいえば全て済んだこと。お母さんからもあの日、
「今日の事は全て忘れなさい」
と言われていたことを思い出すと、自分が情けなかった。
「なぜ言えなかった。彼女の今までの気持を全て無にしてしまった。いや、そんなことでは済まない」
母親のあの厳しい一言が思い出された。
「優、花梨さんをもし裏切るような事があったら、たとえ息子でも私はあなたを許さない」
どうしようもない自分に両手で頭を抱えながら、涙が出てきた。
「俺はどうしようもない馬鹿だ。自分の心にけじめがつけられず大切な人、花梨もお母さんもそしてもとかも皆傷つけてしまった」
動けない体がどうしようもなく情けなかった。いつの間にか眠ってしまったらしい。ポケットからスマホを取り出して発信履歴から彼女を呼出す。
呼び出し音の後、「この電話は、電源が・・・」
通じなかった。ゆっくり起きてスラックスに着いた土を払いながら歩き出すと、やっと自分がどこにいたか解った。渋谷の公園通りを上がった、テレビ局の前。
“そうか、食事後、カリンと歩いて来て、彼女を腕の中に入れた時だったんだ”そう思い出すと、なんとなく意識がはっきりしてきた。
何時だろうと思うともう夜中の二時を過ぎていた。とりあえず帰ろうと思い、タクシーを拾うと自分の家の住所を告げた。
窓の外を見ながら彼女のあの時の顔が浮かんでいた。運ちゃんが
「お客さん、この辺ですか」
と言うと
「あっ、もうちょっと走って下さい」
少し走らせると彼女の家のそばで停めさせた。
「ここでいいです」
そう言って降りると少し歩いて彼女の家の前に立った。そして彼女のいる二階を見上げながら、何も言わず・・。寒かった。
「葉月さん、葉月さん。まあ、すごい熱。とにかく家に入れないと」
彼女の母親は、ゴミを出そう玄関から出てくると門の前で人が倒れていた。浮浪者かと思いながら恐る恐る近づくと見知った顔があった。
ごみ袋を持ながら玄関に戻り
「誠一、あなた。すぐに来て。葉月さんが、葉月さんが」
やがて着替え中の夫が
「朝から何だ。葉月さんがどうした」
「あなた、葉月さんが門のそばで倒れている」
「何だって」
着替えもそこそこに彼女の父親が行くと苦しそうな顔をして倒れていた。
「お母さん、誠一を呼んで来なさい」
自分だけでは起こせないと判断した父親は、息子の手を借りて何とかリビングに運んだ。客間は二階の為、無理があった。
「とにかく、毛布。それと花梨を呼んできて」
お父さんが毛布を取りに弟が彼女を呼びに行った。
「姉貴、葉月さんが来ている」
目をはらしながら、ベッドで横になっていたカリンは“えっ”と思うと
「今会いたくないから帰って、と言って」
「いや、違うんだ。葉月さんが門のそばで倒れていて、いまリビングに運ん・・」
「えっ、うそでしょ」
ベッドに起き上がり、目の前にある壁に掛かった時計を見た。そして、ゆっくり起きると、部屋にある鏡に向って挑むような目を向けた。
やがて、一階に下りていくと
「今、熱計ったのだけど、三九度超えている。四〇度近い。花梨」
彼女は、リビングのソファで苦しそうにしている彼をなにもしないで、見下ろすように冷たい目で見た。
母親は、いつも優しい目をしている自分の娘がこんな目をすることがあるのかと思いながら娘を見ていた。彼女は段々少しずつ冷静な目で見始めた。何かを守るように、そして捨てるように。
「お母さん。救急車を呼んで下さい。そして葉月の母親も」
「花梨」
なぜ娘が厳しくそんなことを言うのか解らないまま
「早く」
厳しい言葉で言う娘に何かを決めなければいけない芯を見た。カリンは、素早く洋服を整え、髪の毛をブラッシングすると階下に下りると少し立って救急車が来た。
「私だけでいいです」
厳しい目で自分の母親の顔を見ると
「葉月の母には連絡して頂けましたね」
「は、はい」
気を押されるように答える母親に
「後で連絡します」
と言うと救急隊員が、家の中に入ってきた。救急車に乗りながら
「駒沢にある国立病院へ行ってください」
可愛い女性が厳しくはっきりした口調で言うと救急隊員は、
「あっ、はい」
と言ってあとは、事務的な質問しかしなかった。
