第23話 二人の時 (2)


「カリン、じゃあ、また夕方来るね」

「うん」

カリンは、今日の夕方から始まるメイコ先生のバレエ教室の発表会の手伝いの為、簡易保険ホールに送ってもらった。


玄関で彼と別れた後、玄関の脇にある楽屋入口から中に入り、階段を降りて行くと長い廊下が有るが、もうそこには、今日の朝のゲネプロの為、多くの生徒がいた。


「カリン、久しぶり。なーんか輝いているわよ。うらやましいな」

久々に有った友達にりょうこは、顔に思いっきりの笑顔を出して言うと

「りょうこ、久しぶり。どう仕上がりは」

急に冷静な顔になり

「いつもの感じ」

と言って少し目を横に流した。周りには、見慣れた風景があった。


自分のパートを踊る為の派手な衣装が所狭しとあり、トウシューズの調整をまだ行っている子もいる。カリンは、慣れた感じで後輩の手伝いを始めた。


ゲネプロは、舞台の終わりの演目から始まり、最後がその日の最初の演目になる。こうすることによって、衣装の着替えを開演直前でドタバタしない様にする為だ。

今日のプログラムは、小さい子供たちの定番“初めてのトウシューズ”から始まり、“コンテンポラリー”、“白鳥の湖の第二幕”、“シルフィード”へと続く。


優は、彼女を送った後、久しぶりに一人の日曜日を過ごしていた。

「どうしようかな。四時には入口に並ばないと行けないと聞いているし、かといってそれまでどうしようかな。泳ぎにでも行くか」


車で世田谷区にある砧公園の駐車場まで走らせると駐車場の入口でチケットを取り駐車場に入れる。

「久しぶりだな。ここに来るのは」

そう言って駐車場から世田谷区立総合運動場の中にあるプールへと向かった。


世田谷総合運動場は砧公園の一角にあり、野球場、サッカー場、テニスコート、ゴルフ練習場、体育館の他、五〇メートル、二五メートル、子供プール、屋外プールを備えた大型水泳施設が有る。更にサウナやジム施設まであるからすごい。


優は、この施設を結構利用していた。彼女とは水泳に数回来たが、苦手なようで来なくなった。と言うより自分が“彼女の水着姿を人に見せたくない”と言った方が正しいかもしれない。その位引き込まれる。彼女の水着姿に。抱きしめたい位になる。


水泳施設の自動販売機で一時間チケットを購入すると、そのまま地下に降りて行き、チケットを自動改札に入れるとロッカー室へ入れる。

彼は着替えた後、シャワー通路を通ってプールに行くと見慣れた風景が有った。


少し“ほっ”とする感じで五〇メートルプール側の端で準備運動をした。体の先の方から順々に大きく可動させる準ストレッチの様な準備運動が終わって、プールに入ろうとした時だった。


「葉月さん」

聞き覚えのある声だった。優は、“でもここにはいるはずもない”と思い声の方向へ振向くと見間違う事がない顔だった。そして、透き通るような肌と、かつて知っている感触が甦る。


「もとか」

嬉しそうな顔で“こくん”と頭を下げると

「お久しぶりです。ここで会えるなんて信じられません。もとかって呼んでくれるんですね。うれしい」

優も同じだった。ほんのちょっと久しぶりに時間があるから水泳をと思っていたのに、まさか秋山元花がいるとは思いもよらなかった。それも水着姿で。しかし、もとかと呼んだのは本能的だった。

