3 ネラワレタオンナ
——約束の時間。
しかし神奈川は現れない。扉の鈴の音が鳴るたびに八千代は反応してしまう。
五分経って来なかったら帰れ、とあったが八千代はどうしようかと考えていた。
確認したいことがあった。
不機嫌さの原因でもあるここ二日間の、旧友からの奇妙な連絡。
小学生の時と高校生の時の友達。二人とも同じ理由で連絡してきていた。
興信所の者だと言う女からの電話で、千代田八千代のことをいろいろと聞かれたから、心配して連絡をくれたのだ。
絶対あの神奈川の関係者だろう。なんで? 今度は私のことを調べているのか? まさか、もともと私の方を調べていたんだろうか? わけがわからず、その事を聞きたい——。
さらに五分経ったが、やはり神奈川は現れなかった。
仕方がない、また次の機会にと、まだ少し熱いコーヒーを八千代は一気に流し込み席を立った。
と同時に勢いよく扉が開くとともに鈴の音が激しく鳴った。
「はあっはあっ! お前ら全員動くんじゃねえ!」
店内の全員が音と、その声に身をすくませた。
飛び込んできた全身黒ずくめでフードをまぶかにかぶった男は息も荒く、右手にはナイフを持っていた——。
その小柄な男は店内を見回すとすぐにカウンターの方へと歩き出し、マスターにナイフを向けた。
「おとなしく金を出せば、命だけは取りゃあしない」
初老のマスターは表情を変えることなくレジの操作を始めた。
立ったまま固まっている八千代も、視線だけは男を追っている。
(強盗? またか。いつもいつも私って、こんなことばっかり。探偵には調べられてるみたいだし。本当——)
運のない女、千代田八千代。絡まれたり事件に巻き込まれること多数。そして毎回何もできない自分を悔やんできた。
しかし、今の八千代は違う。それらを自分の力で乗り越えるためにダイエットをして身体も鍛えた。
そしてなにより、こんな状況は誰よりも——、
慣れていた。
「——いい加減にして!」
叫びながら右手で投げたコーヒーカップが男の手からナイフを弾き飛ばし、左手でフリスビーのように投げつけたソーサーが右わき腹に命中した。
「いでっっ⁉︎ ぐあっ」
手を押さえながら、うずくまる男をうつ伏せに押し倒し、右腕を捻り上げた。
突然入ってきて騒ぎを起こしたこの男以上に、突然決着がついた。
「ええええー?」「ウソッマジで?」驚きの声をあげながら八千代のあとに店内に入ってきていた二人の女性が店から出て行き、その後を追うように、ノートパソコンを脇に抱えた男が出て行った。
「いででで、待った、ちょっと待った!」
八千代は懇願する男の右腕をさらに捻りあげる。
「マスター警察に電話して!」
カウンター越しに、その様子を呆然と見ていたマスターに八千代が叫ぶ。しかし、マスターは困った様子で頭を掻いていた。
チリンチリン
扉の鈴の音に八千代が振り返ると「いや、お見事だね、千代田さん」と拍手をしている神奈川が立っていた。
「は?」
八千代はポカンと口を丸くした。
「所長! 早くこの女に説明しろよ! 腕折れちまうよ!」八千代よりも小柄な男は足をバタつかせて叫んだ……。
怒り心頭の八千代が頬杖をついてカウンター席に座っている。その前に「申し訳なかったね」とマスターがブレンドコーヒーを置いた。
隣に座る神奈川が言う、「驚かせてしまって悪かった。いや、実際驚いたのは我々の方だが、まさかこんな展開になるとはね」
「なんなんですか? これ」
吐き捨てるように八千代が言った。
そのやり取りを、二人の後ろのテーブル席に両足を乗せ、痛めた右腕を押さえながらソファに身を沈めた小柄な男が見ている。
順を追って話そうか、と神奈川。
まず初めに、助教の
やっぱり、と八千代はうなずいた。
しかし、桜枕に関しては決定的な証拠が得られず、さらに八千代に出会ったことで状況は変わった。
