コレカラノオンナ

FUJIHIROSHI

1 ウンメイトデアウオンナ

 薄い雲が空を覆っている一月初旬の朝、この時期にしてはまだ気温が高いのか、吐く息も目に見えない。

 日本海側では結構な降雪量だし、予報では今夜は関東も雪が降ると言っていた。街を行く人々は皆、充分に着込んでいる。

 しかし、表情もどこかどんよりとして駅に吸い込まれるその人々を横目に、今年成人を迎えるこの女は、大学に向かって颯爽と街を行く。


 この女、千代田八千代ちよだやちよ大学法学部法律学科二年。まだ十九歳は、ものごころがついた頃から運が悪かった。

 いじめっ子、不良、酔っぱらい。偏倚集団へんいしゅうだん。年齢を重ねるごとに、絡んでくる相手もレベルアップした。


 しかしこのたび、ある変貌を遂げた。

 一年と数ヶ月、空手や柔道の道場に通い身体を鍛え、どんぶり飯をやめ、約三十キロのダイエットに成功したのである。

 身長百六十五センチで体重八十三キロだった。パン! と張り出したお腹、しかし、妊婦さんと間違えられることもないくらいのダルマ体型、歩く度にぷるんぷるん上下していた頬の肉はどこへやら。その面影はなく、ほどよい筋肉で引き締まった、面白味がない体。あるとすれば、急激なダイエットではなかったために少なめだが、腹に残されたダラリとした皮だけだ。

「ちょっとちょっと、また私をdisってるけど何でお話が変わったのにまたこのナレーターなわけ? 『この女』とか、紹介も適当だし! むかつくわー」

「ママ、あのお姉ちゃん、お空に向かって話してるよ?」「ほら、駄目! 見ないの」親子に指をさされた。街中で一人、ぶつくさ言っていれば当然である。

「……むぐぐぐぐ……」


 ——二限が終わり、八千代は大学構内学生食堂に入るなり、全体を見回す。ただでさえ幅広い年齢層の者が就学中であり、食堂自体一般人も入れるため、結構賑わっている。が、早々に桜枕真穂さくらまくらまほを確認しつつ、食事を買いに行った。


「おはよう、真穂」

「あーやちよん、久しぶりっ!」

 桜枕は手を振りながら、横に座る八千代をまじまじと見て「わー、さらに痩せたんじゃない? 小顔にショートボブが超似合ってる」言って、両手で八千代の顔を優しく挟み、「かっわいいよ〜、やっぱり私の目に狂いはなかった。子供の頃の親友にそっくりだったもん」と続けた。

 いやそれ牛だよね、と八千代は言いかけたがやめた。

「去年も、法サーの豊太とよたが、やちよんのことチラチラ見てたよ」

「え? あー、そんなことよりさ、真穂」

 桜枕の両腕を掴んで八千代が思い出したように言う。「助教の相葉あいばっちとまだ続いてるの?」

「え、いきなりだね……んーま、たまに、ね」

 苦笑いする桜枕は、去年のストーカー事件の時に再燃した相葉元基あいばもときと、未だ不倫継続中だった。

「なんか、真穂と会うたびに不安になるんだよね。そろそろ……考えた方が良いと思う」

「んーま、そうなんだけどねぇ……最近、奥さんも怪しんでるらしいし、あ、じゃあまた今夜、続きはいつものファミレスで」

 桜枕はペロッと舌を出し、手早く食器をトレーに載せると小走りで逃げた。


「なんだか心配」そう言ってパンをかじる八千代の後方の、窓際のカウンター席の男がコーヒーを一気に喉に流し込み、立ち上がった。


 冷めたその視線は、二人の一連のやり取りを見ていたようだ。


 ——八千代がファミレス前で腕時計をチラリと見た。十九時をちょっと過ぎたところだ。

 店内を覗くとすでに桜枕はいた。入って右側、窓際の一番奥の角席だ。こっちこっちと手を振っている。

 昼間に比べて気温はかなり下がっていて、八千代は手を擦り合わせながら店に入り、桜枕に向かって軽く手を上げて通路を進む——が、あれ? ふと後ろを振り返った。

 店内に入ってすぐに八千代は右に行ったのだが、その視界に入った左手の席——そこに座っていた男が目に映った。

 そして、振り返ってしまった。

 その男と目が合い、すぐに八千代は目を逸らし、桜枕の方へ向かった。

(誰だっけ? なんかどっかで見たような。向こうもこっちを見てた? 今、目が合ったよね)


