2 タンテイトオンナ

 会社を経営しながら、誰に頼ることもなく、男手一つで育ててくれた父親を八千代は尊敬している。

 これ以上苦労はかけまいと、八千代も桜枕と同じように学費を自ら稼ぐようにしているのだが、前述にあるようにアルバイトが続かない。おまけにダイエットのために、あれやこれやと浪費した。

 結局、援助してもらっている。

 困った女である。

「うう……何も反論できません……」


「ん? なんだって?」神奈川が首を傾げた。「いえ、こっちの話です。ただの独り言です」八千代がうつむき言った。


 バッ! と神奈川が傘を広げた。

「なんだか降りが強くなってきたな」

 ほら、と傘に入ることを促すが、八千代は後ずさる。当然だ。探偵らしいが、得体の知れない男と相合い傘などするわけがない。

 軽くため息をつき、「それなら君にやるよ、これは口止め料だ。私と会ったことを誰にも言わないでくれ。それに、一つ聞きたいことがある」と神奈川は傘を差し出した。

 探偵、口止め、誰に? 八千代はおおよその見当はついていた。

 この探偵は、真穂の不倫を調べているんじゃないか? 受け取った名刺で肩の雪を払いながら八千代は、

「本当に探偵なんですか? こんな名刺、いくらでも作れますよ」


 へー、しっかりしたもんだ。と神奈川は顎を一なでして続けた。

「気が強いだけではなく、自信に満ちている。ダイエットに成功したからかい」

 いきなり訳の分からないことを言われ「はあ?」と八千代は口を開けたが、当たっている。なんですと?

「いや……ね、君の腕時計、バンドの穴の位置が文字盤近くに変わっているだろう。バンドの先から二つ目の穴の形が大きくくずれているから、今まではその位置で止めていた。手首が細くなったんじゃないか? その安っぽい時計がプレゼントだとは思えないし」

 え? え? どこかのナレーター並みに一言多いが、当たっている。

「それに、首の皮が少したるんでる。かなりダイエットしたんじゃないかい」

「えええ?」がっ! と八千代は叫び、両手で首を隠した。

(何なのこの人、ムカつくけど……この状況でそこまで見てたの??)

「どうだい? 少しは探偵っぽかったかい」

 神奈川がさした傘の中棒なかぼうを肩にぽんぽんと当てながら、どうだい、とばかりに口角を上げた。

 呆然とする八千代をよそに、神奈川が言う。

「で——聞きたいんだが、あのファミレスで君は私に気づいて振り返ったよね。明らかに私を見た。それがどうしても気になってしまってね、のこのこと君の前に出てきてしまった訳だ……どうして私に気づいたんだい?」


 ……それは……と、八千代は神奈川が初めに言ったように、あの場にいた全員の顔をほぼ、覚えていたことを伝えた。幼い頃から訳あって、自分にはそういうことが出来るのだと。

 神奈川の目の色が変わった。

「そう。そうかい。謎が解けて良かったよ。そういえば、自己紹介がまだだったね、君の」

「え? 別に……千代田……八千代です」

 この探偵はまずい、なんだか鋭すぎる。真穂のことを調べているとしたら大変なことになりそうだ。八千代はどうして良いかは分からないが、この男を無下に扱うことはできないと、素直に名乗った。


「そう。千代田さんね。では」

 風邪をひかないように、と再び傘を差し出されたが、それは、結構です。と八千代は神奈川に背を向けて逃げるように帰っていった。


 その背を見送りながら神奈川が携帯を出した。

「やあ、となみん。悪いけどちょっと調べて欲しいんだ。大学の——たぶん二年生。千代田八千代、女性だ」

 携帯から漏れ聞こえる受け答えをしている声は、なにやら機械で作られたような声で、相手が男か女かは分からないが、神奈川探偵事務所の一員のようだ。

「え? だよ。ああ、正式名称は正正世世きみたかせいよ大学。『せい』が四つで通称せいよん大学だよ。知らないのかい? しかしね、『せいよん』は今やこの大学の正式名称だよ。覚えておいた方が良い。ええ? 分かった分かった。とにかく頼むよ」

