其のニ
翌朝、オフィスに到着すると野太い怒声があたしの耳の中の鼓膜を刺激した。
部長が、同期の優子に激しく叱責している。
優子はこうべを垂れ、部長のまるで人格を否定するような叱責を受けている。
誰も助け舟を出さない、我関せずの社員は皆、朝礼前にできる仕事を片付けている。
あたしもそのうちの1人で、気の毒だなぁ程度の同情しか湧かず、昼休みに一言励ましてやろうという気持ちでキーボードを打ち込んでいた。
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昼休みになり、今朝に部長からパワハラを受けた優子を励まそうと、彼女のデスクへ向かうが不在だった。
あたしは優子が向かった先が、おおよそ分かった。
自分のデスクに戻り、昨日拓也と食する予定だった野菜炒め弁当を口に運ぶ。
昼食を終え、午後の来客対応のため化粧室でメイクを直しているあたしの隣に、何食わぬ顔の優子が現れた。
「あゆみ、おつかれ〜」
今朝の死んだような顔と打って変わり、張り付いたような彼女の笑顔をみて、あぁやっぱり、と悟った。
「おつかれー。ねぇ優子、今朝のハゲ部長のあの言い方、マジないよねー?」
「ん?何のこと?」
間違いなく優子は忘却治療をしてきた。
あたしは「んーん、なんでもない」と鏡に顔を向き直し、リップを塗る。
この子は叱られる度、オフィス近くにある脳神経外科病院に足を運び忘却治療をする。
入職してから今日まで。
だから辞めずに長くこの仕事を続けられているのかもしれない。
45分という短い昼休みの間でも手軽に出来てしまう忘却治療。
あたしは恐ろしく思う。
嫌な事だとしても、記憶が瞬時に消されるだなんて…。
でも、自分も何度か忘却治療をした経験がある。
何で治療したのか、もはやその理由を忘却するのだから、思い出せるわけがない。
「じゃあ午後も頑張ろうね!」
先にメイク直しを終えた優子は、元気よくあたしにそう言うと化粧室を後にした。
1日にどれだけの人達が、どれほどの嫌な記憶を消去しているのだろう。
昔、この忘却治療が一般化されたことに関して、学校の先生が猛反論していたっけ。
大変な事故や事件に巻き込まれて、心に深い傷を負ってしまった人達の治療法としては素晴らしい。
でもそうではない、心的外傷後ストレス障害と診断されていない、ただ単に忘れたい過去や嫌な思い出を消去してしまうのは、自分が必死に生きてきた道を消すのと同じだと。
人は辛い過去を乗り越えられる力を、誰もが持ち合わせているのだと、その先生は熱弁していた。
当時高校生だったあたしは、特に深くも考えずその先生の話に耳を傾けていた。早く終わんないかなぁ程度に。
だけど今になって…今日の優子を見て、先生が言っていた意味がわかる気がする。
ハゲ(部長)に叱られたのも、恐らく優子にも非があるからだ。
その非を繰り返さないように改善するためには、叱られたと言う記憶が必要だ。
だけど優子はそれを嫌な事として処理し、強制的に忘れてしまうから、同じことを何度も繰り返しては叱責を受けるんだ。
自分の成長より、嫌な事を忘れることで、社会の中での生き易さを彼女は優先しているのだろう。
まぁ、それも一つの生き方でもあるけども…。
優子みたいに美しい過去だけを残し生きることが、果たして幸せな人生と言えるのか、職場から帰路に着くまで答えは導き出せなかった。
自宅のドアを開くと、玄関先に見慣れた革靴が揃えて置かれていることに気付く。
廊下の先にあるリビングの扉に目を向けると、磨りガラスから灯りが漏れている。
「拓也!」
あたしは靴を揃えずに放り出し、尻尾を振る犬のように彼のいるリビングに駆けていく。
「急に来てごめんな。昨日の埋め合わせを…」
拓也が言葉を紡いでいる途中で、彼の胸の中に飛び込む。
「ねぇ、今日は何食べたい!?」
顔を上げ、彼に夕食のリクエストを聞いた後に、昨晩に食材を使い切ってしまったことに気が付いた。
冷蔵庫が空であることを知っていたのか、拓也は「今日は出前でも取ろう」と提案した。
「あゆみも疲れているだろうし」
そう付け足す彼の優しさに、あたしはキスで返す。
「俺、今日は外回りで歩き回って汗だくだから、飯の前にシャワー浴びるよ」
「ん。出前は何頼む?」
「寿司でいいよ。特上で」
拓也はワイシャツのボタンを外しながら脱衣所へ向かった。
あたしはスマホの連絡先に登録されている、いつも利用するお寿司屋さんに電話をかけた。
特上寿司2人前と、彼の好きな茶碗蒸しを追加で注文し、スマホを背の低いテーブルの上に置く。
拓也のスーツがくたびれたようにソファの背もたれに掛けられている。
シワが出来てしまう前に、クローゼットの中から1本ハンガーを取り出し、スーツの上着を手に持った時だった。
彼の上着の内ポケットから着信音が鳴り出した。
緊急の呼び出しがいつ来るかわからないという理由で、拓也は肌身離さずスマホを持っていた。
お風呂の時も必ず脱衣所に持ち込んでいるのに、持ち忘れるだなんて珍しい。
ポケットからスマホを取り出し、
着信元を見ると、
鈴香
スマホの画面には、あたしの知らない女性の名前が表示されている。
動揺した。
今までにない程に。
もはやパニック状態のあたしは、何故か通話ボタンをタップし、スピーカーに耳を当てていた。
『ちょっとアナタ、まだ帰ってこないってどういうこと?ワタナベさんに聞いたらもう退勤したって言うじゃない。どこにいるの?』
電話の向こう側の女性に返事が出来るはずもなく、あたしは耳からスマホを引き剥がして通話終了の表示をタップした。
シャワーを浴び終えて、タオルを腰に巻いた拓也が脱衣所から出てきた。
拓也のスマホを手に持ち、リビングで呆然と立ち尽くすあたしを見て、彼は全てを悟ったのか、「ごめん」と一言謝り、生乾きの頭を深々と下げた。
彼は、言葉も、涙も出ないあたしに、実は既婚者であり、子どもも1人いることを正直に告げた。
その後、拓也はあたしに弁明的なことを言っていたけど、全く頭に入ってこなかった。
ただ、愛する彼氏に奥さんと子どもがいることを、あたしの記憶に深くえぐるようにして刻まれた。
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