8 弾・劾・裁・判 その4 neutral/吊るされた男
凛としたその声は、静かに教室内に沁みわたった。
「それは、違う」
声は、後ろの方から聞こえた。
「
緑がかった長髪に表情を隠しながら、静かに席を立つ。
誰もが戸惑い、その様子をただただ見守るしかない中、蒼詩は思わず口を開いていた。
「待ってくれ、もうこれでいい――」
「そもそも、」
その言葉を遮り、彼女は――
「この問題に、犯人なんていない」
何を馬鹿なと、声がした。陽木が犯人だって言ってるならそれでいいじゃない、そうした呟きもあった。それらは全て、問題の終息を願うものたちの声だ。
(巻き込まれて迷惑に思ってるヤツらもいるだろうし――たぶんみんな、これ以上ごたごたしたくないんだ。おれを吊るして終わるなら、よけいなことは掘り返したくない。それが藪蛇になるかもしれないから――)
そんな彼女が窃盗犯を庇うような真似をすれば、女子たちから敵視されるのは間違いないだろう。特に、状況が一応の収拾を見ようとしたこのタイミングに水を差すのだ。まだ転入して日も浅い彼女がそうすればどうなるか、想像に難くない。
犠牲になる覚悟を固めたのだ。それはこれ以上、誰かが迷惑を被らないための選択――そこにはもちろん、彼女も含まれる。だから、もうこれでいいと――
「――大丈夫、だから」
こちらを見て、彼女は小さくそう言った。
(大丈夫って……)
謎が解けたということなのか――いや、それだけじゃない。
彼女は自分が敵視されることを承知の上で、話を続けようというのだ。
最初からクラスに溶け込めていない。友達なんていない。これ以上状況が悪くなったとしても、女子たちから仲間外れにされたとしても――別に気にしないから。失うものなど、そもそも持っていないから。
だから、大丈夫、と――そういう意味が、含まれているのではないか。
何が分かったのか、それは事態を確実に終わらせることが出来るのか。定かではない。だって彼女は、名探偵じゃない。名探偵なんていないのだ。
そこには一人の、女の子がいるだけだ。
(止めるべき――なんだろうけど)
視線が交錯する。
どこかで、期待している自分がいる。
彼女が口を開く。厳しい視線が集まる。もう止められない。
「この問題に、犯人はいない。そもそも、何も盗まれてはいなかった」
それは――抗議の声を無視して続ける、その推理は。
「まず、確認します。騒動が発覚する前、更衣室を最後に出て、カギをかけたのは
普段もの静かどころか、必要最低限の言葉しか発さない彼女が、よどみなく饒舌に、しかし静かにゆっくりと、聞くものの心に沁み入るような口調で言葉を紡ぐ。
いつの間にか抗議の声は消え、教室は静寂につつまれていた。
「誰も入れないなら、盗むことは出来ない。カギのかかる前の犯行も、最後に出たのが被害者である雲居さんであることを考えると、可能性は低い。……では、どうして下着はなくなったのか」
誰かが息を呑む気配を感じた。誰もが息を潜めて続きを待った。
「そもそも、下着はそこになかったのだと、私は考えます。……いえ、無かったというよりも――彼女が、それに着替えた」
微かなどよめきが起こる。
「現在、雲居さんはブレザーを着ています。これは推測ですが、彼女は今朝、寝坊したのではないでしょうか。そのため、慌てて制服に――衣替えを忘れ、着慣れたブレザーを着て家を出た。もはや確認のしようもありませんが、今日の彼女は普段より遅れて教室に来たと私は感じました」
言われてみれば、と思い当たる節があるのか、何人かが反応を示す。蒼詩は意識していなかったので
しかし、そのブレザーの話が肝心の問題にどう繋がるのか、昼の小晴の推理を知らないものたちは困惑していた。
「寝坊し、慌てていたという仮定のもと進めますが――もし、彼女が制服に着替える際、下着を着忘れていたとしたら、どうでしょうか。夜、眠る際にブラをつけない人もいるかと思います。彼女がそうだったとしたら――下着を忘れたまま登校することも、有り得るのではないか」
「……!」
小晴の推理よりも、よっぽど現実的で理に適っているが――
「登校してから、彼女は下着を忘れていたことに気付きます。そこで考えたのが、今日の体育の授業のために昨夜から用意していた――替えの下着と、体操着」
下着を着るついでに、制服の下から体操着を着ていた――
「彼女は既に着替えていた。だから四時間目、更衣室に最後まで居残ったんでしょう。そして――授業が終わり、更衣室にて。
「ちょっと……!」
「そんな訳ないでしょ……? だって、それなら――」
「雲居さんは自己主張が控えめな人です。それはこれまでのやりとりを見ていても――過本さんが雲居さんの代弁をしていることからも明らか。事実を打ち明けるより先に話が大きくなってしまい、言い出すタイミングを見失ってしまったんでしょう。元は自分が下着を着忘れたことがきっかけだったのも、打ち明けることを躊躇わせた要因と考えます」
そこで千月は綿雨ちゃんの方に顔を向ける。うつむきがちだった綿雨ちゃんが、意を決したように顔を上げた。
「どうですか、雲居さん」
「うん……」
か細く、消え入りそうな声だった。
「待って――」
理解が追い付いていないかのように、憂君がなおも続ける。
「じゃあ、他のロッカーが荒されてたのは……? 誰かが侵入して――」
「侵入は不可能。ロッカーは、気のせいです」
……言い切った。
「そもそも、下着と制服くらいしか入れていないロッカーを『漁る』必要はないでしょう。荒されているように見えたのは、過本さんが『盗まれた』可能性を挙げたことがきっかけで浮上した――ただの、気のせいです」
