激狭賃貸のおかしな住人たち

@mayoinu

第1話

 もうすぐ大学生になる日葵は、慌てて新居を探していた。

 下宿を借りる予定だったが、親友との卒業旅行を優先して、帰ってきてから下宿に連絡をとると、全て他の学生で満員になっていたのだ。

 普通にアパートを借りるしかない。

 物件検索サイトでは、いろんな条件を選ぶことができる。

 日葵はとにかく安い物件を探している。なぜなら、大学に行ったら友達とたくさん遊びたいからだ。お洒落もしたい。

 日葵の自宅がある東北某所では、古い独身向けアパートなら三万円あれば借りられるが、関東では相場が十万円らしい。日葵が母から聞いた話だ。

 五万円で勘弁してくれと思い検索すると、築年数が経っていて駅からも遠い物件がたくさんでてきた。

「自転車あるから大丈夫でしょ」

 日葵は欲張って、もっと安い物件を探していく。

「ひまりー、早くお風呂入りなさい」

 一階から母の声が響いてきた。

「風呂トイレ共用でもいいな」

 日葵は母が風呂を急かすのを無視して、更に条件を絞っていく。

 すると、おそろしく安い物件が目に飛び込んできた。

「1万円は安すぎ。敷金礼金なしとか意味分からん」

 古い一軒家だ。二階に大家が住んでいて、一階の部屋を一部屋ずつ貸しているらしい。どうやら四方が別の家に囲まれていて道路と接しておらず、法律によって建て替えができない特殊な事情があるらしい。

「つまり、建物を壊して更地にしても、買い手がつかないから賃貸として貸し出しているんじゃないか」

 日葵が父に聞いたところ、つまりそういうことらしい。

 さっそく大家に連絡を入れた日葵は、荷物を先にアパートへ送り、平日の昼間に新幹線と電車を乗り継いで、小さなバッグひとつで身軽に上京した。

駅を出てからは、スマホの地図と写真を頼りに新居へ向かう。大通りを一本横にずれて住宅街に入り、クリーム色の家の敷地と思われる狭い砂利道を進むと、四方を隣家に囲まれた、全く日の当たらない一軒家が現れた。

一階の半分の広さしかない二階が、一階の上に、ちんまりと乗っている。外壁の塗装は剥がれ落ちていて、庭には背の高い雑草が生えている。白髪のお爺ちゃんが日葵に向かって手招きをしている。どうやらこの建物で合っていたようだ。

「ようこそメゾンムカイエへ。大家の向家です」

 頭を深く下げられた。日葵も申し訳程度にお辞儀する。

「荷物はお部屋に運んでおきました。さっそく与古田さんのお部屋まで案内しましょう」

 女、与古田日葵。内弁慶で通してきたが、今こそは言わなければならないことがある。

「写真と全然違うんですけど」

 ネットで見たメゾンムカイエの写真より、更に古い。こんなに汚くなかったし、雑草が生い茂ってもいなかった。

「結構前から募集を出してますから、写真が古いままだったんですね。中は掃除してありますから、大丈夫ですよ」

 大家に続いて玄関に踏み込む。コンクリートの土間には大量の靴が、男物女物混じって、ゴム長靴からビーチサンダルまで季節感もなく、足場のないほど置いてある。

 大家が何足か踏みつけて、誰かのスニーカーの上に自分のサンダルを脱ぎ捨てて家に入った。さすがに今来たばかりの日葵にそんな雑な行為はできず、靴を手で寄せていく。

「よくこんなところにね、上品なお嬢さんが来てくれたものですよ」

 玄関を上がってすぐの両側にドアが一枚ずつあって、短い廊下を突き当たって左側に二階への階段、右側に曲がり角がある。

「左は居間ね」

 格子状にガラスのはめられたドアを大家が開け放つ。リビングとキッチンがカウンター越しに繋がっている造りだ。奥の方にキッチンが見える。一部カーペットを敷いて卓袱台が置いてあり、テレビが部屋の隅に設置されている。

