第24話 二人の時 (3)
「なあ、聞いた。ミルキー、松戸の工場の総務課に転勤だった」
「えーっ、お前、どこからそんな情報を手に入れたんだ」
「内緒だけどよ。おれ、人事の加藤と結構酒飲み友達でさ。この前飲んだ時、“ポロっ”と言ってた。でも本人はとても寂しそうだったぜ」
「どういうことだ。加藤は人事部長じゃないか。人事権、あいつが握っているだろう。そもそもミルキーは、加藤がよこしまな考えで取ったといううわさだぜ。でも手も出せないうちに出てしまうから寂しいんじゃないか」
「おいおい、じゃあ、うちの会社で人事部長より人事権のある人間って誰だよ。あいつと同列の部長連中はあいつに物言えないし、あいつの上は、アメリカから来る連中ばかりだぜ」
「うーん、分らん。でもミルキーは産休が終わったばかりで、やっと会社に戻ってくるとみんな楽しみにしていたのにな」
「まあ、仕方ないよ。上の連中の考えているのは」
彼は、同僚の話を聞きながら、あの時のことを思い出していた。
自分の母親が、
“優、今日の事は全て忘れなさい。何があっても。分りましたね。これから花梨さんのところに行くのでしょう。顔を少し休めないと花梨さん心配するわよ”
そう言って、応接室に行き、電話していた事を。
「もう忘れろと言っても」
あの時のもとかの顔と裕一の顔を思い出していた。
「お願い、優しかいないの。お嫁さんにしてほしいとか、子どもを認知してほしいとか、言わないから、私とのこと誰にも絶対言わないから。お願い、優」
目に涙をためながら彼の背中に手を回して彼の胸に顔を押し付けながら救いを求めるような目で自分の顔を見ていた。
忘れられるはずが無かった。同僚の言葉が遠い向こうに聞こえながら、レクルームでコーヒーを飲んでいる優に
「葉月、葉月、聞こえないのか。なに“ぼけーっ”としてるんだ。アドバタイズメントの姫君の事で頭が一杯なのは分るが、そろそろ休憩時間も終わりだ。仕事に戻るぞ」
そう言って、自称先輩は、彼に声を掛けた。
「あっ、すみません」
そう言ってレクルームの席を立とうとした時、入口から彼女と小池さんの二人が入ってきた。自称“先輩”は入ってきた二人の姿を見ると
「うーん、仕方ない。三〇分延長でいい。部長にはうまく言っておく。ウィスキー三杯おごりだぞ」
そう言って、彼女に“きちっ”と礼をして出て行くと彼女と一緒に入ってきた小池が、
「あいつも天宮には甘いか。まあ仕方ないな。私だってそうだしな」
それなりの美人だが、さっぱりとした、いやしすぎている性格が三〇過ぎても彼一人いない状況を作っていた。
「天宮さん、先に戻る。私もウィスキー三杯ね。あいつよりうまいやつ」
そう言って、嬉しそうな顔をして入ったばかりの入り口から出て行った。
「優」
そう言って二人だけになったしまったレクルームの中で彼は、
「カリン、会社の中では、“葉月さん”」
そう言って笑顔を見せる彼に笑顔を見せると
「葉月さん」
と言って“すすっ“と彼に近寄ると、
「今週末、席順決めないといけないね。うちのお母さんと葉月さんのお母さん、また意地張らないといいんだけど」
そう言って、難しそうな顔をする彼女に
「いいよ、僕たちの友達さえ、席をしっかりと押さえれば、後は二人の親に任せよう。口挟んでも意味ないし」
そう言って笑顔を見せる彼に
「そうね、でもまた、優の家に家族で行かないと行けないね。ごめんね」
「カリ・・いや天宮さんが謝る事ないよ。仕方ないじゃないか」
「ごほっ、ごほっ、いっ、いつからレクルームのエアコンは壊れたんだ。暑いな全く。総務のやつら手を抜いて」
そう言って、結構この二人を感じ良く思っている人事の加藤が、レクルームに入ってきた。レクルームは、入口を少し入った後、喫煙ルームと禁煙ルームにセパレートされている。加藤はタバコを吸いにやってきたのだ。
「あっ、人事部長」
そう言って、彼女は“にこっ”とすると
加藤は、鼻の下と目元が足元に着くんじゃないかと思うほど長くして
「いや、天宮君、あっ、あっ、暑いなあ。気のせいかな、はっはは」
と食えない言葉を言いながら喫煙ルームの方へ消えていった。
「天宮さん、そろそろ行こうか。帰りはいつものとこで」
「うん」
満面の笑みを浮かべながら彼女は、レクルームから出て行った。
「おっ、葉月、二〇分も掛からなかったじゃないか。ウィスキー二杯になっちまったな」
そう言って、いつも同じギャグを飛ばす、自称先輩が、タバコ臭い息を吐きながら言った。
彼女は、レクルームから自分の部署に帰る途中、トイレが近くなり途中でレストルームによると洗面台で話す女性二人の聞きたくない言葉を耳にした。
「ねえ、私も聞いただけなんだけど。ここだけの内緒よ」