そして名前を呼んだ後・・声が出なかった。

一段と綺麗になったと言っていい。

世に“子供を産んだ後の女性はこの世で一番綺麗“という言葉が有るがその通りだ。


「驚いているんですか。私がここにいるので」

少し寂しそうな顔になったもとかに

「いや、そう言う訳では。その、なんというか一段と綺麗になって。その」

急に嬉しそうに目元をほころばせ

「うれしい」

と言うと

「少し話せますか」

「うん、いいよ。時間あるし」

「天宮さんと一緒ではないのですか」

「ええ、カリ・・、いや天宮さんは、今日は用事が有って」

「えっ」


そう言うとますます嬉しそうな顔をして・・。何か勘違いした様な気もしたが、段々冷静になってくると

「ところで、もとかは、水泳できたっけ」

「ええ少し。赤ちゃんを産んだ後、ここにお肉がついて洋服きついから頑張って少し落とそう思って」

そう言って優の方のウエストの肉を少しつまんだ。彼から見れば十分に細く綺麗に見えたが。


五〇メートルプールの観客席側に腰を降ろして座りながら話していると

「折角来たのだから少し泳ぎましょう。私もまだあまり泳いでいないし」

そう言ってプールサイドに行くと、もとかは彼の顔を見て右手で手招きをした。

実際、あまり上手ではないが、平泳ぎは何とか前に進んでいる。ただ手足が長く思い切り広げるととても奇麗に見えた。


彼は、もとかに声を掛けた後、遠泳コースに入り五〇〇メートルを一〇分程で泳ぐとプールの端で待っていたもとかの側に寄った。

「優、上手いね。私にも教えて」

そう言って、一般コースに優の手を引いて歩こうとしたが、動かず逆に前足が滑って優の体に抱きつく形になった。


 一瞬顔を赤くしたが、すぐに離れなかった。周りの男の顔が睨んでいるように見えると

「もとか、一般コースへ行こう」

そう言って今度は優がもとかの手を引いた。


優は、手をお腹の下に入れて基本的な泳ぎの動きを教える。決して触るわけではなく、もとかが浮くような感じで支えてあげる。

もとかのお腹はとても柔らかかった。お腹を触っている感覚の柔らかさに

「赤ちゃんは」

つい言葉が出てしまった。本当は言ってはいけないことと知ったのは後の祭りだ。

もとかは、優の腕から降りると目を輝かせてうれしそうに

「気にしてくれていたんですね。もとか嬉しい。会って頂ける」


断れる状況ではなかった。プールのある室内と言っても、とても大きい壁に掛けてある時計は、まだ一一時半を指していた。

結局、優は、そのまま、プールを出て、もとかを乗せて、三軒茶屋にある彼女のマンションに向かった。マンションの駐車場ではなく、駅の近くの駐車場に入れるともとかが、

「優、ちょっと待って。家の中にお母さんがいるの。会いたくないでしょう。“ゆういち”を連れてくる」

と言って一人でエレベータを上がった。


「えっ」

優は、少なくないショックを受けた。赤ちゃんの名前“優一”。カリンが知れば必ず解る。心臓の鼓動が指先まで伝わってくる。やがてエレベータが降りてくると、一階のソファで待っていた優に

