第百二十二話 袂を分かつ

 


 マリウスは手近な衛兵を袈裟斬りにしてから、もう片方の胸に剣を突き刺した。彼は口を振るわせながら反撃した衛兵の胴体を、乱雑に蹴飛ばして剣を引き抜く。


 すると天井まで届く血飛沫が上がり、寝起きのクレインにも血の雨が降り注いだ。


 常人が寝起きでこの光景を見せられたのなら、叫び声を上げるか、気を失って再び眠りにつくだろう。

 だがクレインは冷静に上体を起こして、右半身を赤く染めたマリウスに尋ねる。


「状況を報告してくれ」


 クレインは、ちらと護衛たちの死体を見た。するとベテラン2人のうち、片方は部屋の入口で、もう片方は入口とベットの中間でこと切れている。


 マリウスは入室前に剣を抜いたのだから、少なくとも寝室の中央で殺された衛兵は、彼の手にかかっていないと推測できた。


 もっと言うなら、彼が現れる前から戦闘は始まっていたのだ。つまり若手が裏切ったものの、古株が足止めに成功した結果、マリウスの救援が間に合ったという見方になる。


 たとえこの推測が間違っていたとしても――マリウスが裏切っていたとしても――時を戻して原因を取り除けばいいだけだ。

 そう考えながら返答を待つと、彼は浅い礼をしてから端的に告げた。


「襲撃です。即座に退避を」


 この報告が聞けた時点で、彼は裏切っていない。


 クレインは確信と共に安堵したが、今は緊急事態だ。頭を切り替えながら、すぐにベットから降りた。


「怪我は大丈夫か?」

「掠り傷です。お気になさらず」


 寝室の護衛は命を落としたが、マリウスも暗殺者の反撃で右腕を負傷している。


 しかしそれも返り血を浴びているため、クレインにはどの程度の傷かは分からなかったが、治療をするとしても脱出後だと考えて、手短に次の質問をした。


「マリーとアスティは?」

「ハンス殿が向かいました。脱出路を利用して、安全圏にお連れする予定です」


 緊急時の避難路は当然のこと機密だ。家族を除いては、昔から雇用している家臣の一部と、マリウス他数名の重臣。そして逗留中のアレスにしか場所を伝えていない。


 中に入り、入口を閉じさえすれば、何事もなく逃げ延びられるだろう。

 一旦は危難を逃れ得るとして、問題は避難路に入るまでだった。


「我々は一度屋敷の外に出て、地下牢から裏山に伸びる脱出路を使いましょう」


 敷地の東側にある地下牢の奥には、ヘイムダル男爵領方面へ続く、抜け穴が掘られている。そして、わざわざ屋敷の外を迂回する道を選んだ理由は、廊下に出ればすぐに理解できた。