やがて、救急受付の入口から入るとナースが、
「あなたはこの方のご親族ですか」
「いえ」
「では、どのようなご関係ですか」
「フィアンセです」
口調は相変わらず厳しく、目もその厳しさを緩めなかった。カリンは、特別室を頼むとそのまま、彼の苦しそうな顔を見た。救急受付の医者が、色々事情を聞いたが、あまり答えず
「過労と寒さによる体力低下です。少し横になれば回復するでしょう。半日ほど病室を貸してください。医院長に私の名前を言えば分かります」
そう言って、点滴の液の中身まで指定して、厳しい目で医者を見ると
「あなたは・・」
そう言って、救急担当医は病室を出て行った。
カリンは、彼が眠っている側でずっと座っていた。厳しさを緩めない目で。やがて、彼がゆっくりと目を開けると、ここがどこか分からないまま
「カリン」
と呼んだ。
彼女の母親は、救急車を見送ると急いで彼の家に電話をした。
“こんな朝早くにだれが”と思いながら、夕べ息子が帰ってこなかったことを不安に思いながら電話に出ると電話の向こうに彼女の母親の声がした。
彼女の母親からの連絡を受けた彼の母親は“なぜ、駒沢の国立病院”と少しわからない気持ちで急いでタクシーを走らせるとナースセンターに寄って病室の番号を聞いた。
更に走らない程度の急ぎ足で向うと息子の嫁になる女性の声が聞こえた。
「優、私の大切な優。私の全て」
そう言って、彼の髪の毛をゆっくりなぜると彼は、段々意識を取り戻してきた。やがて彼の意識が戻りはっきりした目で彼女を見るとカリンは椅子から立って、彼を厳しい目で見た。
「葉月さん」
冷たい目で彼を見ると少し時間をおいて
「私と秋山さんのどちらを生涯の伴侶とするのですか。あなたが秋山さんを選んでも構いません。私に男を見る目が無かったのでしょう。でも・・」
言葉が途切れた。カリンは頭の中がいっぱいだった。そして涙が出始めた。口元が震えながら小さな声で
「もし、もし、私を選んでくれるなら、もう・・もう秋山さんと会わないで。私だけ見ていて、お願い」
カリンはそう言って彼のベッドに泣き崩れた。彼の母親は病室に入る足を止めた。
「カリン」
そう言って。自分のベッドで泣き崩れる彼女の髪の毛を触ろうとした時、
「触らないで。どちらか決めるまで、私を触らないで」
目に涙を溜めながら起き上がって、また彼を見下ろした。時間が流れた。やがて、彼はふらふらになりながらベッドの上に正座すると
「ごめん、カリン。僕は、僕は、君しかいない」
彼の言葉が信じられなかった。
「じゃあ、何故、秋山さんと体をともにしたんですか。なぜ子どもまで」
そう言って彼に近づいて彼の胸をどんどん叩きながらまた泣いた。
「なぜ、私じゃなかったの」
「分らない。ただ惹かれて」
「ばかあ」
そう言って、また、彼のベッドに泣き崩れた。
「カリン」
「優は言ったじゃない。“私を大切にしてくれるって”、“恋人になるって”、忘れたの」
カリンは涙が止まらなかった。
「ごめん、カリンが大切な気持ちは、今も変わらない。たとえ何があってもカリンを守る。
信じて・・、だめだよね」
そう言って、彼はふらふら立ち上がると窓に行った。
カリンは、彼が何をするのだろうと思ってみていると窓を開け始めた。
“まさか”カリンはとっさの思いで、彼の体にしがみついた。
「だめーっ」
必死だった。彼が万が一にでも飛び降りたら、自分も追いかけるほどに彼を愛していた。必死に彼の体にしがみついて、
「だめー、だめー、死んじゃやだー。優でなければ私も生きていけない」
「カリン」
彼女の体を思いっきり受けながらそして彼女の体を抱き上げると
“えっ”と泣き顔を見せながら驚くカリンの唇に彼は思いっきり口付けをした。
はじめ彼の体を“どんどん“叩いていたカリンは、やがて、彼の背中に手を回した。ずいぶん長い時間が流れた気がした。
彼は抱き上げたカリンをベッドの上にゆっくり降ろすと床に正座して
「カリン、ごめんなさい。二度と秋山さんとは会いません。そして一生他の女性に見向きもせず、カリンだけを見てカリンを大切にしていきます。本当にごめんなさい」