「優、見てあげて、“ゆういち”、漢字は“裕一“と書くの。本当は」

そのまま、下を見て涙ぐんだ。


「ごめんなさい。久々に会って。まさか赤ちゃんまで会ってもらえるなんて」

ほとんど声にならなかった。

「本当は“優一”と付けたかった。でも必ず跡が残るから、それで」

涙がぼろぼろこぼれた。赤ちゃんを抱いているので、目を手で覆うことが出来ない。優は、もとかを抱きしめてあげる以外になかった。


「良い名前だよ」

そう言うと泣きべそになった顔を上げながら少し微笑むと

「裕一、お父さんが良い名前だって。良かったね」

優の胸に突き刺さる言葉だった。


結局一五分ほど一階のフロアで過ごすと

「優、裕一をお母さんに預けてくる。ご飯一緒に食べれない。もとかお腹すいた」

そう言って甘えた声を出すもとかにちらっと腕時計を見るとまだ午後一時、まだ大丈夫と思うと

「うん」

と言って微笑んだ。もとかは嬉しそうに

「ほんと、じゃあすぐ裕一を預けてくる。ちょっと待っていて」

また、赤ちゃんを連れてエレベータで上がると一五分位降りてこなかった。


やがてエレベータが一階に着くと綺麗に着替えをして薄く化粧をしたもとかが出てきた。

とても綺麗だった。優は一瞬“ドキッ“としたが、顔には出さずに”にこっ”とすると

「優、今私を見て“どきっ”としたでしょ。顔に書いてある。前から変わらないわ。うれしい」

そう言って右と左を見るといきなり唇を優の唇にあてた。そのまま、もとかは、優の後ろに手を回すと

「優、会いたかった。とっても、とっても、会いたかった。でも優にあんなこと言って意地張ったから」

そう言って、もう一度唇に吸いつく様にすると

「さっ、行きましょう。うれしいな」

そう言って、マンションの入口へ歩いて行った。


優は、明らかに前より精神的に強くなっているもとかに、少したじろんだ。

“子供を産んだ女性は強くなると言うが本当らしい”そう思って優は、もとかの後をついて行った。

「優、三軒茶屋を出ましょう。誰が見ているか分らないし。ねえ、青山のお店知っているの。そこに連れて行って」


優は明らかに劣勢だった。仕方なくもとかの知っているお店に来ると

「ここのスパゲティはとても美味しいの。優も気に入るよ」

そう言って、シンプルな、ぺペロンチーナと春野菜のスパゲティと白のグラスワインを頼んだ。車だけどグラスワイン一杯くらいと思うと優は注文をOKした。


もとかは、会社を産休してからの事、病院で産むまでの事、“もう働くのはいいから実家で過ごしなさい“という母親との口論、実際、もとかは父親を知らなかった。

そして実家を親戚に頼んで三軒茶屋のマンションに親子で住むようになったことなど色々話した。


 優は、それをただ相槌打ちながら聞いていた。時計を見るともう三時過ぎだった。いつの間にか二時間も過ぎていた。優が時計を気にすると

「優、時間ないの。今日は一日空いているって言ったのに」

そうして、目元まで涙を潤ませると彼の顔を“じっ”と見た。優は、自分自身の心の中で凄まじい嵐が吹き荒れていた。


少しの間、もとかの顔を見ながら

「もとか、僕も嬉しいよ。会えて。でも」

「でもなあに」

彼の目を逃さないように見ながら言うと

「分った。後二時間、家に帰って両親と色々話さないといけない」

彼の目を奥まで見るようにするともとかは、

「ふふ、いつもながら下手なのね。うそつくの。仕方ないよね。でも絶対、後二時間は約束して」

そう言ってすがる様な目で見ると

「優、出よう」

そう言って席を立った。


「お願い、優しかいないの。お嫁さんにしてほしいとか、子どもを認知してほしいとか、言わないから、私とのこと誰にも絶対言わないから。お願い、優」

目に涙をためながら彼の背中に手を回して彼の胸に顔を押し付けてきた。

どうしようも無かった。ホテルで“お茶をしたい”と言いながらフロントでいきなり部屋をリザーブした。


 部屋に入ると、もとかは彼に抱きついて、ただ顔を彼の胸に押し付けてきた。そして顔を上げて言った。

「お願い」

そう言って、彼の体に自分を預けた。


優は、もとかを三軒茶屋まで送った後、着替える為に家に一度寄った。まだ、開演して一時間。着替えて行っても十分に間に合うと思った。


車を降りて、直ぐに自分の部屋に行き着替えると階段を下りて玄関に立った時、

「優、待ちなさい」

今までに聞いたことの無い、母親の声だった。声の方を振り向くと綺麗が故にとても怖い顔をしたお母さんが立っていた。何も言わなかった。

ただ自分の息子を“射抜くように”そして“絶対に許さない”という顔で見ていた。時間が流れた。

彼は動けなかった。始めて見る母親の顔だった。

「結婚式まで、後、何日、言ってみなさい」

優は押されたように

「後、一ヶ月と一五日」


また、少し沈黙があった。本当に怖かった。自分の母の顔が。

「優、花梨さんをもし裏切るような事があったら、たとえ息子でも私はあなたを許さない」

厳しい目だった。

また時間が経った。やがてゆっくりといつもの優しい目になっていくと

「優、今日の事は全て忘れなさい。何があっても。分りましたね。これから花梨さんのところに行くのでしょう。顔を少し休めないと花梨さん心配するわよ」

そう言って、可愛い息子を軽く抱擁すると応接へ消えた。電話をしている音だけが聞こえた。


彼は、お風呂場に行って洋服を脱ぐといきなり水を浴びた。すごい冷たさだった。もう四月が終わろうとするのに。

シャワーの水に顔を当てながら、涙がこぼれた。自分への責任、もとかのこと、初めて抱いた“裕一”のこと。全ては自分がしたことだった。声を出さずにずっと泣いた。そして一言だけシャワーの水の中で言った。

