第17話 新しい展開 (4)
やがて、仲居が生中とグラスビールを持ってくると二人の前に置いた。
「優、ありがとう。また一緒に食事が出来る事に乾杯」
そう言って、グラスビールを、細い手で持つと
「元花の笑顔に乾杯」
そう言って生中とグラスビールの縁をほんの少し当てた。
秋山は、グラス半分位飲むと
「うわーっ、やっぱりおいしい。優がいるから二倍おいしい」
そう言ってうれしそうな顔をした。
「それは良かった」
「優、何か楽しくなさそう。お腹の大きい私では、だめ」
悲しそうな目で彼の目をしっかりと見ると
「そんなことない。ただ、少し驚いているだけ」
「何に」
「うん、お腹の子の事や元花の強さに」
少し、静かな時間が流れた。秋山は、右手でゆっくりと自分のお腹をなでるように触って
「良いと思ったの。大切な人の子供だから。自分が生みたい。大切に育てたい。それだけで私が幸せと思うなら」
目に涙を一杯ためながら“本当は、本当に言いたい一言”を我慢している元花を見ると彼は、ますます何も言えなかった。常に自分自身に“ある疑い”を持っているから。
「優、心配しないで。この子の父親の事は絶対に誰も言わない。でも、でも」
下を向きながらテーブルの上に涙がこぼれていた。
「でも、この子の父親は、この子が自分の子であることだけは知っておいてほしい」
もう、両手で顔をふせていた。指の間から、宝石のような涙が落ちてくる。時間が流れた。止まっている感じになる位、長く感じられた。そして秋山は顔をゆっくりと上げると
「優、私を知っているのは、あなただけよ。」
今度は、しっかりとした目で彼を見た。
「認知しろとか、妻にしろとか、絶対に言わない。でもこの子があなたの子であることだけは知っておいてほしい」
優の目を“ずっ”と見ていた。
「生まれる二ヶ月前から産休を取るの。さすがに臨月近いお腹で受付できないから。そしたら優には当分会えない。産休が終わったら、この子を母親に預けて働く。この子の為に。許してくれる。優」
彼は、何も言えなかった。ただ、ゆっくりと過ぎる時間の中で頭を“コクン“と前に倒して
「分った」
とだけ言った。急に秋山の顔が明るくなった。
「やったあ。優に許してもらえた。これで安心して産める。ありがとう優」
「良かったね。君のお父さんは、君が産まれて来ることを了解してくれたよ」
そう言って、今度は左手でお腹を触りながら、グラスに残ったビールを一息に飲み込んだ。
“なぜ、女性はこんなに強いんだろう。僕はこんなに強くなれない。母もカリンもそして元花も”
少し、自虐的な気分になって、一気に生中を飲み干した彼は、ジョッキをテーブルに置くと
「おかしいな。料理を何故持って来ないんだろう」
と言うと
「だって、注文してないもの」
「えーっ」
と言って驚く彼に
「最初から話し立てこんだから、注文しなかったよ」
そう言ってうれしそうに笑う元花につい優も笑ってしまった。
さすがに今回は、秋山は控えめであった。むしろ食欲が旺盛で優を驚かしたくらいであった。
二人がお店を出ると午後八時半を回っていた。
「優、家まで送って」
そう言って彼の目を見る元花に
「うん」
と言うとタクシーを拾った。渋谷から三軒茶屋までは空いていた。今日は、秋山のマンションの前でタクシーから降りると秋山は、すがるような目で優を見た。
彼は仕方なくエレベータの方に向かい、ドアオープンのボタンを押すと、秋山がエレベータの中に彼の手を引いて入れた。優は、ちょっと諦めていた。“今日が最後”そう思って、元花の部屋に入った。
ドアを閉めると秋山はいきなり彼の唇を求めてきた。彼はゆっくりと秋山の体を抱くと柔らかい唇をゆっくりと吸った。
秋山は、少しの間、そうしていると自分から離れて
「優」
と言ってすがりつくような目で見た。
「でもお腹大きいのに」
「大丈夫、仕方があるから」
そう言って、彼の手を引いてベッドルームに誘った。
結局、優が家に帰ったのは一一時を過ぎていた。