 電話を切る間際、神奈川は怪しい笑みを浮かべて言う。

「——いや、調査対象ではないんだけどね。ちょっとね……いや、かなり面白い娘なんだ」


 次の日、昨日の雪が嘘のように晴れ渡っていて積もってもいない。

 陽射しの暖かい学生食堂の、窓ぎわ近くのテーブルに八千代と桜枕の二人が神妙な顔つきで向かい合っていた。

「え? 探偵?」

 うそでしょ? 桜枕は八千代に顔を近づけて言った。

「昨日、ファミレスを出たあとに声をかけられたの。絶対、真穂と相葉っちのことを調べてるんだよ。どれくらい前から調べてるかわからないけど、証拠を押さえられていたらアウトだよ。昨日の昼間、この学食にもいたんだから」

 その探偵が、真穂のすぐ後ろのテーブルに座っている、とは言えないが、八千代は小声でさらに続ける。

「確かに不貞行為は刑事罰ではないけど、慰謝料の相場は十万から三百万。状況で変わるけど、みんな不幸にしかならないんだから」

 桜枕は手に持つ紅茶の入ったグラスを見つめている。しばらくの沈黙のあと、

「そう、そうだよね。良くないよね。うん、別れる……方向で、ちゃんと考えます……」

 桜枕のその言葉を合図のように、神奈川が立ち上がり、ポイッと紙飛行機を二人の間に投げ入れた。

 ん? と桜枕が後ろを見ている間に八千代はそれを回収した。

「何だろね。あれ? ヒコーキは?」

「あ、ああ、何だろ。いたずら? あんなのポイだよ、ポイ」

 向き直った桜枕が紙飛行機を探すが、誤魔化すのも適当に、八千代は次の準備がある、と慌てて一人学食を出た。


 廊下を足早に進みながら、握りつぶした紙飛行機をポケットから出して広げる。

 やはり、神奈川からのメッセージがあった。

 メッセージには、明後日の日曜日午前十一時に、とある喫茶店での待ち合わせが書かれていた。さらに、

「急用ができるかも知れないので、五分待っても私が現れなかったら帰宅してください? なんじゃこれ? こっちの都合はお構いなしか!」

 ピーヒョロドコドコ、ピーヒョロドコドコ。

 八千代の携帯が着信を知らせる。父親からだ。


 もしもし——。父親からの電話は珍しい。まして年末年始と実家に帰っていて、特に話すこともない。急用か、と考えていると、

「え? 私に電話? たかばやし? って、夏代なつよちゃんかな?」

 小学生の時に仲の良かった同級生だったが、別の高校に進んでからは地元でたまに顔を合わす程度で、何年も会っていなかった。同窓会とか? 八千代は「連絡してみる」と言って父親から高林夏代の連絡先を聞いて電話を切り、もう一度神奈川からのメッセージを確認してため息をついた。


 二日後——十時五十分。

 グレーのタートルニットにカーキ色のパンツを合わせたシンプルないでたちで見知らぬ駅を降りた。神奈川との約束の喫茶店は八千代の家からは二駅先、しかしここで下車したことはなかった。

 喫茶店はその駅前商店街を十分ほど歩いた所にあり、看板には【カフェ・トローチ】とある。

 少し、不機嫌そうな八千代は、その横の階段から地下に降り、鈴の付いた重そうな扉を開ける。

 チリンチリンと、軽い鈴の音が来客を知らせた。


 以前はバーだったのだろうか? そう思わせる内装だ。落ち着いた雰囲気というより、寂れている。ここに来るまでの道のりもそうだったが、人通りが少ない。地元の駅前とはまるで違った。


「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」

 マスターらしき初老の男性が、柔らかく声をかけてきた。

 好きな席……確かに、昼前なのに客は一人しかいない。ガラガラで選び放題だ。八千代は初めからいた、ノートパソコンを開いて忙しそうにしている客とは正反対の、入り口から右に行った奥の席に座った。


「ご注文は?」テーブルに水の入ったコップを置くマスターにホットコーヒーを、ブレンドでと八千代は答えた。


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