 それから店を出るまでの一時間、八千代はあの男のことが気になり、桜枕との会話をほとんど聞いていなかった。


「——わあ、本当に降ったね」

 予報通り、雪がちらりちらりと降っている。

 八千代は驚き言った。

 まさか本当に降るとは思っていなかったようで、二人とも傘を持っていない。


 桜枕は街明かりに浮かびあがる雪を見ながら「じゃあね、やちよん。また明日」言って、国道を挟んで向かい側の駅へと走っていった。

「うん、また明日!」今朝、虚な人々が吸い込まれていった駅へ入っていく桜枕を見送り、八千代は手を振った。

 このファミレスは八千代の自宅から大学へ向かう国道の、ちょうど中間地点にあり、二人はよくガールズトークを繰り広げていた。が、今夜はまるで集中できなかった。

 ——あの男。

 店を出る頃には、あの男はいなかった。また目が合ってしまうのが嫌で、振り返れなかった。どうしてこんなに気になるんだろう? 嫌な予感がした——。

 雪など気にもせず、八千代は歩きながらずっと考えていた。

 賑々にぎにぎしい駅前から外れ、街灯もまばらになり、行き交う人もない。

 街灯の下、ぴたりと足を止めた。「そうだ!」突然八千代は思い出し、思わず声に出した。

「学食だ! 昼間、学食で見たんだ」


「——ほお、誰を見たんだい?」

 とっさに声のした方へ身をひねる。

 あの男だ! いつの間に? いつから? 八千代は身構える。男は、ひょろっとした長身で、ズボンのポケットに突っ込んでいる右手首には傘がぶら下がっている。

 鼻筋の通った彫りの深い顔立ち、一見ビジネスマン風で口調は優しげだが、冷ややかな眼差しで八千代を見下ろしていた。

 光源が上にあるせいか、彫り深い男の顔は影が多く、不安感をあおる。まるで辺りの空気が薄くなったように息苦しくなり、八千代の顔がこわばる。


「その表情からして、私を知っているんだね。おかしいなぁ、私と君が会うのは今が初めてのはずだ。もっとも、私の方は昼間、大学で君を見たから知ってはいるが……」

 男は静かに話しだし、静かに近づいて来る。

「今、学生食堂で見た、と言っていたが、あの場には大勢の人がいた。その中で、何の脈絡みゃくらくもなく、君たちを凝視ぎょうししていたわけでもないのに、そんなに印象深かったかい? 私は細心の注意を払っていたんだ、ありえない。だとしたら、なぜか?」

 男は自身の顎に手をやり思案している。

 思ったより、間近で見るその姿と雰囲気からは悪意は感じなかった。だが、気は抜けないと、八千代は体に力を溜めている。


「……これもありえないことだが、まさか君、あそこにいた全員の顔を覚えているわけじゃないだろうね?」

 八千代もまた、思案していた。(もしかしてまた、ストーカー? どうしよう。逃げようか、殴ろうか)と。

「いや、ちょっと待った。君、顔が怖くなったな。何やら良からぬことを考えてないかい? まあ、良い、仕方がない」

 観念したとばかりに男は両手を上げたあと、すぐに上着の内ポケットから——、


「私は神奈川かんながわ探偵事務所、所長。神奈川俊一郎かんながわしゅんいちろう。かながわと書いて、かんながわと読みます」

 ニヤッと笑い、

「以後、お見知りおきを」


 そう言って、八千代の前に名刺を差し出した。

 雪は先ほどより少し、勢いを増していた。行き過ぎる車のライトで、一瞬二人の長い影が弧を描いて消えた——。


 この出会いが、大きく変えることになる。

 これからの八千代の人生を——。


 八千代は物心ついた頃、自分には母親がいないことに気づいた。周りの友達とは違った。

 そんなある日、父親から聞かされる。

「ママはね、八千代を産んですぐに死んでしまったんだよ——」と。




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