「朝ご飯が六時、昼ご飯は十二時、夜ご飯は六時です。全部大家が作ってます。ずっと家にいるからね。ご飯が要らない日は教えて下さい」

「お昼は学食を食べるので大丈夫です」

「そうそう学生さんだもんね。じゃあ勉強も、そこの卓袱台でやっていいからね」

「いえ、部屋でやるので大丈夫です」

「明るくしてやってね。目悪くしたら大変」

 ドアを閉めて、大家は反対の扉を開けた。

「こっちが与古田さんの部屋」

 サイトには鍵が着いている部屋だとかいてあったはずだが、特に鍵をさすところはついていないようだ。嘘の情報を買いていたのだろうか。

「すみません、鍵が」

「ああ、玄関の鍵、締め忘れてた」

 大家は玄関の内鍵を掛けて戻ってきた。

「泥棒に入られたら大変だからね」

 どうやら、サイトにかいてあった鍵つきというのは、日葵の借りる部屋に鍵がついているということではなく、家自体には鍵がついているということらしい。あたりまえだ馬鹿野郎。日葵は心の中で悪態をついた。

「このドアに鍵を付けたりとかは、しても大丈夫ですか」

「それは困るね。皆が入れなくなっちゃうから」

 大家は申し訳なさそうに眉毛を下げているが、困っているのはこっちだと日葵は叫びそうになった。皆が入らないための鍵だろうと。

 部屋でまず日葵の目に入ったのはお洒落な家具たちだ。カーテンも小花柄の新しいものがついている。

「家具つきだったんですね」

「そっちは高野さんの」

 えっ、私のじゃないの。日葵は思わず手を引っ込めたが、考え違いかと思った。つまり、高野さんが現在も使っているということでは勿論なくて、その人が引っ越しの際に置いていってくれた家具だろうと。

日葵が大家の方へ振り向くと、大家は押し入れの前に立っていて、市松の腰模様がついた襖を勢いよく開けた。カビ臭かろうと、日葵は袖で鼻を覆う。

「ここが与古田さんの部屋」

 押し入れの上段に詰め込まれた段ボール箱には、見覚えのある文字が書いてあった。洋服、雑貨、日用品。荷ほどきがしやすいように中に入っているものを買いておいたのだ。明らかに日葵の文字である。

 日葵は一瞬で国民的アニメを脳裏に浮かべた。押し入れの中で眠るキャラクターがいる。そんなわけはないだろう。日葵は、大家は押し入れを指してこそいるが、ここ、という言葉が指しているのは部屋全体だろうと考えた。

「この部屋が私の」

 残念ながら日葵の言葉はここで遮られる。

「この、押し入れ、ね」

 家賃一万円、と大家は付け足した。

「そんなわけありません。不動産のサイトにだってこの部屋が映って」いなかった。最初から、不動産サイトには一軒家を外から映した写真が一枚あるだけで、中身の写真は一つも載せられていなかったのだ。

 日葵はスマホを落とした。目玉も落ちそうなくらい、目を見開いていた。

「じゃあこの部屋自体は誰のものなんですか」

 一応聞いて見ると「高野さん」と返ってきた。日葵は落としたスマホを拾い上げる。ベージュのカーペットは部屋の色調にあっているが、近くで見ると薄汚れていた。

「すみませんが、キャンセルします」

 一月分は家賃を払うことになるだろうが仕方が無い。

「いまから探しても学校に間に合わないでしょ」

 大家の言うとおりだ。しかしビジネスホテルから通うから問題はない。

「少しの期間、ホテルから通います」

「この時期はねー、会社とか学校が多いから、ホテルも埋まってるかもねぇ」

とりあえず先程のリビングに通され、日葵は卓袱台の前に座ってスマホでホテルを検索することにした。大家は茶を出すといってキッチンに入っていったが、出されても絶対に飲むつもりはない。なぜならこの卓袱台、日葵が両手を置いたら何らかのベタベタ汚れが手首についたからだ。昔日葵が家族で入った個人経営の食堂がとにかく汚い店だったのだが、出された水を母が飲まないように言ってきた思い出が、未だ日葵の記憶に残っている。

「汚いことはないんですよ、掃除もしていますし」

 大家が茶の入ったコップを盆に載せて持ってくる。ここで、いや汚いですが? と言えるほど、日葵は神経が図太くなかった。

「でもやっぱり、押し入れって住む場所じゃないし」

 とはいっても、どんなに探しても学校に通える範囲のホテルに数週間くらい泊まれる安さで空きがある部屋という都合のよいものは見当たらなかった。

 さらに日葵が気にしているのは、両親に部屋選びを失敗したことを知られたくないということだ。あの母だから、絶対にこっぴどく怒られるに違いない。ほら見たことかと言われている自分を想像しただけで腹が立ってくる。だから一度実家に戻るという選択肢は日葵にはなかった。

