忘却治療

@nora-noco

其の一

人の記憶は、大脳の側頭葉の深部にある海馬という場所に保存される。


20××年、脳神経科学が発達し、人の記憶に医学的に介入することが可能になった。


それにより記憶障害やアルツハイマー型認知症などの治療ができる他、

事故や災害、犯罪などによる心的外傷後ストレス障害を負ってしまった患者の、障害の原因となる忌々しい記憶を"消去"することで、受傷前の穏やかな日常を取り戻すことが可能になった。


この治療法が保険適応となり一般化して10年、人々は『トラウマ』という言葉を失くしつつある。

何故ならば、嫌なことがあったら忘却治療で忘れてしまえばいいのだから。


そんな記憶を蔑ろに考える人々の中の1人、あゆみという人物に焦点を当てた物語である。



OLの仕事は楽じゃない。


家を出る1時間前に起床して化粧を施し、痴漢に怯えながら出勤し、無意味極まりない朝礼のあと、担当営業から依頼された見積書の作成から業務が始まる。


その合間でひっきりなしに鳴る電話の対応に作業が中断され、あたしはいつも心の中で舌打ちをする。


会社の顔になるから一語一句丁寧な言葉遣いで対応しろと、通話を終える度に上司が口酸っぱく言ってくるのがウザイ。


45分の昼休憩。

OLは都内の1食1800円のお洒落ランチを同僚と嗜んでいると、昼番組の偏った情報でイメージが根付いているのか知らないけど、現実は1食500円も満たないカップラーメンを1人デスクで啜っている。


午後からは来客対応。

これも会社の顔云々言われ続け、失礼のないよう応接室に案内しお茶を出す。


エクセルで売り上げ数値を表にするのと、営業に頼まれた会議用の資料の作成を同時進行に行う。

そうもしないと、とてもじゃないがその日のうちに家に帰ることができない。


19時過ぎに日報を報告書にまとめ、OLの1日が終わる。


疲労困憊の毎日だけど、唯一彼からの連絡が疲れを癒してくれる。


『あゆみの家に向かってるよ〜』


付き合って一年経つ、拓也からのLINEだ。

人の多い駅のホームで、思わず口元が緩む。

あたしはすぐに返事を送る。


『これから地下鉄に乗るとこ!早く会いたい♡』


あたしは自分家の冷蔵庫に残る食材を思い返す。

…簡単な炒め料理なら作れそうだ。


轟音と突風を引き連れた電車が駅のホームに到着した。

搭乗する扉の先頭に並んでいたあたしは、余裕の足並みで空いてる席に座ってから、拓也からの返事を見る。


『今日お泊まりしてもいいかな?♡』


『え!?お泊まり大丈夫なの!?』


『明日営業先に直行するから朝遅くても大丈夫なんだ』


忙しい彼がお泊まりしてくれるなんて、いつぶりだろう。

嬉しさのあまり足がパタついてしまうが、人目が多いため必死に堪える。




駅から徒歩20分であたしの家に到着するのだけど、彼に早く会いたい一心があたしの足を早歩きにさせ、いつもより10分もはやくアパートに着いた。


アパートの2階の一室、あたしの部屋の明かりがカーテンの隙間から漏れている。


階段を駆け上り、彼の待つ部屋の扉を開ける。


ソファで横になってテレビを見ていた拓也に、一目散に駆け寄り抱き着く。

1週間ぶりの拓也の匂いに、あたしの胸の鼓動は強くなる。


「拓也ぁ〜!」


今の自分の声をボイスレコーダーで録音して聴いたら鳥肌が立つであろう、自分でも分かる過剰な甘い声で彼の名前を呼んだ。


「おかえり」


拓也はあたしを抱きしめて返してくれた。


抱きしめ合う体勢からキスに移る。

軽いフレンチキスだ。

今は拓也もあたしも、お腹が空いている。


「すぐにご飯作るからね」


「あぁ、ありがとう」


もう一度軽いキスをしてから、あたしは立ち上がって寝室のクローゼットに向かった。


ライトグレーのノーカラージャケットをハンガーを掛け、スティックパンツにシワが出来ないよう脛部の折り目に沿って畳んで、ズボン専用のハンガーのピンチに挟み、それらをクローゼットの中に収納した。


そしてベッドの上に乱雑に放り投げられている部屋着に着替え、彼のいるリビングに向かい、キッチンに立った。


冷蔵庫を開けると豚肉とキャベツ、ニンジンと玉ねぎが入っていた。


朝食にした味噌汁も余っているから、ご飯を炊いたら野菜炒め定食ができそうだ。


炊飯器の早炊き機能を使えば、夕食が食卓に並ぶに21時は過ぎないだろう。


まず先にご飯から炊こうと、炊飯釜にお米を2合入れる。

研ぎ汁が薄く透明になるまで研いで、釜を炊飯器に設置して炊飯設定を早炊きにする。


調理器具が収納された棚からフライパンを取り出し、サラダ油を底に引いたところだった。


「ごめん、電話だ」


ソファの前にあるローテーブルに置かれたスマホが着信を知らせると、彼はそれを手に持ち、リビングから出て行った。


玄関の扉が開閉する音が聞こえたから、外に出たのだろう。


豚肉から炒める。


生肉の赤みがなくなってきた頃、拓也が部屋に戻ってきた。


「ごめん、これから会社に戻ることになった」


「えー!またぁ!?」


「今日の埋め合わせは必ずするから」と、拓也はあたしに深くキスをするが、満たされるはずがない。


医療機器を取り扱う営業をする拓也は、夜中でも病院からの呼び出しがあればすぐに駆けつけなければならないらしい。


何度もこのようなことがあったが、やっぱり寂しいし慣れない。


「ほんとごめんね」


再出勤する拓也を玄関先まで見送り、2人分の食べきれないであろう野菜炒めの残りは、明日の昼食のお弁当にしようと思い、小皿に分けた。

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