第十話 翼十字に接吻をです!

思考が魔術をぶっ飛びキメすぎ。深読みしすぎて空回り、ドツボにはまってるじゃない。普段からそんなことしていたら、いつか廃人になってしまいますよ?」


 特大の世迷い言を口走りかけた上級大佐の口を。

 聖女が指先で優しくふさぐ。

 代わりに紡がれたのは、ヨシュアが、軍部が抱く枢機卿に対するものとは全く異なるイメージだった。


猊下げいかは確かに貪欲どんよくな方よ。聖職者には向いていないぐらい、巨大な欲望を抱えている」

「聖女ベルナ」

「すぎた言葉よね。でも、事実でしょ?」


 苦言を呈する侍従へヒラヒラと手を振り、聖女は続ける。


「……その欲望は、自分が裕福に過ごし、人々を支配したいなんて簡単なものではないの。もっと、度し難いことです」


 度し難い?

 もはや胃痛でそれどころではなかったが、ヨシュアは最近衛生課で開発された気付けの魔術まで発動して意識を保つ。


「〝彼〟がなんのために私利私欲を肥やしているか、想像がつきますか」

「…………」

「戦うために、そして戦わないために軍務へいている上級大尉さんには、難しいことかも知れないわね。でも、すごく単純なことです」


 単純とは、ある種もっとも理解しがたい事柄である。

 とくに、穿うがった思考へリソースを割いているとき、容易く見落としてしまうことこそ、最もシンプルな事実なのだと、ヨシュアはかつてナイトバルトに教えられたことがあった。

 そうして、続く言葉はまさにシンプルな真実で。


「教会の発展。これを通じて喜捨をつのり、スラム街や訳有りの男女、大っぴらにやしどころを頼れないもの、弱きもの、回復術に奇跡が及ばないものたちを救済すること。それが――枢機卿猊下の願いよ」

「それは」


 それではまるで、聖職者ではないかと迂闊うかつにも言いかけて。

 ヨシュアは、机に突っ伏した。

 その拍子に、カップが倒れ、紅茶がテーブルクロスを汚す。


 数ヶ月間に渡る激務。

 出世に次ぐ出世と、それにともなって彼を圧迫し続けた重責。

 度重なる徹夜と長距離移動の連続。

 そこに思考演算の加速という負荷が――無茶に無茶が重ねられて、ついに肉体が限界を叫んだのだ。


 胃に穴が開いたのだろうとヨシュアは激痛の中で考え。

 このまま死ぬのかと意識が遠ざかるのを感じた。


 しかし、聖女は容赦しない。

 席を立ち、ヨシュアへと歩み寄ると、耳元で囁くようにこう続ける。


「受け取った賄賂わいろが何に使われるか知っている? 教会上層部へ、有能な人材が集まるように仕向ける工作へ用いられます。これが意味するところ、あなたには当然解りますね?」


 他ならない、人事課次長であるヨシュア・ヴィトゲンシュタインには理解できてしまう。

 どれほど崇高な信念を抱いた組織であろうと、有能な人材が集まらなければ容易く瓦解する。

 待遇が悪く、得られる利益のない場所に、人は寄りつかない。

 能力のある人間ならば、なおのことだ。


 では、何だというのだろうか。

 アーディナル枢機卿とは世をうれい、自らが汚れ役になってでも教会を変革し、ひんするもの、めるもののために事業をおこす聖者だとでもいうのだろうか?


 事実、そうなのだろうとヨシュアは納得する。

 その上で、自らも甘い汁を吸っている。

 有能な人材は、利益がなければ動かないとは、今したばかりの思考だ。


「なにが教会だ。ここは」


 伏魔殿魔王の胎の内と変わらないではないかとつぶやきかけて、彼は限界に達した。

 胸元から熱いものがこみ上げ、吐き出される。

 紅茶の上に、赤い染みが広がった。


 喘鳴ぜいめいを上げる彼を、美しい聖女が見下ろしている。

 あるかなしかの微笑みは、とてもこの世のものとは思えない。

 彼女は胸元から翼十字を取り出し。

 倒れたカップに、僅かだけ残った紅茶へとひたした。


 そうして、ヨシュアの口元へと、翼十字を押し当てる。


「……あの娘のように、痛みで命を繋ぐことがあたしにはできません。ですが……ヨシュア・ヴィトゲンシュタイン上級大佐。ここであなたを失うことも、あたしには看過かんかしえない。口づけなさい。まだ、なすべき事があるのなら」


 なすべき事。

 そんなものが自分にあるだろうかと考えて――ヨシュアは、迷わず翼十字へ接吻せっぷんした。


 戦争は終わっていない。

 彼が守るべき民は、まだ危難に晒されている。

 ならば――死んでいる場合ではないのだ。


 効果は、覿面てきめんだった。

 痛みが温かなぬくもりとともに雲散霧消うんさんむしょうし、全身に重くのしかかっていた倦怠感けんたいかんが吹き飛ぶ。

 起き上がり、呆然とする。

 多少頭がクラクラするが、ほぼ健康と言える状況。


 ――〝奇跡〟。


 彼は、自分がそれを体験したのだと悟った。

 人類の中でも限られた人間、聖女のみが実現しうる瀕死からの蘇生。

 それを、与えられたのだと。


「そう、こんなところでくたばって貰っちゃ困るのよ。ヨシュア、あんたには、まだ聞いて欲しいことがあるんですから。あの娘のために、頑張って貰わなくちゃいけないんだもの」


 聖女が笑う。

 口元を、半月のように吊り上げながら。


 背後で眼鏡の侍従が首を振り、今すぐ逃げろとジェスチャーを送ってきた。

 しかし、ヨシュアは目を離せない。

 目前の女性から、その善悪を超越した美しい相貌ひょうじょうから。


「白き乙女が、本当にやりたいことを教えて上げる。あの娘はね」


 大聖女ベルナベッタ・アンティオキアが告げる。


「枢機卿すら出し抜いて、完全無償の共助医療団体を作ろうとしているのよ」

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