「同じ部屋の高野さんは、女性の方ですよね」

 家具のセンスからして、大人の女性を想像させたが、一応聞いておいた。日葵の目的は、高野さんに頼んで、部屋の中に布団を敷かせてもらうという作戦だ。押し入れは本来の荷物を詰めておくという使い方をすればよい。

「ええ、高野さんは学校に通っている女性です」

 社会人を経て、もう一度学校に通っているのだという。

「お騒がせしてすみませんでした。ここを借ります」

「良かった。私は普段二階から出てきませんから、好きにくつろいでくださいね」

 大家は、もうここはあなたの家ですよと付け足した。

 荷ほどきをするため、日葵は高野さんの部屋に入った。押し入れが日葵の借りているスペースだから、毎回高野さんの部屋を通ることになる。段ボール箱を室内に降ろして、開封していく。下の段に布団や使う頻度の少ない物、上の段に日用品や、服を掛けておいた。

「困ります与古田さん」

 部屋に入ってきたのはまたもや大家だ。

「下の段は他の方が住んでいます」

「なん、どういう……えっ」

 なんと、日葵に与えられた部屋は、押し入れではなく、押し入れの上段だけだった。全く、押し入れに住むなんてどういう神経をしているんだ。日葵は自分のことは棚に上げて怒った。この狭い部屋が三人部屋になってしまった。

「すみませんでした。知らなくて」

 急いで下の段に仕舞った荷物を上の段に突っ込む。もう、自分の部屋が押し入れだろうが、押し入れの半分だろうが、たいして変わりは無いと日葵は思った。

 日葵は押し入れ上段に仕舞う荷物の配置を試行錯誤していた。部屋が暗くなってきたので、蛍光灯を付けていた。

玄関扉の開く音と共に、ヒールがコンクリのタタキを入ってくる音がする。

「ただいま」

上品で小鳥のさえずりのような声だ。メゾンドムカイエの住人だろう。この声の主が、大家の言っていた高野ではないかと思って、日葵は押し入れをピシャリと閉めて部屋から顔を出した。

「こんにちは」

 もうここは日葵の家であるが、まだお帰りなさいというには関係が築けていないと思った。

「向家さんが言ってた新入りの日葵さんね」

 大人しい色のスカートに濃いストッキング、上にカーディガンを羽織っていて、手にはA四ファイルが仕舞える大きさのトートバックを下げている。

「与古田日葵です。あの部屋の……押し入れを借りています」

 押し入れを借りているというのがあまりにも女子力が低い気がして、日葵は言い出すのに勇気が要った。

「高野莉子です。日葵さんは、学生さんね。私もそう」

 やはり大家が言っていた、社会人学生の『高野さん』だ。

「日葵さんみたいな年頃の女の子だと、押し入れだけじゃ荷物収まらないでしょう」

 部屋に入っていく莉子を追って、日葵も部屋へ。

「このボックス使って良いわよ」

 莉子は押し入れ近くに置かれたカラーボックスに手を添えた。

「いいんですか」

 気前のいいお姉さんだと日葵は嬉しくなった。ただでさえ狭い六畳間で、押し入れは使えない莉子が、部屋の一角まで日葵に譲ってくれるということだ。

「夕ご飯ができる頃ね。お手伝いしに行きましょう」

 莉子に連れられるまま、日葵はキッチンへ。大家がエプロンをして、大鍋と大きなフライパンで同時に料理を作っている。具沢山の味噌汁と、煮物だ。

「莉子さんお帰りなさい。日葵さん、この方が莉子さんですよ」

「ええ。先程玄関で会いました」

 食器棚から莉子が右手に大皿、左手に箸立てを持ってくる。

「日葵ちゃん、冷蔵庫からお漬け物運んでちょうだい」

「はい!」

 莉子は大皿に、大家の作った煮物を盛り付けて始める。

 冷蔵庫の中身はおばあちゃん家の冷蔵庫というか、探せば賞味期限切れの食品がでてきそうな、どんよりした雰囲気を日葵は感じ取った。タッパーは色々あるが、大家がピンクの蓋のやつ、というので、この大根の漬け物だろう。

 莉子と一緒に、日葵は食卓にご飯を並べた。家にいる頃の日葵は母親にご飯ができたと呼ばれたら食べに行っていたから、手伝うのは新鮮だった。皆が協力する感覚は、シェアハウスのような空気感があって素敵だと日葵は感じていた。

