第13話 新しい展開 (1)
タクシーが、三軒茶屋の駅の上にある”キャロットタワー”の前に来ると
「お客さん、三軒茶屋着きましたよう」
声を掛けられて、優も寝ていることを気付いた。
「秋山さん、着いたよ。降りましょう」
優が、声も掛けても“ぼーっ”としている秋山をキャロットタワーの前で停まったタクシーから抱えながら引きずり出すようすると、秋山は右手を前に出して“あっち”と言う風に歩く方向を指さした。
優は、しかたく秋山の腰のあたりをもって歩くと、少し酔った男たちが、
「ちぇっ、あんな美人を良いよな」
とからかう様に通り過ぎて行った。
もとかは、優に腰を持たれて酔いも有るのだろうが気持ちよかった。少し歩いて左側にあるマンションの前に来ると
「ここ」
と言って右腕を上げて、また左を指さした。
「もう、独りで行けるでしょう」
と言うと
「今日は最後まで一緒と言ってくれたじゃない。あれは嘘なの」
すがるような目で優を見る秋山に仕方なく
「じゃあ、部屋の入口まで」
と言ってマンションに入るとすぐにエレベータは有った。
「何階」
と聞くと
「八階」
と言ったので、エレベータのドアを開けて中に入ってボタンを押した。“八階までしかない。最上階に住んでいるんだ”と思いながら、腰を抱えるようにして秋山を支えているとやがてエレベータが停まりドアが開いた。
秋山をエレベータから出すと、また右手を上げて左を指さした。八階には三室しかない。普通このフロアなら五室は入っていそうな大きさだ。
何とか、入口まで連れて来たので
「連れて来たよ。自分でドア開けられるよね」
と言って秋山を離そうとした優は、下を向いている秋山の顔から涙がこぼれているのを見た。
「もとか」
それだけ言って秋山の腰から手を話すと、下を向きながら
「お願い、帰らないで。お願い優」
秋山の涙を流しながらの声に、優は“避けることのできない事”を知った。
結局、家に帰ったのは二時を過ぎていた。何故か母親は起きて来なかった。
「帰らないで」
そう言って優を引き留めたもとかは、激しく優を求めてきた。優自身が驚く位に。何かを忘れたいそんな感じだった 。そして別れ際に
「さようなら」
と言ったと時のあの何かを言いたそうな悲しい目を優は、とても気になっていた。
次の日、秋山は会社を休んだ。会社の男たちは
「ミルキーいないと寂しいよな」
「俺、もう帰りたい」
「エネルギーゼロだー」
等と言っている。優は、それを聞きながら心に何か引っ掛かるものを感じていた。
「優、元気ないぞう」
「昨日、寝るの遅かった」
「何していたの」
おどけて聞くカリンに優は、
「カリンのこと考えていたら眠れなかった」
「嘘つき」
うれしそう顔をして言うカリンに
「嘘つかない、嘘つかない。だって明日は、両親にカリンを紹介する日だもの」
優は、自分がうそをついていない事に少しだけ安堵感があった。
「あっ」
と言うとカリンも黙った。一瞬だけ時間が流れたが、
「ふふふっ、恥ずかしいけど、うれしいな」
「でも、優と知り合って何ヶ月だっけ」
そう言ってカリンは、優の顔をうれしそうに見た。カリンは、優以外なにも無い。“ほんのちょっと”を除けば。
「あれ、小池さんどうしたの」
駒沢の研究所には、いつも同じ部署の小池が行く。なぜか玄関に後藤が立っているのを見て、カリンは不思議に思った。
「ああ、小池さん、ちょっと今日は別の用事があっていけないと言って、僕に頼んだんだ」
「そう」
ちょっとおかしいなと思いながら、色々あるのかなと思いカリンは、後藤の言葉を信用した。
駒沢の研究時は、RIAと呼ばれる放射性の物質を研究しているところだ。
放射性の物質と言うと普通の人は驚くが、医薬系で一般的に扱われる物質は、手をつけてもいない限る被爆する事はない。カリンの会社はこの研究所と提携して、新しい新薬の開発を行っていた。
研究所の人と一通りの打ち合わせが終わるとまだ夕方の六時前だった。後藤は
「天宮さん、まだ、六時前です。会社帰ります」
と聞くとカリンは、今日は優と会わないことを昨日話している事もあり
「うーん、できればこのまま帰りたいな」
「そうでしょう。でもちょっと早いよね。駒沢の駅の近くにおいしいレストランがあるんだ。行かない」
カリンは、何も考えず“このまま家に帰っても”と思って誘いに乗った。
食事はおいしかった。ワインも結構おいしく、後藤がレジをしたのでいくらか払ったかは分からないが、安くは無いような気がした。