調査対象が——興味が変わったといっても良い。
やっぱりやっぱり! と八千代は深くうなずく。
が、「それとこれと、どういう関係があるんですか?」
「君は、友人の不倫を無いものとしたいんだろう。確かに桜枕さんに関しては決定的な写真は撮れていないが、正月も二人は会っていて、それなりに調査は進んでいる。こちらとしてはね、二人は何でもありませんでしたなんて、依頼主を騙すことははばかられるわけだ」
「それは……そうですけど……でも、でもでも、すでに違反してるじゃないですか。依頼のこと話したりして、守秘義務違反ですよ、これ」
「脅す気かい? そんなもの、同じ探偵事務所の調査員だったらそうはならないだろう」
同じ調査員? 八千代の眉がハの字になる。
「意味が分かりませんけど」
「こちらとしてもね、それに見合う報酬が欲しいわけだよ」
神奈川の目が妖しく光る。それに対して八千代は、
「さっぱり意味が分かりません」
「こちらが答える前に答えてもらいたいんだが、さて千代田さん。この喫茶店には我々の他にどんな客がいただろう」
「え? またそんなことを……」八千代が後ろの男とマスターをチラリと見て、男性一人と女性が二人と答えた。「どんな? ほら、君の友人のためだよ」と神奈川は詰め寄る。
「……初めにいたぽっちゃり男性は、服装からサラリーマンではなくて、ゲーマーとか、暇人? 青いマフラーをして服装もよれよれで、ノートパソコンを使っていたけど仕事とか、文字を打っていた感じではなかったです。キーボードの同じ場所ばかり打っていて……コントローラーがわりみたいな。ゲームやってたんじゃないですか?」
ほお、と神奈川が顎を撫でる。
「あとから入って来た女性は、ツインテールでビビッドピンクのスカートが可愛いアイドルっぽい子? ネイルデザインが左右の手で違いました」
へえ、それで? じっ、と見つめ、思い出そうとしている八千代の言葉を待つ。
「次に店に来た女性も、昼休みにこの店に来たっていう感じではなくて……んー水商売でもなさそうで、よくわからないですけど、すごく綺麗な人でした。長い髪でしたけど、本当は短髪みたい。ウィッグ付けてましたよね」
「……じゃあ、その三人の顔を覚えてるのかい?」
「それはまあ、見れば分かると思います」
カウンターに肘をかけて神奈川が首を横に振りながら言う。
「素晴らしい……合格だよ」
「え? 合格?」
そう! 合格だよ、と高笑いしながらおでこに手を当て、神奈川はのけぞった。「いやーまいったよ。本当にたいした洞察力だ。ただの待ち合わせだっていうのにここまで見ているとは……いや、違うか。君は私と違って意識して見ているわけではない。なにげなく、よく見てしまっているんだよな」体勢を戻し、さらに八千代に顔を突き出す。「申し訳ない。悪かったね、君を試させてもらったんだ。あの腕っぷしといい、君は合格だよ。なあ、みんな」
その声に反応し、チリンチリンと扉が開き、先ほど店から逃げた女性二人が入って来た。ツインテールの女性が八千代に向かって手を振っている。もう一人はぺろりと舌を出して、胸の辺りで手を合わせてから「あ、所長、となみんは帰ったよ」
「え、みんなってなになに?」
八千代はカラカラになった喉をコーヒーで
それを見たマスターが「私は少し手伝っただけで、神奈川くんたちの仲間ではないからね」と八千代にクッキーを差し出した。
「みんなグルだったんですね」
「その通り」
神奈川が両腕を広げて笑った。
そう、ここは神奈川探偵事務所ご用達の喫茶店。マスター以外は全員、仲間だった。
これは千代田八千代をスカウトするためのテストであり、桜枕真穂を見逃す交換条件。
八千代は面食らい、天を仰ぐ。というより、呆れ返っている。
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