 しゃもじを手に炊飯器を開けると、炊きたての米の匂いが腹を空かせた。丁度玄関の戸が開いて誰か帰ってきたようだ。男性の声がする。自分の部屋に荷物を置きに行ったのだろう。キッチンにいた日葵からは、姿は見えなかった。

「運ぶね」盆を両手で持った莉子が、日葵のよそったご飯を載せて運んでいく。大家がコップに冷えた茶を四人分ついで、食卓に置いた。莉子が食卓に着き、莉子も真似して座る。大家はジッとしていられないタチなのか、廊下へ顔を出して「ご飯」と大声を出した。先程まで基本敬語で喋っていた大家だったので、日葵は少し驚いた。

「四人なんですね」

 大家を含めて、四人が住んでいるのだろうと日葵は思ったのだが、莉子は首を振った。

「もう一人いるの。毎日お酒飲んで帰ってくるのよ」

 大家が戻ってくる。後ろに長身の男性を連れてきたのだが、日葵は思わず「えっ」と声が出た。

「彼がマイルズ」

「こんにちは。マイルズ・J・ホッパー、といいます。よろしく」

 完全に外国人男性だ。日本語も片言で、なんといっても目力が凄まじい。日葵はなんとか「こんにちは」と返すことしかできない。

「なまえは?」マイルズが聞いてくる。

「与古田、日葵です」

 ゆっくりと自己紹介したが、聞き取れなかったようで、大家から聞き直している。

「ひまり、ひまり」繰り返し強調する大家に、マイルズは「ひわり? OK、ひまり」。

 口を慣らすようにひまりひまりと連呼している。

「Hi, miles. How was work today?」

 流暢な英語でマイルズに話しかけたのは莉子だ。驚いた日葵は、彼女の顔をまじまじと見てしまう。日葵には「ハーイ」しか聞き取れなかった。

「Not too bad」

 マイルズが返事をしているが、これも日葵には、マイルズの表情が豊かだということしか分からない。

「高野さん英語、お上手ですね」

「莉子でいいのよ」

 日葵は、莉子さん、と呼び直した。

「学校に通っているって聞いたんですけど、英語とか習ってるんですか」

「そうよ。英語を勉強して、海外で働きたいと思ってるの」

 海外で働くため、学校に通い直す社会人。日葵からすれば、社会人になる前に大学に通っている時点で英語を選択すれば良かったのに。二度も学校に通うなんて、日葵には考えられないことだった。

 意外性のマイルズも食卓に着いたところで、各々いただきます、といって食事が始まった。高齢の大家、向家の胃には丁度よさそうな質素な和食だ。しかし育ち盛りの日葵には物足りない食事だった。外で食べてくる分には一向に構わないらしいから、日葵はこの食生活が耐えられなくなったらファミレスで食べてから帰ったり、ファストフード店に寄ったりしようと心に決めた。

「日葵ちゃんは、春からどんな学校に通うの」

 莉子が箸を片手に聞いてくる。大家はマイルズに何か聞かれ必死に、スクール、スクールと、日葵が学生であることを伝えている。

 日葵は自分が関東圏内の某文系学校に通うことを説明した。

「特にやりたいことがあるわけではないんです。都会の学生に憧れて」

「せっかくだもの。今のうちに、いっぱい遊ばないとね」

 莉子はいたずらっ子の様に笑った。日葵は最初、莉子のことをお高くとまっている様に思っていたが、案外話しかけやすい、柔軟な人なんだと安心した。漬け物を箸に挟んだ莉子が、日葵がじっと見ているのに気づいてほほえんだ。

 マイルズについて、何者なのか、なぜここに住んでいるのか、聞きたいことが、たくさんあった日葵だったが、いかんせん英語が分からないので、もし英語で捲し立てられたらと思うとゾッとして、結局何も聞けなかった。

「箸の使い方、上手い」

 マイルズが外国人にも関わらず箸を器用に使っているのをみて、日葵は呟いた。莉子が英語でマイルズに伝えてくれる。

「うんうん、はし、勉強したんですね」

 まるで他人事のような言い回しだ。マイルズの変な日本語に、日葵の緊張はほぐされた。

 食後はマイルズが部屋に戻り、莉子も勉強をするというので、日葵は大家の食器洗いを手伝うことにした。

「マイルズはパソコンで仕事してるからね」

 大家がスポンジ片手に、皿を洗いながら説明してくれる。どうやら謎の外国人男性マイルズは、海外企業の日本支部に勤めていて、フレキシブルに働いているという。つまり、会社で仕事をすることもあれば、カフェで仕事をしてもよくて、こうやって家に帰ってきてからPCで仕事をすることもあるということである。