 足早に先導するマリウスの後に続き、クレインが寝室を出てからすぐに――遠くから戦闘の音が聞こえてきたからだ。

 遠くと言っても屋敷の中であり、既に至るところで戦いが起きている。


「ここまで入り込んでいるのなら、裏切り者が行動を起こしたのかな」

「お察しの通りです。階下の会議場では乱戦が起きていますが、誰が敵で誰が味方かは、まだ判然としていません」


 1階には食堂と客間に脱出路を用意しているが、いずれも最前線の近くだ。そのため最寄りの脱出路を目指すよりも、人気がない方向に進んだ方が危険は少ない。


 そして誰と合流したところで、後ろから刺される不安は常に付きまとう。だから自分と主君だけで向かうのが最善という、マリウスの考えは正着だった。


「さて、ここからどうするか」


 状況を把握したクレインは、最も多く情報を得られる道を模索する。

 しかしどのルートを辿る場合でも、まずこの場を生き延びる必要があった。


 事態を落ち着けてから状況を振り返り、誰がどのような行動を取ったかを確認して、全体像を把握してから容疑者を洗い出すこと。


 つまりは、答えを見てから経緯を考える方が、圧倒的に効率がいいからだ。


「目星をつけていた以外にも、裏切り者が出ているようです」

「調略されていた人間は、あとで調べないとな」


 逆に言えばクレインは、今から1週間生存できる道を通れるのなら、脱出までに何度死んでも構わないと思っている。


 離反者たちの調査が終わった段階で、確実に死ぬことになるのだから、やはり問題は当座のことだけだ。

 彼はそう思いながら左胸に手を伸ばし――毒薬を携帯していないことに気付いた。


「そうか、薬は上着の中だ。……取りに戻るか?」


 就寝前には当然ジャケットを脱ぐ。そしてベッドから降りてすぐに、着の身着のままで部屋を出たのだから、自害の道具は寝室に置きっぱなしだ。


 そうと気付いたときには階段に差し掛かっていたため、彼は振り返って足を止めた。


 しかしマリウスからすれば、まさか取りに戻るのが「自害の薬」などとは思っていない。クレインに持病は無いので、常備薬を持ち出すための時間を割くはずがなかった。


「クレイン様、お急ぎください」

「……分かった。行こう」


 クレインからしても、裏切り者たちは自分の命を狙っているのだから、死ぬ必要があれば服毒などせずに、敵の手にかかるだけでよかった。


 もし殺されれば、殺してきた相手を裏切り者として処分するだけだ。反対に生き延びれば、この騒ぎを起こした人間を調べてから、事件の前に戻って一斉検挙することになる。


 いずれにしても、いずれは死ぬ。しかし今すぐに自害する理由はないとして、クレインは逃走を再開した。


「いたぞ!」

「階段だ、急げ!」


 クレインらが階段を降り始めると同時に、階下から小隊長クラスの人間が3名、剣を片手に駆け寄ってきた。

 そしてマリウスは顔色や態度から、彼らを敵対勢力と判断して――戦闘を開始する。


「そこを退け」


 片手で剣を振るうマリウスは、最初の1人を駆け抜けながらの逆袈裟で仕留めて、2人目は一文字に斬った。

 3人目とは鍔迫り合いになったが、荒々しく腹部を蹴飛ばして階段から突き落とす。


 転倒した相手の首を突き刺してから、彼は会議場に続く廊下に向けて、剣を構えながら言う。


「クレイン様。この場は私にお任せください」


 元から想定していた以外の裏切り者も出ているため、マリウスとしては自分と共に行動をしてもらうか、単独行動を勧めるしかなかった。


 そしてよりにもよって、新手としてやって来る小隊の人員は、大半が裏切り者と見られていた者たちだ。

 マークしていなかった武官も混じっているが、同行している以上は黒である可能性が高い。


 そのため自分が足止めに残り、クレインを無事に逃がすことが、彼の中での正解となった。


「いや、加勢する。片づけてから行こう」

「護衛の命と当主の命では、つり合いが取れません」

「側近の命を投げ捨てる当主に、誰がついてくるんだよ」


 マリウスが実力者であっても5対1では分が悪い。そしてクレインも実戦を未経験とは言え、それなりに武芸の修行を積んできたという自負があった。


 階段に転がる死体から剣を奪えば、最低限の戦力にはなれるだろう。

 そう思い手を伸ばしたが、マリウスは尚も参戦を制止した。


「いざとなれば盾となることも、私の役目です」

「いや、今ならまだ余裕があるはずだ」


 クレインは、自分の命に関しては「どうせ自害するから」で片づけられる。

 しかし近しい人間の死を、わざわざ体験したいとは思えなかった。


 見捨てた罪悪感を抱くくらいならば、共に死ねた方が気持ちとしては楽だ。


 そうでなくとも脱出口は目前なのだから、一緒に逃げる選択肢は残っている。それにクレインは、たとえ途中で殺されることになっても、それはそれで諦めがつくと思っていた。


 しかしそんな理屈を、マリウスが理解するはずがない。

 だから彼は大きく息を吸い込み、己の主君を一喝した。


「走りなさい。あなたには、為すべきことがあるはずだ!」


 マリウスがクレインを怒鳴りつけるなど、初めてのことだった。

 クレインは目を丸くしたが、しかし今はあっけにとられている時間などない。


 警戒されていると見た刺客たちは、最早隠すことなく襲撃にかかっているのだから、タイムリミットまでは数秒もなかった。


「俺が、何をするべきか……」


 この場から生き延びて、情報収集の環境を構築すること。そして想定していなかった裏切り者が、何人潜んでいたのかを知ることが肝要だ。


 目前の集団は離反者と確定したので、死力を尽くして戦っても得るものはない。

 そのため、初期方針に従うのが最善だと判断して、クレインは先に行くと決めた。


「……分かった。脱出先で待っているから、生き残ってくれ」

「承知しました。奴らを始末して、すぐに後を追います」


 片や追手からすれば、マリウスを討ち取っても大きな手柄にはならない上に、やたらと腕が立つ厄介な相手だ。そのため彼のことは眼中になかった。


 追手のうち2人は、玄関扉に駆け寄るクレインの背を目掛けて、時間差で短剣を投げつける。


「やらせるものか!」


 マリウスは左手の剣で片方を叩き落としてから、もう片方を右手で受け止めた。


 刃はてのひらを貫通して、指先からは血がしたたっているが、彼が気に留める様子はない。寝室で交戦したときから既に、武器に塗られた毒で感覚を失っていたからだ。


「そうだ、これでいい。この決断に後悔は無い」


 暗殺者が用意していたのは、当然のこと致死性の毒だ。

 事実としてマリウスの視界は霞み、右手からは熱が失われつつある。


「……初めて、嘘をきました。私はもう、共には行けません」


 つまりクレインと共に戦い、切り抜けたところで、命を落とす可能性が高いことは分かっていた。だから彼は、今さら手傷など気にしない。


 ただ、主君の足を引っ張らずに済んだと安堵して、穏やかに笑みを浮かべるだけだ。


「お別れです、クレイン様」


 まだ左手は動く。思考も正常だ。残り数分の命だとしても、動ける時間が数十秒しか残されていないとしても、まだ戦える状態にはある。

 ならばと、クレインが通り抜けた玄関扉を背にして、彼は再び剣を構えた。


 ごく短い今生の別れを済ませたマリウスは、道を違えた者たちに刃を向ける。


「さて……これが私の、生涯最後の一戦だ。冥府への旅路に、付き合ってもらおうか」


 1人でも多く道連れにして、脅威を減らすこと。

 1秒でも長く立ち塞がり、自分の命と引き換えにして、時間を稼ぐこと。


 その決意を固めたマリウスは、襲い掛かってくる刺客たちに向けて、剣を振りかざした。




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