もう七時を過ぎていたが、
「天宮さん、まだ八時前です。公園のちょっと大通りだけ歩いて帰りません」
大通りと言う言葉にカリンは、だいじょうぶと思うと
「いいですよ」
と返事をした。後藤が誘ったのは、前に優と来た道だった。少し暗いけど色々な人が歩いている。
ここならだいじょうぶと思って歩いていると、やがて人通りも少ない場所に来ていた。
「天宮さん、今誰か好きな人いるんですか」
優のことは言えず
「いいえ、まだ誰もいません」
と言うと
「えっ、本当ですか。信じられない。天宮さんほどの魅力的な人が」
「うまいなあ、後藤さん。そう言ってどうするんですか」
と言って、カリンは後藤の顔を見た。それがミスだった。
「これいけませんか」
そう言って、いきなりカリンの体を抱き締めると強引にキスをしてきた。あろうことか、優にしか許していない胸までも触り始めた。カリンは一瞬の事で何がなんだか分からなかった。
少しの間そうしていると後藤は、何を勘違いしたのか急に右手をカリンのお尻から大事なところに伸ばしてきた。さすがにカリンも状況が分かり、両手で後藤の胸を突き飛ばすと
「何をするんですか」
と大きな声で言った。回りの人間が驚いて見ている。
「ごめん、だって誰もいないって言ったから僕が立候補しようと思って」
そこまで言った後藤の言葉を塞ぐように
「ふざけないで下さい」
と言って、カリンは来た道を逆に必死に走り始めた。
許したくなかった。
“私の体は優だけのもの。他の人には絶対触られたくない”
そんな気持ちがカリンの心の全てだった。
涙を堪えて必死に走った。やがて人通りも多くなって来ると息を切らしながらゆっくりと歩いた。カリンは、優に迎えにきてほしかった。バッグからスマホを取り出して直ぐに掛けたが出ない。
“どうして優”そう思いながら、それでも、もう優のことは疑わなかった。ただ、“明日会える”それだけで優を心の中に置く事が出来た。
「そうだな。カリンと初めて一日廊下で三回会ってからまだ三ヶ月を過ぎたかなってところじゃないか」
「そうか、まだそんなんだっけ」
そう言ってカリンは、下を向いた。
「どうしたのカリン、ちょっといつもと違うけど」
優は、微妙にカリンの心のひだのゆれを感じていた。
「優、私からこんなこと言ったら起こるかもしれない。でも」
少し、間があった。下を向きながら
「優、ごめん、絶対誤解しないで」
また、少しの時間が過ぎた。
「お願い、今日誘って」
「えっ」
いつもは、優が誘ってカリンが応じるのだが、今日は違った。優はカリンに何かあったことは理解できたが、
“それ以上のことを聞かない勇気、聞いてはいけない勇気”を持っていた。
カリンは昨日の事が忘れたかった。でも言葉にはできない。優に抱かれる事で昨日のことを忘れたかった。
カリンは、優に抱かれながら昨日の嫌な事を忘れようとした。優が自分の体に入ってくると頭の奥から昨日のことが消えていった。
カリンは六時前から起きていた。と言うより緊張していたと言った方が正しかった。
ベッドの上で、ごろっとしながら、今日のことを考えていた。
“今日は、二子玉に行って、お買い物して、昼食を食べて、三時に優の家に行く。ちょっと緊張しちゃうな”
パジャマの胸元が少し割れている。寝ているときはブラをつけないので、そのままだ。カリンは、寝たまま自分の胸を両側から持って少し眺めていた。
「ちょっと、大きいな。もう少し小さければ良いのに。仕方ないか」
そう言って、ちょっといたずらっぽく、胸のトップを触って見た。何も感じない。
「そうか、君は、優の為にあるのか」
訳のわからないことを言いながら、また、ごろっとしているといつの間にか寝てしまった。
「花梨、もう八時半よ。昨日七時半には、起きると言っていなかったっけ」
「あーっ、まずい、優が九時には迎えに来る。トマトの花で朝食の約束していたんだ」
二階から、パジャマ姿で降りてきて、
「お母さん、なぜもっと早く起こしてくれないの」
「何を言っているんですか。自分のせいでしょ」
カリンは、急いで顔を洗うと髪の毛をブラッシングした。肩よりほんの少し長い。つやがあり、光っているように見える髪の毛をブラッシングしながら“ふふっ”、何となく、笑いが出ていた。
「どうしたの、花梨うれしそうね」
「えっ、別にいつもと同じだけど」
「彼が迎えに来るんでしょ」
「うん、九時の約束」