 マイルズ本人のいるところで深く聞くと、マイルズに英語で話しかけられそうで怖かったので、日葵は大家から聞けたことで助かった。

 日葵は食器を拭きながら、大家と、日葵の学校の話しをしたりした。食器片付けが終わった日葵は、風呂に入っていいというので自室、というか押し入れに荷物を取りに行った。莉子が机に向かっている。それと、押し入れのスキマから、光りが漏れている。

「マイルズ!」

 日葵は叫んだ。押し入れの下の段に電気スタンドの灯りを灯して、うつぶせになったマイルズがキーボードを叩いていたのだ。「Hi」

 ジェスチャーで、日葵の部屋はここだったんだね、と言わんばかりに押し入れの上を指すマイルズ。頷きながら、そっと押し入れの襖を閉じた。顔側の押し入れを何度も開け閉めしたら迷惑だろうと思ったのだ。反対側から襖を開けて、風呂セットを取り出した。

 脱衣所に洗面台と、洗濯機が置いてある。日葵は服を脱いで、洗濯機に詰めた。洗剤は洗面台の下に入っているやつを使って良いと聞いていた。

「液体洗剤だ。よかった」

 もし粉洗剤だったら、スマホで調べないと使い方が分からなかった。日葵の自宅にもあるタイプの洗剤だったので、適量入れて洗濯機を回す。

 風呂場に入ると、湯船の小ささに驚いた。日葵でさえ足を伸ばして入れないない。浴槽の中で膝を抱えながら、日葵は今日のことを振り返ってみた。常識では考えられないことばかりで、正直隙を見て逃げ出したい程だが、両親に「それみたことか」と言われたら腹が立つ。絶対に自分で解決してみせる。

 風呂から上がった日葵は、ドライヤーの場所が分からなくて、タオルドライで済ませる。洗濯機はまだ回っているので、後で取りに来ようと廊下へ出た。玄関に電気がついていて、たたきで靴を脱いでいる男がいた。前髪が長く、顔はよく見えない。

「ういー、ただいま、ただいま。ありぇ、靴が脱げねぇ」

 凄い酔っ払いだが、声が良い。髪もバッチリ固めてあって、若そうだ。日葵のイケメンレーダーが反応する。

「はじめまして。今日からここで暮らします、与古田日葵です。日葵って読んでもらっても」

 と、ここまで言ったところで、靴が上手に脱げたらしい、酔っ払いが、日葵に顔を近づけてきた。日葵の真横にある壁にもたれかかっている。単に酔ってふらついているだけだろうが、いわゆる壁ドンの構図だ。

「なにちゃんだって? んふふ、可愛いねぇ君。今度ライブ来てよ」

 この人が、大家の言っていたもう一人の住人だろう。前髪の隙間から、切れ長の瞳が日葵を見つめている。格好と言い、「ライブに来て」と言っていることといい、廊下に無造作に置かれたギターケースといい、バンドマンに違いない。

このボロボロな家に、こんなイケメンが住んでいるなんて。

日葵は目の前のイケメンがあまりに顔を近づけてくるものだから、心臓の音が聞こえてくるほどドキドキしてくる。

「伊吹。いーぶーき。俺の名前ね」

 なるほど、伊吹というらしい。フーって息を吹かないで欲しいと日葵は思った。すごく酒臭い。鼻が曲がりそうだ。

「君、何歳」「一八です」「歳近いね」

 伊吹は二十ちょとなのかもしれない。音楽ができるイケメン、ちょっと年上。好物件過ぎる。日葵は家賃一万が安く感じてきた。

「あの、お部屋どこですか。私はここなんですけど」

 まだ伊吹が覆い被さって来ているので、目線で自分の部屋を示す。

「おえっ気持ちわりぃ」

 伊吹に肩を優しく叩かれたと思ったら、振り返りもせず一直線に、トイレに向かって行った。出会いから幻滅までがこんなに早いイケメンは、日葵の中でも一番だった。

 部屋に戻って布団を莉子の部屋に敷かせてもらおうと思った日葵だが、部屋が狭すぎて、布団を敷くことができない。しかたない、六畳間という狭い空間に、大きなデスク、そしてベッド、カラーボックスに本棚が置いてあるのだから。社会人学生である莉子は、教科書や参考書が多すぎるのだ。