「ごめん」と。


五反田の郵便貯金ホールに着いたのは、もう七時を回っていた。優は、地下の駐車場に着くと急いで、地上に出て、玄関から入った。

もう入場の手続きは終わって、教室の生徒に渡す友達から送られた花束が名札と共に置かれた。係りの人が不思議そうに見ながら優は、正面のドアをゆっくり開けようとすると、

「今、公演中です。横からお入り下さい」

と言って制止された。

優は、左横に回って行くと二重扉のドアがあった。ゆっくり開けると、公演が続いている。優はそれを見ながら初めて見る綺麗な舞台に驚いてた。

 やがて公演が終わり、最後のメイコ先生という人の挨拶も終わると舞台の上から大きな幕が降りてきて会場が明るくなった。


優は、人波にもまれながらさっき制止されたドアの前に来ると、化粧のキツイ“遠くで見ると丁度いい”バレリーナがチュチュを着て花束を持ちながら友達や家族と写真撮影をしたりして話していた。


彼は、そこに立ったまま雰囲気に圧倒されていると

「優」

と言って声を掛けるカリンの笑顔があった。カリンは近づいて来ながら段々、泣き顔になって、彼の側に来たときには、もう彼の胸に顔をうずめて泣きじゃくっていた。


カリンと一緒に何人かの女性が付いて来ていたが、みんな鋭い目つきと興味の目で彼の顔を見た。やっと少し泣き止み始めたカリンが、優の胸を両手で叩きながら、また胸に顔を埋めて泣き始めた。

周りで見ている人も少し様子に気がついたのか、こちらを見るようになってやっと

「カリン」

と声を掛けると涙で、くしゃくしゃになった顔を上げて

「私も出たかったんだから」

と言ってまた、彼の胸を叩いた。


「分った。次は必ず出ていいよ。僕も見に来る」

それを聞いた彼女は、涙目を少し笑顔にして

「本当」

と言うとやっと顔を上げた。着替えたシャツが、彼女の涙で“びしょ濡れ“だった。


「りょうこ、しの、えり。葉月さん」

いきなり紹介されながら、まだ彼女が胸の中にいる彼は、右手を頭の後ろにやって

「どうも」

と言うと

「ふーん、カリンが選んだ旦那様か」

「やっぱりカリンらしいよね」

「まあ、本人の勝手だし」

ぼろぼろな評価を耳にしたカリンがいきなり彼の胸から顔を離すと

「いいの、優は私だけのものだから」


全員がそこで滑りそうになった。彼は首から上が全て真っ赤になりながら下を向くと

「なるほど、確かに」

「うーん、焼けるな」

「カリンらしい旦那様だな」

なぜか納得した言葉に変わると

「ふふっ、でしょ」

今度はまともにこけそうになった。


彼女が郵便貯金ホールの楽屋口から出て来ると、もう九時近かった。

「カリン、お疲れ様。今日はカリンの好きなものご馳走する。何が良い」

そう言いながら、助手席のドアを開け彼女を乗せてドアを閉めた後、運転席側に回ってドアを開け、エンジンキーを向こう側に回すと、何故かずっと下を向いている彼女が小さな声で

「優」

と言った。彼はストレートシックスのエンジン音にかき消され、聞こえなかったのでもう一度

「何がいい」

と聞くと

「優」

と答えた。

「えーっ」

恥ずかしさの中で“お前は人食い人種か”と冗談を考えていると

彼女は彼の方をずっと見て瞳を閉じた。

優は、右と左を見て人がいないことを確かめると彼女の背中に腕を回して唇を付けた。唇を離すと彼の目を見ながら

「会いたかった。少しでも離れていると苦しいの」

と言ってもう一度唇を合わせて来た。


車を渋谷方向に走らせながら、

「カリンの条件は飲んだ。でもちょっとお腹すかない」

とおどけた調子で言うと

「ふふ、私も」

と言っていつものたまらなく可愛い笑顔を見せた。結局カリンを家に送ったのは一時を過ぎていた。

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