「ただいま」
「遅かったわね」
「うん、先輩に引っ張られて、三次会の途中で逃げ出した」
「花梨さんから電話行かなかった。通じないと言ってここに掛けてきたわよ」
優は一瞬、汗をかいた。ただ、カリンに電話をかける気にはなれなかった。今日だけは。
「お母さん、今日少し飲みすぎたせいか、体調が悪い。もう寝ます」
そう言って階段を上がっていく息子を見ながら
“おかしいわ。酔っているようには見えない。それに少しのお酒くらいで酔うような子でもないのに”
万に一つの疑いも持たない母が、少しだけ疑問を持った。ただその後姿だけは、とても疲れているように見えた。
彼は、翌日会社を休んだ。体ではない。心の疲れだと自分でも分っていた。自分自身への責任。元花の“自分も子供の為に生きていかなければならない“という強い心に倒されたという、心へのプレッシャーだった。
カリンは、“何故昨日の夜、彼が電話を掛けてこなかったのか。何故今日休んだのか。自分にも連絡しないで”心の中で何か自分でも分らないものが動いていた。
「優、どうしたの。こんなに熱を出して」
彼の熱の体温計にある数値を見ながら心配そうな目で彼の目を見つめた。母親が愛おしい息子を大切にする目だった。
「お母さん」
そこまで言うと優は、顔を横にして少しだけ目を潤ませた。優の母は息子の流す涙が、ほんの少し何か分るような気がした。
優の母は、“優に全てを捧げたカリンのこと”をとても心に留めていた。故に息子の今の病に気を掛けた。
「優、ゆっくり休みなさい。心が落ち着くまでお母さん待っているから」
そう言って、部屋を出て行こうとする母に
「お母さん待って」
息子の声に振向くと、すがるような目で母の顔を見ていた。優は、自分の心の中が整理できないでした。
“カリン、くるおしいまでに愛おしい女性。そして自分が全てと言って体を預けてくれた元花。そして自分の子供の為に自分一人で生きていくと言った女性”
自分では、どうすればいいのか、あまりにも展開が早すぎた。
「お母さん、ごめん」
そう言って自分の今までのことを話した。
「優」
長い時間が流れた。一分なのか一〇時間なのか。分らない一瞬の後、
「優、いつから、あなたはそんなに素敵な人たちから心を奪えるようになったの。やっぱりお父さんの子供ね」
そう言って、ほんの少し遠くを見つめるような目をしたお母さんは、
「大丈夫、その人も絶対強く生きるわ」
まるで、何かを知っているように息子の髪の毛を触った。彼は母親の言った意味が分らないまま睡魔の虜になった。
「あなた、優はやっぱりあなたの子ね」
美しい顔がはっきりと自分の夫を見ると、妖霊に輝くように美しく見える。何も言えない夫に優の母は、
「葉月家の子供です。花梨さんは葉月家の嫁ですが、元花という人の子供も葉月優の血を引く以上、私は責任を持って見守ります。いいですね」
「お前の好きなようにしろ」
優のお父さんは、かつての記憶をたどりながら妻の言葉を受け入れた。
「秋山さん」
元花は、虎ノ門の地下鉄方向にお腹を大事にしながら歩いていると、自分の行く方向の歩道にたっている美しい女性に声を掛けられた。車道には黒い車が停まって、スーツをきっちりと着たサングラスを掛けた男が車のそばにいた。
元花は、一瞬、両手をお腹に当て、“これから生まれてくる大切な人の子供“を守るように身構えて歩きを停めた。
「ごめんなさい。驚かすつもりはありません」
そう言って元花の目の奥を見るように見つめると
「そのお腹の父親の母です」
そう言って、縁の広い帽子を取り、ゆっくりと頭を下げた。
元花は、まだ構えるようにその女性を見ていると
「少しお話がしたいことがあります。その子の為にも」
そう言って車に乗るよう仕草をした。
元花は、抗いがたい状況を理解して自分のお腹に手を当てながら黒い車の後部座席に乗った。
やがて、その女性も反対側の後部座席に乗るとさっきまで車のそばにいた男が運転席に座り、車を走り出させた。