 一度布団を敷いてはみたのだが、どう考えても足を伸ばして寝られない。風呂はそれでも良かったが、正直押し入れの中の方が広い。ごたごたしていると、マイルズが押し入れから顔を出した。英語と共に、押し入れで寝ることを指で勧めてくる。

「今日は私と一緒のベッドで寝ましょうか」

 莉子の言葉に甘えさせてもらうことにした。良い匂いがする。布団の中に入れてもらった日葵は、莉子の寝息が聞こえてきても、まだ寝られなかった。

 伊吹の顔と声が、頭の中で鮮明に思い出される。酒を飲んで赤らんだ頬に、歌うような声音、仕草まで格好いい。今度、彼女はいるか聞いてみよう。もしかして、年齢を聞かれたということは、ナンパされたと考えても差し支えないのでは。さすがにポジティブすぎか。

 眠れないでいるうちに、日葵はトイレに行きたくなってきた。莉子を起こしてしまわないように、ゆっくりベッドを出る。

「失礼しまーす」

 一瞬莉子を起こしたかと思ったが、寝返りをうっただけのようだ。部屋の扉を静かに開けようとするが、古い家だから大きな音が鳴る。静かに、と怒りそうになった。

 トイレに電気がついているので、目の前に立って少し待つ。しかし、音はない。もしかして、先程のイケメンバンドマン伊吹が、トイレで寝てしまったのか。日葵はドアをノックする。

「大丈夫ですか。入ってますか」

 ドアノブには鍵が掛かっていることを示す、小窓に赤色が見えている。

「はーい」

 この歌うような声音は伊吹だ。鍵が開いて、トイレから出てくる。揃えた指先で、どうぞ、と示されたので入って戸を閉めた。眠そうだが、酔いは冷めていたみたいだ。日葵はトイレの内装を見回した。凄く物が多いのだ。トイレ内の上部に突っ張り棒があって、ドアの上と、トイレのタンク上が二カ所棚になっている。カーテンで隠れていて中身は見えないが、ペーパーの換えとかが入っているのだろう。タンクの両脇にも棚が作られていて、DIYが得意な住人がいるらしい。

「なんでギター」

 伊吹のギターケースがドアの脇に立てかけてあった。

 トイレを済ませた日葵が廊下へ出ると、少し離れたところに、壁により掛かった伊吹がいた。腕を組み、立ったまま寝ている。日葵は部屋に戻ろうと静かに廊下を歩く。すると、扉が開く音、閉まる音、鍵の掛かる音のコンボが聞こえた。振り返ると伊吹がいない。トイレに戻っていったのだ。

「いやいや伊吹さん、お部屋に戻って寝た方がいいですよ」

 肩貸しましょうか。そこまで言うと、もう一度トイレの扉が開かれた。眉をひそめて、煩いと言わんばかりの顔だ。

「トイレが俺の部屋なんだけど」

 伊吹はトイレの中を肩越しに親指で示すと、戸を閉めようとした。

「いやいや目を覚ましてください。お部屋はどこですか」

「家賃千円。人が来たら外に出る」

「はい?」

「トイレを借りてる俺が、大家から言われてるルール」

 日葵はこめかみに指を当てた。つまり、大家に家賃千円を払って、トイレを賃貸しているということだろうか。そして、トイレを使いたい人が来たら、どんなときであっても住民にトイレを貸すよう、言われているということか。

 まさか、日葵は自分とマイルズ以上に不便な賃貸物件に済んでいる人がいるとは思っていなかった。完全に目が覚めた。

「俺さ、プロデビュー目指してんだよね。毎日路上ライブとか、仲間と金出しあってライブハウスに出させてもらって。だから金ないんだ。今だけの我慢だから平気」

 ほぼ目を瞑って寝言かもしれない様子で、伊吹は目を擦った後、ドアを閉めた。

 自分の部屋は押し入れ上段、下段には言葉の通じない住人が済んでいる上に、一目惚れの相手はトイレが自室。大学で友達ができても、うちには絶対遊びに内で欲しい。朝起きた日葵が顔を洗いに行ったら、トイレが開いてゲロ臭い伊吹がフラフラ出てきたものだから、完全に恋が冷めてしまった。

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