第1章 彼女は名探偵を夢見るか? -夢中殺人-

 1 天知学園高校殺人事件




 ――まるで、悪夢を見ているようだった。


「は……?」


 陽木ようぎ蒼詩そうたは自身の目を疑った。


 人が倒れている――


 昼休みは『部室』を訪れるのが日課だった。そこで昼食をとるためだ。今日もそのために、何気なく部室の扉を開いた。そうしたらどうだ。


 ――血だまりの中に、見知った少女が沈んでいる――


「……千月ちづき?」


 部室の扉を開いた時、陽木蒼詩の視界に真っ先に飛び込んできたのは――床の上に倒れる、一人の少女だった。


 お腹の上に両手を重ねて、さながらおとぎ話の中の眠り姫のように微笑を浮かべて床の上に横たわっている。

 眠っているようにも見えた。前々から不思議なところがある子だと思っていたが、どうせ寝るなら部室の片隅になぜかある畳の上で眠ればいいのにと下らない考えが頭をよぎったのも一瞬のこと。


 重ねられた両手のあいだから突き出した、ナイフの柄。白い制服を汚す赤黒い染みは、床の表面にまで広がっている――少女は微動だにせず、その中に浸っている。緑がかった長い黒髪が濡れるのもいとわず、ぴくりともせず。


「…………」


 陽木蒼詩は少女から視線を上げた。部屋の奥には窓がある。ここは二階だ。この位置からは空しか見えない。片隅には畳のある和室、左手側には会議用のテーブルと並んだパイプ椅子。室内には他に誰もいない。壁際の小型の冷蔵庫が微かに音を立てている。

 部屋の右手側にはドアがあり、そこからいまや給湯室兼物置と化した何かしらの準備室に繋がっているが、そちらにも人の気配は感じられない。物音は聞こえないが、息を殺し誰かが潜んでいる線も否めない。


「……どっきり?」


 恐る恐る視線を戻す。床の上の少女はびくともしない。あまり凝視するのもどうかと思うが、胸の膨らみも上下していない。息を止めるにしても、さすがに限界ではなかろうか。


 もう一度、彼女の身体に突き立ったナイフに目を向ける。ナイフ。本物だろうか。隣室には確かに調理用ナイフがあるものの……。


「あの……千月? 千月さん? 群雲むらくもさん……?」


 再度呼びかけるも、返事はなかった。


「…………」


 近づくことが躊躇われる。まさか、本当に……? そんなことがありえるのか?


 目の前がくらりとした。よろめき、壁に手をつこうとして右手が空振った。尻餅をつきそうになって後ずさり、そのまま部室の外に出る。左手が扉に引っかかった。掴もうとすると扉がスライドし、蒼詩の前から室内の光景を覆い隠した。


 どん、と。結局廊下に尻餅をついてしまう。

 陽木蒼詩は半ば放心状態のまま、目の前で閉じた部室の扉を見つめていた。


 不意に。

 静かな廊下に足音が響き、その震動が伝わって、蒼詩は音の方へ顔を向ける。


 そこには、二人の少女の姿があった。仲睦ましげに寄り添いこちらに近づいてくる百合カップルだ。我が部の――正確にはいわゆる「同好会」扱いだが――会長と、副会長。部長と副部長というべきか。今はどちらでもいい。


「せ、先輩……! いいところに……!」


 何が「いいところ」なのか――とっさに口をついた言葉を即座に否定したい気持ちに駆られたが――なんにしろ、今この場に第三者が現れたことが救いだった。


「おや陽木くん、どうかしたのかい? そんな真っ青な顔をして――蒼詩だけに?」


「は? 何がかかってるわけ、それ」


「いや、だから、顔面蒼白と……、」


 ごく何気なく始まった夫婦漫才に割り込み、蒼詩は立ち上がって声を上げた。


「千月が……! 中で千月が……!」


「落ち着いて、陽木くん。群雲さんがどうかしたのかい?」


「いや、だから、あの……」


 部長に諭され、蒼詩は一呼吸置いてから自分が見たものをなんとか説明する。


「つまり、群雲さんが中で死んでたと?」


 まとめると、実にシンプルな一言――部室の中で、群雲千月が死んでいた。


 にわかには信じられない。何かの見間違い、気のせいかもしれない。どくどくと脈動する心臓、心の片隅はとても感情的にもかかわらず、頭の方はこの上なく冷静で、顔面蒼白と言われることがなるほどと頷けるくらい、血の通わない怜悧さで現状を受け止めていた。