「あと、一五分しかないわよ」
「えーっ。間になわない。ええい、もういいや」
ブラッシングも適当に二階上がると
「どうしよう、優の両親と会うのに洋服考えていなかった。まあいいや。これにしよう」
選んだのは、淡いピンクを基調にしたワンピースと縁の広い白の帽子だった。
「ねえ、お母さん。これでいい」
二階から娘の声が聞こえると母親は
「自分で決めなさい」
「ねえ、来てよ」
仕方なく二階に上がっていくとカリンがワンピースを着て帽子をかぶりながら鏡とにらめっこしていた。
“どうしたのかしら、こんなに洋服にこだわるなんて、そんな子じゃないのにな”
そう思いながらも可愛い娘に
「花梨素敵よ。ところでそんなにおめかししてどこに行くの」
「別にー。ちょっと」
いつも彼とのデートの時は、適当にブラウスとスカートを選んで簡単に出て行く娘が今日はやたら、洋服を気にしている。
二階の窓から、ちらっと外を覗くともう彼が家の前に黄色いカリーナを停めていた。
「あっ、もう来ている」
そう言うと、呼んだ母親もそっちの気で階下に下りていった。
母親は、娘の姿を見ながら微笑むと
「花梨、口紅」
「もういい、彼、気にしないもん」
もう仕方ないという感じだった。
外に出ると彼がいつものように車の前に待っていた。普段と変わらないさっぱりとした服装だ。彼は、カリンの姿を見ると
「カリン、可愛いよ。とても」
と言って目を大きく開けた。
「うふっ、ありがとう」
そう言って彼に近づくと彼の視線が自分の後ろに向けられているのが分かった。
カリンが振り向くとお母さんが、優しそうな目で見ていた。そして
「娘をお願いします」
と言ってゆっくりと頭を下げた。優は、少し“どきっ”としたが、
「はい」
とだけ言ってカリンのお母さんの顔を見た。もう、全てを理解しているような目だった。
「優、行こう」
カリンは、もう母親の前でも彼を名前で呼んでいた。彼は、ちょっと恥ずかしそうしながらもう一度
「うん」
と言うと助手席に回ってドアを開けた。
つば広の帽子を取って、車に乗るカリンは、嬉しそうだった。彼はいつものように環八に出て、田園ラインのオーバーガードを右に行き、自由通りに入った。
今日は、トマトの花の直ぐ前にある有料の駐車場に車を入れた。
「パトは来ないと思うけど、今日は何となく、きっちりしておきたい気分だから」
そう言って、エンジンキーを手前に回して止めた。
カリンは、彼の気持ちが分かった。
カリンが車から降りて白い帽子をかぶると駐車場の係員が目を丸くしてカリンの姿を見た。カリンはどうしたのだろうと思って“にこっ”とすると係員はますます目を丸くした。
彼が、
「行こう」
と声を掛けたので駐車場を出て直ぐ前にあるトマトの花に足を向けた。
優がドアを開け、カリンが入ると座っている人が、全員ドアの方を見たような気がした。「どうしたのかな」
思いながら、カリンは、
「優、私何か付いている」
「ううん、カリン、今日とても素敵だよ」
そう言っていつもの白い大きなテーブルの真ん中の席に着いて、ふち広の白い帽子を横の椅子に置くと、いつもの“ちょっとおばさん”が嬉しそうな顔をして、水とお絞りを持って来た。
「いらっしゃい。お客様がドアを開けた時、一瞬“爽やかな春風が流れた”のかと思ったわ。もう、初夏なのにね」
そう言って嬉しそうに笑顔を見せてカウンターに戻ると、それまで彼と彼女を見ていた回りの人の“ドアを開けた時に見た笑顔”が分かったような気がした。
口紅もお化粧もしていないカリンなのに、十分に人を引き付ける“さわやかさ”は、彼女の魅力なのかな。そう思いながら彼は、いつものメニューを見ていた。
「カリン、二子玉川の百貨店って、何時に開くのかな」
お替りした、ほっとコーヒーを飲みながら言うと
「たぶん、一〇時くらいと思う。でもここでもう少しゆっくりしたいな」
カリンは、いつの間にかとても居心地が良くなったトマトの花で彼と同じようにコーヒーを飲んでいたいと思った。パンケーキは二人ともまだ、三分の一残っている。
「いいよ、ここ居心地いいし」
そう言って、笑顔を見せるとカリンも“にこっ”と笑った。
彼はデパートとかには、あまり縁が無い。カリンが買い物をしたいというので付き合うことになったのだ。
結局トマトの花を出たのは一一時を過ぎていた。
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