そう言って彼は、頭を下げた。カリンは、ベッドの上から彼を“じっ”と見ていた。
また時間が流れた。
ドアが開く音がした。
「花梨さん」
そう言って、彼の母親が入ってきた。そして、顔を上げた息子の顔を見るなり、いきなり右手で平手打ちした。彼の顔が曲がるぐらい強く打った。
カリンは、とっさにベッドから降りて、彼の体をかばうようにすると
「お母様、何をするんですか」
そう言って、厳しい目で彼の母親の目を見た。
“狂おしいほどに可愛い顔の彼女にこんな目があるなんて”そう思いながら彼女の顔を見る彼の母親が、ゆっくりと膝を曲げると
「花梨さん、本当にごめんなさい」
そう言ってカリンの体を両手で優しくつつんだ。
結局、昼には退院した。彼は、タクシーの中でカリンの隣に座りながら
「カリン、何故この病院に僕を連れてきたの。ましてあの特別室なんて」
「ふふ、聞きたい」
「うん」
彼の顔をみながら
「ここは、私が生まれたところ。そしてあの病室は私がお母さんといたところ」
そう言って彼の手を握った。
「優、教えて、窓を開けた時、本当に死のうと思ったの」
彼の目を見ながら言うと
「怒らないで聞いてくれる」
「もう十分怒ったから」
そう言ってカリンは微笑むと
「少し暑いなと思って空気入れようとして窓を開けたら、いきなりカリンが抱きついてきて」
「えーっ、もう許さない」
そう言って思いっきり彼の頬をにじった。
「おほ・・らな・・い、いてーっ」
笑いながらカリンは思いっきりにじった。後が付く位に、そして言った。
「今度、浮気したら私があなたを窓から投げますから」
そう言ってまた彼の頬をにじった。
「いてーっ」
先に家に戻った彼の母親は、心配そうな夫の顔を見ると
「優もやっぱりあなたと同じだったわ」
そして少し黙った後、
「花梨さん、もう“葉月家の女”です」
そう言って嬉しそうに微笑んだ。
――――少しだけ――――
「えっ、あの後どうしたかって」
「ふふっ、聞きたいの」
「どうしようかな」
「じゃあ、ちょっとだけ教えてあげる」
結局、彼のお母さんは、私の手を取って、こう言ったの。
「花梨さん、ごめんなさい。でも優は、本当にあなたの事を愛しているわ。母親だからわかる。そしてあなたが、初めて我が家に来たとき“私ではだめなのですか”と言った言葉を思い出したの。優を守ってくれるのは、あなたしかいない。いえ、葉月の家を託せるのは、あなたしかいないと思ったの。それ以来、私はずっと厳しい目で花梨さんを見てきた。ごめんなさい。でもそうしなければいけない理由があるの。それは、葉月家が代々、家を守るのは女だから。それが“葉月家の女“といわれるゆえんです。そして今日確信したの。私が、優の頬を思いっきり叩いた時、花梨さんは、本当に厳しい目で私を見て、優を守ろうとした。こんな愛くるしい顔にこんな厳しい目があったのかと。本当に大切なものを守ろうとする目」
そしてお母様は、少し黙った後、
「花梨さん、もう一度言わせて」
「優のお嫁さんになって。いえ、葉月家の嫁としてきてほしいの」
私は、優のお母様が、何を言っているのかはじめ分からなかった。優の浮気や自殺しそう、いやこれは私の勘違いだけど。
でも話を聞いているうちに段々頭が冷静になってきて。何となく優のお母様が優のお父様の伴侶になろうと決心した気持ちが。そしたら私、自然と
「はい」って言ってしまった。
したら、優のお母様は、“すっ”と立って、
「花梨さん、優をお願いね」
微笑みながらそう言って、“サッ”と病室を出て行ってしまったの。子供が心配で来たのかと思ったけど、本当は私が心配だったのかもと思ったわ。
だって“優が自殺する“って誤解しなかったら、たぶんこんな状況になっていなかったのかもしれない。
その後、優は見る見る熱が下がって一時間もしないうちに良くなったわ。でも私たちが病院を出たのは、それから二時間もあとの事。“えっ、何をしていたかって。ふふっ、ナイショ”。
風にゆれる木に“ふっ”と映った影。“奔放で移り気な恋の女神アフロディーテ”が微笑んでいた。
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