何も話せなかった。元花は“もしこの子を降ろさせようとでもしたら、命に代えても守る”と思いながら、その静かな時間を過ごした。
やがて、車は、赤坂見附にある高級ホテルの正門に着くとポーター達が普通であればいう言葉も言わないままに、ただ深くお辞儀をしてその女性を迎えた。元花は、心の中で絶対に守る”いう気持ちだけでその女性に付いて行った。いや行かされた。
やがてその女性と元花は、三七階の部屋に着くと先ほどまで運転していた男が、ドアを開け二人が入った後、ドアを閉めた。明らかに外で待っていることが分った。
女性は、縁の広い帽子をテーブルの上に置くとさっきまでと全く違った目で元花を見て
「驚かしたようね。ごめんなさい。私は葉月優の母です。秋山元花さん」
そう言って元花の目を見た。
「やっぱりね。綺麗な顔」
そう言って含みのある笑いをすると、まだ身構えて椅子に座ろうともしない元花を見て
「元花さん。心配しないで。立っているとお腹の子が心配になるから」
意味が分らないが、少しお腹の事を心配しているのだと分ると元花はそばにある椅子に座った。座ると、とても心地良かった。
時間が流れた。美しい女性だった。自分の母も綺麗だが、品と風格を備えた上流社会に生きる人の全てをそなえているような気がした。
元花は父親を知らない。母が自分を産んだ直ぐ後に事故で死んだと聞かされた。困らない生活ができるのは保険金のおかげだと聞かされていた。
でも元花は大きくなるとちょっとだけ、母親の言葉に疑問を持ちながら、母親が働きながら自分を大学まで行かせてくれた事に何の疑問も持たなかった。そして今、本当に好きな人の子をお腹に持てた。たとえ一生を連れ添えなくても。
その女性は、元花を品定めでもするかのように“じっ”と見ていた。元花は、早く帰りたいと言う気持ちで
「何の御用でしょう」
精一杯の勇気を出して言うと
「“ふふっ”、あなたのお腹にいる赤ちゃん、葉月家が見守りたいの」
そう言ってもう一度元花の顔を見ると
「私は、優、いえ、彼に何も求める気はありません。この子は彼の子です。でも私の大切な子です。彼に許してもらいました。この子を産んで育てる事を。だから誰にも渡しません」
優の母は一瞬“ひるんだ”。子を守る強い目だった。少しまた時間が流れた。
「秋山さん、いえ元花さん、あなたも知っている通り、確かに花梨さんは、優の妻になる女性です。そして葉月家の嫁になる人です。でもあなたのお腹にいる子は、葉月家の子でもあるのです。分って頂けないかしら」
「意味が分りません。この子は、彼と私の子です。葉月家の子ではありません」
時間が流れた。
「分りました。強い方ね。もしあなたが、どうしてもその子の為に必要な事があれば、これを銀行に出しなさい。全てが解決つきます」
そう言って、優の母親は“葉月”としか書かれていない“銀色のカード”を渡した。
元花の顔色が一瞬変わった。そして“強く、強く、強い眼差し”で優の母の目を見つめた。まるで何かを思い出したように。視線を外さなかった。“ずっ”と見ていた。時間が止まるほどに。
「優のお母さん、失礼します。この子は私が一人で育てます。葉月家の力は借りません」
“恨むほどに強い目”で優の母の顔を見ると頭を下げてドアに向った。
テーブルの上に置かれ“葉月”と書かれた銀色のカードだけが残った。
優の母は、窓の外、遠くに見える景色を見ながら
「葉月家の女」
それだけ言うと椅子を立った。
「あなた、会って来たわ」
何も言わない夫に
「綺麗に育っていましたよ。“美しい“という言葉はあの人の為にあると思う位に」
「どうしたんだ」
「“葉月家の女”でした」
そう言って自分の夫が座るソファの前にある重厚なマフォガニーのテーブルに“葉月”と書かれた銀色のカードを投げ出した。
夫は遠くを見つめた。かつての自分を思い出すかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます