第13話  療養編

病院を出て街に来たものの、家に帰るのは億劫だった。

恐らくミサに捕まって大人しくしていろと釘を刺されるだけだ。

「フジんとこに寄るんもなぁ」

今はサラが泊まっているらしい。

鉢合わせにでもなったらそれこそ気まずいだけだ。

海に行くにも釣り道具を持っていないしまた落ちたりしたら今度は助けてくれる人がいない。

悩んだ末に立ち寄ったのは一件のカフェだった。

もしかしたら、そろそろ来ているかもしれないと淡い期待と予感がした。

こういう勘は当たるのだ。

扉を開けると、飾られた貝殻がぶつかってきれいな音を響かせる。

少し暗い店内のカウンターに1つの影を見つけると自然に顔が緩んだ。

「あ、ヒロ。久しぶり」

黒く大きな瞳を向けて嬉しそうに呼ぶ女性、口許の黒子が大人びてみえる彼女はヒロの姿を見つけると立ち上がって迎えた。

周りの大人たちは、あまりいい目をしていない。

「やっぱなぁ。予感がしてん。久しぶりやなぁ、キリア」

「仕事が忙しくてなかなか来れなかったの。やっとシレイトに来る時間ができて、直ぐに汽車に乗ったわ」

彼女は中央から写真を撮りにシレイトへやってくる。

初めて来た時、今もそうだが中央から来た人間はシレイトで毛嫌いされる。

だというのに、ヒロだけは普通に接しシレイトの景色を案内してくれた。

「前の写真もできたのよ」

数枚の写真はどれもシレイトの景色で、夕陽の沈むグランドマウンテンや朝日が輝く海、丘からみた街並みに夜の街明かりが並ぶ。

「きれいに撮れるもんなんやな」

ヒロは海の写真を楽し気にみている。

他の写真も手に取るが、その一枚は何度でも眺めている。

小さな石碑が写る海の写真だ。

「気に入ったのがあったら譲るわよ。焼き増しできるから」

「えぇんか?せやったら、これがえぇな」

よほど写真が気に入ったのか掲げて手放さない。

シレイトの海という感じがしていいのだと笑う彼とキリアが写真を覗く。

真っ青な海の上に水色の空が広がり波がぶつかる海岸は茶色の岩肌を覗かせてその上に茂る草花が石碑を守るように優しく包んでいる。

石碑は所々に苔が生え、歴史を感じさせるものだった。

「竜騎士よ、孤独であれ」

「なんや、覚えとったんか」

キリアの呟きに紫の目が丸くなる。

それは石碑に刻まれた言葉であり、シレイトの竜騎士への戒めでもあった。

「答えを教えてくれないから、ずっと考えていたの」

写真を撮りにこの海岸を訪れた時に、キリアはこの言葉の意味を尋ねた。

しかし、ヒロは笑うだけで答えない。

拒むとか恐れるというよりは抱えた物を落とさないようにしているようにふわりと笑うだけだった。

「『孤独』がわからないから。私にはまだ意味を理解できないわ」

肩を落として飲みかけのコーヒーを手にとるキリアの右側に座るヒロは写真を見ながらやはり笑っている。

「『孤独』なんて、知らん方がえぇやん」

「ヒロは、『孤独』を知っているの?」

「ん~。俺は、人に恵まれとるからな。孤独やないよ」

子供のように穢れのない笑みは笑みを誘ってくれる。

同じ歳だと聞かされた時は驚いたものだ。

こんなにひねくれずに生きるにはどうすれば良かったのだろう。

「少し歩かんか?」

そう誘われてカフェを出る。

今回はどこを案内してくれるのだろうと心が弾む。

先に出ようとするヒロの手を掴もうと伸ばした手は思った通り、止まってしまった。

彼は人気者だ。

シレイトの人々は彼に信頼を寄せている。

この街を追い出されそうになった時も、彼が仲裁に入った直ぐに抗議が止んだ。

ヒロが言うなら…と恐れられているわけではないのに相手が折れるのは彼が持つ雰囲気による効果なのだろうか。

その手を余所者の私が掴んでいいはずがない。

「キリア」

名前を呼ばれてこんなに胸が苦しくなるなんて、気づき始めた想いが確信に変わったのは何度目の事だったか。

「あ、すぐに行く」

首に提げたカメラで直ぐにシャッターをきりたい。

でも、彼は、自分は撮らないで欲しいと言う。

その時だけ、笑みは子供のものではなくなるのだ。

聞きたいことは山ほどある。

家族の事、ヒロ自身の事、何が好きで、どんな夢を持っているのか。

好きな人はいるのだろうか。

全部喉まで出てきて飲み込んでしまうのは、キリア自身の話ができないからだろう。

人に話せるような人生ではない。

誇れるようなものは何も持っていなかった。

だから、何度会ってもカメラマンとガイドの関係のままで、親しくはなったけれど、それは周りと変わらない接し方だ。

きっとこれ以上は縮まらないのだろうと半ば諦めている。

「行きましょう」

隣に並んで歩くだけだ。

話の内容はシレイトの歴史や現状、時々住人の話になるけれど、聞きたい人の話にはならない。

「ねぇ、あなたの話が聞きたい」

その一言が言えたら、この締め付けられるような窮屈さから解放されるだろうか。

どうせ言えないだろうと嘲笑を漏らすと

「どうしたん?」

などと、全く悪気のない問いが投げ掛けられる。

「何でもない。ちょっと思いだし笑い」

「そうか」

ここで何を思い出したのか聞いてくれれば、少し期待をしたかもしれない。

でも、ヒロはそれ以上を掘り下げるようなことはしなかった。

キリアの黒とヒロの白、背丈はわずかにキリアが高い。

右目の見えないヒロがキリアの右側で歩く。

時々出会う街の人に声をかけながら彼はいつも通りだ。

「ヒロ、元気そうだな」

「またその子を連れてるのか?」

「無茶すんなよ」

手を振り笑い、みんな同じように、ただ、一人を除いて

「あっ…」

急に足を止めたヒロと同時にキリアの視界に入ってきたのは漆黒の髪に海のような蒼い瞳、傍に狼犬を連れた女だった。

「馬鹿みたい」

小さくて聞き取りづらかったが、確かにそう言った。

蒼はヒロを睨み付けている。

「サラ…」

言葉が詰まるヒロを軽蔑する視線が隣にいたキリアにまで刺さるようだった。

「どこまで迷惑かければ気がすむんだか」

「いや、サラ、その…」

「だから、嫌いなんだよ」

ダンテを連れて歩き出すサラをヒロは引き留めない。

ただ黙ってうつ向いている。

無理に作った笑みが余計に切なく見えた。

一度も振り返ることなく遠ざかるサラをキリアは目で追うが何もできないことは始めからわかっていた。

「難しいな。女いうんは」

「怒られるような心当たりがあるの?」

「ありすぎて、わからんなぁ」

冗談のつもりで言ったはずの問いに、ヒロは困ったように笑う。

ヒロはちょっとやそっとの事では落ち込まない。

それは数回の訪問でわかった。

驚くほど明るく陽気な彼が、今、明らかに肩を落としている。

きっと彼女は特別なんだ。

そんな気がしてならないキリアに次の言葉は浮かんで来なかった。


早足でサラが向かったのはミサのいる家だった。

ルームシェアといえば聞こえがいい。

けれど実際は似た者同士が集まっただけだ。

誰が決めるでもなく集まった4人にコウが加わった。

友人と言うには近すぎて家族と言うには遠い関係、その距離がいいのも事実だ。

付き合いが長ければ愚痴だって言える。

「もう、信じられない!またあの女と楽しそうにして」

帰るなり不機嫌に怒鳴るサラをミサはいつもと同じ笑顔で迎えた。

頬を膨らませてテーブルにあったコーヒーを見つけると一気に飲み干した。

ダンテはぴったりとサラにくっついている。

「いいじゃない。ヒロさん、楽しみにしてるみたいだし」

「よくない!中央の人間だよ?それなのに馴れ馴れしくしてさ、手、引っ張ったりするんだから」

ムスッとした顔がそっぽをむく。

空になったカップを弄りながらまだぶつぶつと文句を言っていた。

「ヒロさんに厳しいね」

「別に、ヒロだから言ってる訳じゃないんだけど」

「兄さんだったらそんなに気にしないんじゃない?」

「リョウなら?」

頭に残っていた二人を置き換えて首を捻る。

背の高いリョウならなんとなくお似合いな気がしなくもない。

「って、私が言いたいのはそういうことじゃなくて」

サラにとっての問題は『ヒロが』ではなく『女が』のはずだ。

そうに決まっているとミサに振り向けば彼女はいれたてのコーヒーを持って楽し気だ。

湯気の立つカップには砂糖もクリープも入っていない。

「サラちゃんは、ヒロさんにどうしてほしいの?」

「は?」

「ヒロさんに怒って来たんでしょ?あの人と会わなかったらいいのかな?」

「………」

何も言えなかった。

会わなくなったからといってギスギスした関係が直るわけではない。

口をつけたコーヒーはとても熱くて思わず顔を離してしまった。

口に残った雫はいつまでたっても苦かった。

空が青い。

どこまでも青が続いて水平線で海と交わっている。

振り返った所には常緑の濃い緑が拡がりその上には赤い肌を覗かせるグランドマウンテンが立ちはだかる。

1羽の鳥が海から森へと飛んでいく。

甲高いその声がどこまでも届くように響いた。

手付かずの自然がシレイトの至るところに残っている。

険しいグランドマウンテンと荒波の海に囲まれたこの土地は外からの侵入者を長い間拒み続けた。

そして、先にこの地に根付いた人々はその自然を尊重し、ほとんど開拓を行わなかったという。

その為か、シレイトの工業や交通は他の地域に比べ劣りその分だけ医学に特化している。

中央ではポコポコと車が走り始めているというのにシレイトには補整された道路もない。

けれど、伝染病の特効薬も手術技術も中央はシレイトに敵わない。

全ての進歩を医学に費やしたというのがこの土地だった。

だから、空気も景色も昔のまま、まるごと残っている。

「冬にはな、渡り鳥がここ一帯に群がって埋め尽くすんや。真っ白な鳥でな、夕方んなると夕陽で燃えるようになんねん」

足を投げ出して岩肌に座るヒロのすぐそばまで波は打ち付けている。

飛沫が裾にかかることなで気にすることなく、紫の瞳は真っ青な海を見つめていた。

キリアも同じようにして座ってみる。

潮風が吹き抜けると落ちてしまいそうだ。

水面に浮かぶ無数の白を想像した。

きっと幻想的で胸を高鳴らせるに違いない。

「見てみたいなぁ」

打ち寄せる波が心地よい。

潮の匂いも新鮮だった。

季節の変化と共に姿を変える景色が刺激的だ。

「冬には来れるんか?」

「どうかしら、仕事の都合にもよるけど」

来たいなぁと溢したキリアは海に見とれていた。

水平線がキラキラと白く光っている。

朝日を撮しに来たときはその美しさに言葉をなくした。

沖に鯨の群れを見つけたこともあった。

来る度に新しいものを見せてくれる。

「カメラマンはそんなに忙しいんか…」

「写真以外の事もやってるから」

それ以上をしゃべらない彼女にヒロはふぅんと言ったっきり何を感じ取ったかは伺えなかった。

その後も特にお互いの話をするわけでもなく、見える景色をなぞりながら会話をした。

ヒロは流行や機器については疎く、カメラも仕組みについてはわからない。

キリアが簡単に説明するとわかったのかわからないのか感嘆の声をあげる。

その代わりに生き物や自然をキリアに教えてくれる。

図鑑や辞書のような説明ではなく経験から知っていることばかりだ。

きっと机上の知識ばかりの人には知り得ない事なのだろう。

中央で学者が1羽の鳥について話していた時、彼はその鳥は芋虫しか食べないと言った。

確かに中央でその鳥が木の実をつつくところを見たことはないが同じ鳥がシレイトで群れを成して木の実をつつく姿が見られた。

自分しか知らないような優越感に胸が踊るようだった。

そして、必ず思い出すのは夕暮れに似た紫なのだ。

「ねぇ、ヒロ」

「ん?」

ヒロがわずかに左を向いたが、キリアは目を合わせる事ができなかった。

夕暮れでもないのに顔が赤くなる。

大きく息を吸い、激しくなるばかりの心臓を抑えてゆっくり息を吐き出す。

「ヒロは、好きな人って、いるの?」

そっと顔を右に向けると、彼はきれいな紫をパチクリさせていた。

その瞳には真っ赤にそまったキリアが映っている。

問いをどう受け止めたのかはわからない。

彼はにっこりと笑うと

「嫌いなやつはおらんよ」

とだけ言ってまた海を見る。

取り残されたキリアは視線をゆっくり外す。

そして、小さく微笑んだ。

何を言っているのだろう。

求めた答えの傲慢さに嫌気がする。

それでもどこか心は穏やかで、広がる海の波が輝いている。

ヒロとの距離は手を延ばして届くか届かないか、今はこの距離でいい。

キリアが見つめる先でクジラが潮を噴いた。

一頭が沈むと同時にもう一頭が頭を浮かせる。

海岸から見える二頭の距離はわずかなのだがきっと実際の距離は遠いはずだ。

それでも二頭は共に広い海を泳いでいくだろう。

海と森を行き来して陽が傾いてきた。

グランドマウンテンに沈む光が筋状に射し込み神々しく彩られる。

赤い岩肌がより一層濃い赤になり、海の青は夕陽と混ざりアメジストのように煌めく。

海岸沿いに歩くヒロの白髪が夕陽に染まる。

景色にそのまま溶け込んでしまいそうだ。

彼は張り出た岩場をバランスを取りながら歩いている。

両腕を水平にしているそれは幼い子供を連想させた。

端から見ればキリアは弟が転ばないように見守る姉のようだ。

「なぁ、キリア」

不意にヒロが振り返る。

「どうしたの?」

「……や、何でもないわ」

へらっとした顔に違和感がある。

案内をしてもらう際に何でもない事をヒロから話してくるのは珍しい。

海や鳥の事なら饒舌なのに人の事になると誤魔化したり話題を変えたりする。

「気になるな」

そっと口に出してみると困ったように頬をかく。

悩んだ末に口を開いた。

「もしやけど、俺がおらんようになったら、誰に案内頼むんかなぁって」

笑っているはずなのに、その表情は寂しげだった。

キリアは真っ黒な目をいっぱいに開いて、彼の後ろ向きな発言に驚く。

沈んでいく太陽はもうほとんど隠れていて空は赤から濃い紫へと色を変えた。

水平線の向こうには星が輝き始めているが小さくか細い光だ。

「案内を頼むのは迷惑だったかしら」

「そうやない。俺も人間やからな」

一緒に回るのは楽しいと付け加えられた言葉に少しだけ体の力が抜けた。

同時に沸き上がる哀しい気持ちは芯から生み出されるような気がした。

身体中が冷えていくそんな感じだ。

「冬に来れるんやったら…間に合うと思うんやけど」

背を向けて歩き出したヒロを見て、すぐには終えなかったキリアは夕暮れに染まった闇のなかに浮かぶ白を見つめて手を延ばそうと上がりかけた右手は胸まできて前には出ていかない。

柔らかく暖かな白は触れれば壊れるような気がした。

確かに形としてそこにいるのに砂のような脆さを感じるのは景色のせいではない。

「私は…」

知りたい

どうしてそんな事を言うのか

どうしてヒロは中央からくる自分にも優しいのか

どうしてこんなに歩き出したのに距離が縮まらない。

お互いが歩いているから当たり前なのだが、どんなに早く歩いても詰める事ができない錯覚に陥る。

そもそも、シレイトに嫌われている中央の自分が距離を縮めたいと思うことが間違いなのかもしれない。

「ヒロ、私は、あなたに会えないなら…」

夕闇の空に1つ、海の真上に輝く一等星を見つけた。

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