 死んでいた。殺されていた。否定したい一方で、現実的でないと思う一方で、ごく自然にそれを事実だと受け入れている自分がいる――


「いや、あんた何言ってんの」


 と、呆れたように言いながら、近づいてきた副部長が躊躇なく部室の扉を開いた。


 ガララと勢いのある扉の音に一瞬呼吸が止まるも、


「あ……、れ?」


「何? どっきりのつもり? 二人して私を嵌めようとしてる?」


「いやいや、僕は何も知らないよ」


 それで? と部室の中を覗いた二人が、揃って蒼詩を振り返った。


 蒼詩は二人のむこう――何もない、きれいな部室の床に目を向ける。


 誰もいない。……いや、隣室から誰か出てきた。口をもぐもぐと可愛らしく動かしているこの小動物みたいな女の子は……、


倉里くらりさん――千月は? そこに千月がいたはず――」


「…………」


 もぐもぐしながら、その後輩は首を横に振った。何も見ていない、ここには自分以外に誰もいなかった、と。


「――――」


 蒼詩は部室を見回す。ついさっき見た光景となんら違いはない。ただ一点、異なるのは、床に群雲千月の姿がないことだ。

 天井の照明を反射する白い床には、死体もなければ、血だまりも、血痕すら見当たらない。


 慌てて後輩の出てきた隣室に駆け込むが、そこにも人の気配はなかった。壁際の棚によく分からない書類が詰め込まれている。奥の窓が開け放たれているものの、ここは二階だ。さすがに外へ出るのは難しい――


「陽木くん、大丈夫? 疲れてるんじゃない?」


「それとも何? 何か私たちに隠したい、やましいことでもあるわけ?」


「もぐもぐもぐ」


 三者三様の反応だったが、皆一様に平然としている。これではまるで、自分の方がおかしいみたいだ。


(どっきり……? 実はみんなしておれを嵌めようとしてるとか……? でも仮にそうだとしても、千月はどこに……?)


 ほとんど無意識のうちに、この部屋から外に逃れることは出来ないことを確認していた。他に隠れられる場所もない。掃除道具などの入ったロッカーがあるものの、さすがに彼女が隠れるには無理があるし、そもそも――


「仮に、死体があったとして――」


 部長が口を開く。


「死体消失トリックといえば、その死体が実は生きていた、というのがありがちなネタだよね。だけど――床に血だまりが出来てたんだろ? それをほんのわずかのあいだ目を離した隙にふき取るのは難しいんじゃないかな?」


「そう、ですけど……」


 蒼詩の目を盗んで部室から脱出する方法は、なくもない。タイミングを見計らって準備室に移動し、蒼詩が部室に入ったのに合わせて隣室の扉から廊下に出ればいいのだ。

 しかし、部長の言う通り、あの血だまりはどうやって片づける?


(千月の髪まで濡れてた……。急いで移動したのなら、髪から血の雫とか落ちそうなものだし……)


 試しにシンクを覗いてみる。使った跡があって濡れてこそいるものの、特にこれといって血をふきとった布のようなものは見当たらない。


「ところで陽木、今日のデザートは? ないの?」


「は……?」


 部室の方に戻ってみれば、横暴な副部長が冷蔵庫を覗いていた。有り得ない話だが、もちろんその中にも千月の姿はない。そもそも人が入れるサイズじゃない。


「もしかしてそれを誤魔化すために下らないこと言い出したわけ?」


「いやいやいや……。そもそも別に先輩たちのために買ってきてる訳じゃないんですけど……」


「もぐもぐもぐ」


「というかまず真っ先に疑うべき容疑者がいますよね」


 今日の先輩は何やらイライラしているなと思っていると、ふと、さっきは気付かなかったものに目が留まった。テーブルの下に何か落ちている。


「まさか……」


 慌てて椅子を押しのけテーブルの下に潜り込み、それを回収した。


 やっぱりそうだ。

 携帯電話。いわゆるガラケーだ。見覚えがある。これは千月のものだ。


「ここにいた……、ここにいたんですよやっぱり!」


 何者かに刺されて、倒れた拍子に携帯がテーブルの下に滑り込んだ――


「まだ言ってるの? いい加減にしてよ、陽木。あんた嫌いなんじゃなかったわけ? これ以上続けるなら殴る蹴るじゃ済まないよ」


「いや今日はやけにバイオレンスだなこの人。お腹空いてるんですか? 弁当忘れたとか? ちょっとは聞く耳もってくださいよ。現に携帯が落ちてた訳で、こんなところにあるとかおかしくないですか?」


「でもね、陽木くん……僕たちは実際にそれが落ちてたのを見た訳じゃないんだよ。君が拾う振りして、元々隠し持っていたものを取り出した――という風にもとれる」


「そんな――いやいやいや、なんでおれがそんなことする必要があるんですか!」


 思わず声を荒げるも、返ってくるのは困惑したような気配と苛立ち――三人ともまともに取り合ってくれる様子はない。


「退屈な日常に刺激を求めて、とか?」


 部長が落ち着いた口調で言う。


「そもそもの話、群雲さんは殺されるほどの恨みを買う人物だったのか? ――その点、陽木くんはどう考える?」


「それ、は……」


「ね、いろいろと無理があるよ。そんなことより、」


 ほとんど論破されてしまっては返す言葉もない。反論するのも躊躇われた。


「そんなことよりね、ちょっとこれから予定が入ってるんだけど、陽木くんも付き合ってくれない?」


 煮え切らない想いを抱えながら、部長に言われるまま蒼詩は部屋を後にした。



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