「なに、なあに」
「天宮さんの彼が、青山のビギンズからミルキーと出てきて、そのまま彼の車で赤坂見附方面に向ったって、私の知り合いが言っていた。確か二週間前」
「うっそー。それ超スクープジャン、だってミルキー、産休終わって戻ってくるはずだったのをいきなり人事命令で松戸の総務行きになったんでしょ。うわさでは上から圧力が掛かったらしいよ。それと関係あるのかな」
「上からって」
「もちろん、社長よりはるか上、私にも分らないわ」
「しかし、それ事実だとすると、とんでもない事ジャン。だって葉月さんと天宮さん、後二週間で結婚式よ。私、信じられない」
「ばっーか。だからうわさだって。無理有るからこのうわさ」
「なんで」
「そもそも何で、あんなのが、うちの最高の美女と最高の可愛い姫様を手に取れるのよ。あんただって分るでしょう。絶対無理無理。私認めない」
「それって、単に二人にやきもち焼いてるだけジャン」
「そうかな。まあいいや。でも天宮さん羨ましいな」
「まあ、仕方ないね。あそこまで絵本のストーリーを実践されては。それに私、男はともかく、天宮さん大好きだし。一度でいいから、あの“可愛いほっぺ”に思いっきりキスしてみたい」
「あんた、変態。まあ、私もあそこまで可愛いと、してみたい気分もあるけど」
カリンは、最後の言葉を少なからず恥ずかしくなりながらコンパートメントの中で聞いていたが、前の方の話は、心が幾重にも引き裂かれる思いだった。
“優が、そんなことするはずが無い”
そう思いながら二週間前の日曜日は、確かに彼は一人だった。カリンがバレエの公演の手伝いが終わるまでは。心が衝撃に揺れていた。
「優、私を“大切にしてくれる”って言ったよね。“恋人にしてくれる”って」
もう一年近くになる“始めての時“彼の車の中で言った言葉が、カリンの心の支えだった。いまでも。
いつもの信号で先に待っている彼の顔を見ると、カリンは、レストルームの事が気になりながらも、やはり嬉しかった。
「優、待った」
「うん、とっても、一分とじゅーに秒。もう待ちくたびれて、カリンにキスしないとエネルギーでない」
彼のいつもと変わらない温まるジョークに
「そうか、よしよし。でもキスはおあーずけ」
「えーっ、カリンもう一歩も歩けない」
「じゃあ、私もここにいてあげる」
彼は、しゃがみながら下を向くとカリンもしゃがもうとした時、一瞬に唇を合わされ
「えへへっ」
と言うと
「ずるーい、するんだったらもっとー」
「だめー、おあーずけ」
と言って、彼女の手を取って起き上がった。カリンは、昼間のことが頭から消えていた。
二人は、いつも側にいた。今日も、そしてたぶん明日も。
ほんの少しお酒の酔いに任せながら、食事が終わってテレビ局のある方向にゆっくり歩いてきた二人は、人気の少ないところで抱き合いながら
「優、これから言う事、怒らないで聞いて」
そう言って、彼の腕の中から体を離して彼の目を見ると
「優、・・」
時間が過ぎた。カリンは今から言う事をもし彼が肯定したら、“そんなに自分を信用できないのか“と言って怒ったりしたら、そう思うと口から言葉を出せなかった。
ただ、下を見ていた。
「カリン、どうしたの」
優しく彼の腕の中に再度抱かれながら、
「優、本当に怒らならいで聞いて」
彼は黙っていた。カリンが何を言おうとしているか少しだけ解った気がした。
「会社で私がコンパートメント入っている時、洗面台にいた人たちが、優と秋山さんが青山で一緒にレストランから出てくるところを見たって。バレエの発表会の日」
少し間をおいて
「本当なの」
彼は黙っていた。
「優、なぜ何も言ってくれないの。本当なの」
「カリン」
肯定も否定もしない彼にカリンは
「教えて。本当に秋山さんとは何もなかったの」
沈黙が続いた。
「本当なのね」
彼の腕の中を抜けると少し距離を置いた。彼女の顔が段々変って来た。そして少しずつ後ずさりすると
「うそつき」
そう言って、彼とは反対の方向へ走った。
どこを走ったのか解らなかった。気がつけば渋谷の駅のそばにいた。
カリンは、とても電車の乗って帰ることが出来ず、タクシー乗り場に行くと段々涙があふれ出てきた。悲しくて、悔しくて、情けなくて仕方なかった。自分の順番になると“くしゃくしゃ”な顔になりながら、家の住所を告げると、そのまま泣き崩れた。
「お客さん、この辺ですか」
カリンは、顔を上げると自分の家の駅のそばだった。そのままタクシーを降りて家に向かうと玄関のドアを開け何も言わず二階に上がりドアを閉めた。ドアを背にしながらそのまま泣き崩れた。
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