その場にいなかった蒼詩たち男子には分からないが、ここまで冷静沈着に語ってきた千月が言うのなら、本当にそうだったのではないかと思わされる。
女子たちからも反論の声は上がらない。憂君も声をつまらせていた。
「そうやって騒ぎが大きくなったことも、雲居さんが言い出しづらくなった要因ではないでしょうか。……自分の件とは別に、本当に誰かが侵入したのではないか? そう思ってしまって、よけいな口出しをすることがはばかられた」
「――――」
絶句。今の過本憂君の表情を言葉にするなら、まさにその状態だ。言葉がない、言葉が出てこない。他の女子たちもほとんど似たような有様で、綿雨ちゃんにいたってはただただ申し訳なさそうに小さくなるばかりだ。
(……どこまでが事実かは分からないけど――)
千月を見て、そして女子たちの様子を窺う。
(一つの真実として受け入れるには、じゅうぶんすぎる根拠が出揃ってる。ただ……そうなると――)
天秤はどこに傾くだろう。ことの発端となった綿雨ちゃんか、ことを大きくした憂君か。いずれかが責められてもおかしくはない状況だ。
「待って……」
憂君がうわ言のように繰り返す。相当ショックだったのだろうが、絞り出したようなかすれ声で、それでも彼女は千月の推理の検証を止めない。
「じゃあ……さっき更衣室に行った時、ロッカーに下着が戻ってきてたのは……? あれは……」
確かに、下着が最初からなかった、盗まれていなかったのなら犯人がいるはずもなく、ロッカーに下着が戻ってくることもなかったはずだ――周囲の疑問も当然。
蒼詩は千月の顔色を窺う。
(……たぶんこの子は分かってるんだろうな……。まさかとは思うけど、そんな気がする)
観念して、心の中で両手を上げた。
「あれは、私です」
と。
「私が、昼休み中にロッカーに入れました。なくなっていたものが戻ってきた、それで話を丸く収める――確認に行くだろう雲居さんと過本さんのあいだで、事態が収拾することを期待して」
千月の口から語られた「嘘」に驚きながら、蒼詩は内心ほっとする。
(おれが買ってきてもらった……とか、さすがに恥ずかしいし――別の偏見を抱かれそうで恐い)
下着を用意したのは蒼詩の裏工作だ。
昼休み、教室から飛び出した後、自宅にいる
更衣室は騒動の直後だったのでカギをかけられている恐れもあったが、むしろトラブルの直後で閉め忘れている可能性もあった。いずれにしても、昼音なら更衣室の鍵を入手できるし、女子なので更衣室に入っても問題にならない。
蒼詩が自ら更衣室に赴いたのでは、それこそ犯人扱いされてしまいかねなかったため、外部の協力者を頼ったのである。だから昼休みのあいだ、しぐれといることでアリバイ工作を行ったのだ。
(倉里さんに送ったメッセージに「既読」がつかなかったから焦ったけど、環さんからは完了の報告が来た。実際、下着はしっかり更衣室に戻っていた――まあ、おれの考えたようには行かなかったけど――)
ことを丸く収めるはずが、自分の首を絞めるような空回りをしてしまった。
(……しかし、群雲さん完璧じゃないか。名探偵かよ――)
千月の機転に感謝するのだが、ことは思わぬ展開を迎える。
「分かった! そういうことだね!」
自称・名探偵が声を上げたのである。
「昼休みの終わりごろ、教室に環さん――メイドさんが来てたでしょ? あれはそうたんに頼まれて、替えの下着を持ってきてたんだ! そうたんが昼にわたあめちゃんから下着のサイズを聞いていたのはそのため……!」
「おぉい……!」
思わず突っ込んでしまった。ここまでうまくいっていたのに……。
(というか環さん教室に来たのかよ)
急に男子たちからの風当たりが強くなった理由が分かったかもしれない。
(……しかし、納得はいく。倉里さんと連絡がつかなくて、教室まで来たんだ。既読なかったしな。昼休みなのにスマホを見ないとは律儀な後輩め……。ともあれ、それを群雲さんも見てたから――)
環はこの学校の卒業生だ。女子更衣室の場所は把握しているだろうから、自らロッカーに下着を入れたのだろう。まさか校内にまで入り込めるとは思っていなかったのだが――
「ええ」
千月が頷く。
「メイドさんから私が下着を受け取り、ロッカーに入れました」
マジか。
「雲居さんが使っていたロッカーの場所を知っている私の方が、部外者の彼女より都合がいいという判断です」
思わぬ事実の発覚にあ然とする蒼詩だが、その裏工作をはじめて知ったクラスメイトたちの方が動揺も大きいだろう。
「え、何……? 陽木は……なんでそんなことしたわけ? それに、あいつ……自分がやったって――」
「先ほど説明しました」
憂君の問いに、千月が淡白に応える。
「まあ、あれだろ」
それまで黙って成り行きを見守っていたしぐれが笑いを堪えるような顔しながら、
「昼の時点でもう、『下着は最初からなかった』という説が出ていた。陽木はそれを信じて、ことを丸く収めようとした訳だ。このまま犯人捜しになっても意味がないし、騒動が大きくなるほど……真相が明らかになった時の、過本や雲居の立つ瀬がなくなるからな。かたちの上だけでも下着をロッカーに戻して、それで手打ちにしようとしてたんだろ」
まあ、あれだ、と慣れないことだからか言葉を濁しながら、しぐれは言った。
「こいつはこのクラスの平和のために、昼飯抜きで働いたんだ。責められるのを承知の上で、自ら罪を被ろうともした。それに免じて、この件はこれで仕舞いにするぞ」
いいな? という言葉は念押しで、有無を言わせないものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます