第百二十三話 不惜身命
旧館を飛び出したクレインは一人、東の外れにある地下牢を目指して走った。
彼は解体された温室の跡地を越えて、星明かりを頼りに闇夜を駆ける。
「……人死になんて、見ないに越したことはないんだ」
死に様は嫌でも目に焼きつく。近しい人間のものであれば、なおさらだ。
そして彼は実のところ、身近な人間の死にはそれほど慣れていなかった。
「こうなった以上、無駄死にするわけにはいかないな」
確かにクレインは、自らの命が虚無に感じるほどの死を繰り返してきた。だが彼が命を落とすとすれば暗殺が主だった。
そして戦争では大勢の人が亡くなるが、その際には乱戦で命を落とす者が大半だ。
だから他者の命を。とりわけ信頼する部下の命を失うことには、未だ慣れていない。
むしろ人生を進めるごとに、犠牲が積み重なっていくのだから――いずれは無かったことになるとしても――なるべく被害が少ない道を進みたがっていた。
「こんな生活が、いつ終わるかも分からないけど。それでも前に進むしかないんだ」
腹心の部下に足止めを命じるのは、苦渋の決断だったはずだ。
少なくとも、彼が死に始めてから数回目くらいであれば、判断に迷って足踏みをした末に、何も選べないまま死んでいただろう。
だが今では犠牲への嫌悪感を抱きながらも、これが次に繋がると信じて、割り切りれるようにはなっていた。
「人間性を失うなというのは……こういうことだよな」
もしも人を見捨てることが常態化していれば、どこかで歯車が狂っていく。自害により全てを刷新したところで、クレインの内面は変わらないからだ。
冷酷な性格に固定されてしまえば、当然周囲との付き合い方も変わる。
だからあくまで冷静と呼べる範囲内で動くことも、彼の行動基準となっていた。
「一人で脱出しようとしている時点で、褒められたものではないと思うけど」
しかしこの振舞いは、貴族としては正解だ。当主さえ無事なら立て直せるのだから、何を置いても自分を優先させることは、模範的な考え方ですらある。
そんな様式にまで順応していることに嫌気が差しながらも、クレインは地下牢に続く
収監者を地方に散らした今は無人であり、鍵は掛かっていない。
あとは地下へ降りれば、無事は約束されたようなものだった。
しかし地下牢の付近には、口元を布で隠した、あからさまに怪しい者たちがうろついている。
「浅はかな奴らだ。誰が裏切ったのか分からなければ、失敗してもお咎めなしと踏んだのか」
寝返る理由は人によるだろうが、真っ先に挙がるものは金銭だ。忠誠心が薄い人間は、一生を安泰に過ごせるほどの金を前にすれば目が眩む。
しかし当然ながら、どんな大金よりも命の方が重い。少なくとも大抵の人間はそう考える。
だから申し訳程度の隠蔽工作をしたのだろうと察して、彼は呆れた。
「顔を隠さず堂々と不意打ちした方が、成功率は高いだろうに」
これではむしろ侵入者を鎮圧しようとする、武官たちに捕捉されて討たれる可能性の方が高い。
だがその行動が、後ろめたさからくるものだとすれば、それなりの期間仕えていた人間だとも想像がついた。
「まあいい、地下牢からの脱出は無理だ。東側の外柵を越えていくか、それとも引き返して正門に向かうか」
少し考えて、彼は外柵に向かうことにした。領都の東部区画へ道なりに進んでいけば、武官の訓練場があるからだ。
そこで馬を借り、続く街道を途中で折れれば、脱出路の先に辿り着ける。
しかし敷地の外に向かおうとしてからすぐに――近くの茂みから声を掛けられた。
「外柵の近くにも人影がありました。どうぞこちらへ」
聞き慣れた声にクレインは足を止めて、身を隠したまま垣根を回る。
するとそこにはアストリと、彼女の護衛に就いていたチャールズがいた。
しかしチャールズは、鎖骨から首筋にかけて大きな傷を作り、満身創痍の状態で倒れている。アストリの白い衣服も血と土で汚れており、周囲にはむせ返るような血の臭いが漂っていた。
「……誰にやられた?」
チャールズは出血多量で意識が飛びかけている。
しかしこれが誰の手によるものかを尋ねると、彼は頭を搔きながら答えた。
「アストリちゃんの護衛だ。完全に騙されたわ」
「何?」
アストリの身辺警護と言えば、ヨトゥン伯爵家から連れてきた家臣が主だ。
これは、気心が知れている方がいいだろうという配慮であり、チャールズはたまたま増員された人員に混じっていた。
しかし伯爵家の家臣選考ともなれば、誰彼構わず雇用したアースガルド家とは、段違いに身分調査が厳しいはずなのに、何故。
クレインもそうは思うが、今となれば当然のことでもあった。
「南の間者は索敵に引っ掛からなかっただけか。むしろヘルメス商会が、囮に使われた可能性があるな」
ラグナ侯爵家の場合は、総出で裏切り者を炙り出した結果、傘下の貴族に裏切り者がいると判明した。対して南方面は、最初からヘルメス商会の関与が明らかだったため、商会の排除に全力が注がれている。
いざとなれば捜査の対象が商会に向けられて、他のルートで送り込んだ密偵が活動をしやすくなる環境だったということだ。
初期構想から捨て駒にするつもりではなかったにしても、使い道の一つとして考慮されていたのかもしれない――そこまで考えを回してから、クレインは顔を上げた。
「事情は分かった。これ以上は喋らなくてもいいから、ゆっくり休んでくれ」
「いや、だけどよ……」
「チャールズさん」
手当をしたところで望み薄だが、止血をしなければ確実に助からない。だからここで一旦逃亡をやめて、アストリの介抱を受けていたのだろう。
そう察したクレインからすると、生死の境を彷徨っている彼から、無理に聞き出したい事情はない。
行動を共にしていたアストリからの情報提供で、事足りることでもあったからだ。
アストリからも強い視線を送られたチャールズは、何も言わずに顔を逸らした。
「分かった。確かにちょっとばかり、しんどいからな。眠らせてもらう」
「そうしてくれ。……さて、ここからどうするか」
彼は目を閉じて荒い呼吸を繰り返しているが、周囲には敵影があるため、抱えて動かすこともできない。
治療をするとなれば、襲撃者たちを制圧してからのことになる。
クレインが諸々の状況を把握すると同時に、今度はアストリが口を開いた。
「当家の者が、申し訳ありません」
「謝ることはないよ。この件には何の責任もないし、今はここがアスティの家だから」
裏切った数で言えば、アストリが連れてきた人間よりも、アースガルド家に仕えていた人間が遥かに多い。
クレインはそこを加味した上で、彼女が責任を負うべき点はどこにも無かったと断言した。
それは今の彼女にとって、嬉しくもあり悲しくもある言葉だ。
しかし心中よりも先にやるべきことをと、アストリはこれまでの経緯に補足を加える。
「ご安心ください、マリーさんは無事に行きました。傍にはハンスさんもついています」
「……どうして一緒に行かなかったんだ?」
「全員で行くには、時が足りませんでしたから」
アストリは事態を収拾させるために、周囲を落ち着けて周り、その間にマリーたちを逃がした。
だが、領主の一族が陣頭指揮を続けるには危険すぎる状況だ。
一通りの指示を済ませてから、脱出先で合流する予定で行動していたが、脱出前に刺客が襲ってきたという流れだった。
そして、クレインにも一通りの事情が伝わったと見た彼女は――唐突に話題を変える。
「そう言えば……私がここに来る前のことは、あまりお話ししたことがありませんでしたね」
「え? ああ、確かに詳しくは」
「クレイン様も息が乱れています。ですから、休憩がてらにお聞きください」
日常的に会話はしてきたが、それは主にアースガルド領内の話題であったり、最近の出来事に関することが主だ。
実家周りの話は特産品や気候、文化など領地に関することであり、アストリ個人がそこでどう過ごしてきたのかは、あまり話題に上らなかった。
「これでも名家の息女でしたから。実家にいた頃は家同士の繋がりを求める、他家からの親書をよく受け取ったものです」
しかし何故、今その話をするのか。クレインも疑問には思うが、走りづめで息が上がっていることも事実だ。
黙って地べたに座り、生垣に背を預けた彼に向けて、横並びに座ったアストリは続ける。
「ですが……あるときを境に事情が変わりました」
「東伯の件で?」
「ええ。それ以降は、音沙汰のない方がほとんどでした」
ヨトゥン伯爵家の家中では純粋にアストリの幸せが願われている。だから婚約はおろか、見合いまでのハードルはかなり厳しく設定されていた。
それでもなお申し込みは多かったが、ヴァナルガンド伯爵家から話を持ち掛けてからは、無数に持ち込まれていた縁談は一切なくなっている。横入りをした時点で、巨大なトラブルを抱えることになるからだ。
まさかかつてのアースガルド領のように、滅ぼされるまではいかずとも。国政にも影響を及ぼす東の雄と、険悪な関係になるリスクなど受け入れられるはずがない。
そもそもが縁談を断られて、恥をかく可能性が高い相手でもある。だから縁談はおろか、親交のための手紙すら減り、
「誰もが、見て見ぬふりをしました。手の平を返す……というのでしょうか」
「それは何となく聞いているよ。それでアスティと出会えたから、俺にとっては有難い話でもあったけど」
本来であれば、クレインには回ってこなかったはずの縁だ。
敵方が起こした行動の結果であり、アストリを苦境に置いた結果でもあるが、それでも結果だけを見れば、自分たちが結ばれる道はそれしかなかったのだろう。
そう考えた彼の横で、アストリは目を細めて笑う。
「そうですね。住み慣れた故郷を離れることも、こうして家族になれたことも……去年の今頃では想像もつきませんでした」
呟いてから、アストリは夜空の星々に向けて手を伸ばした。
遥か遠くを眺めながら、彼女は続ける。
「ここでは空が近いです。山間で、空気が澄んでいるからでしょうか?」
「そうかな? 意識したことはなかったけど」
言われるままに、クレインも星を見上げた。
北部に住んでいた頃は生きるのに必死で、空のことなどよく覚えていない。
王都では事件や緊急の対応ばかりで、人の顔しか見ていなかった。
最近では書類と格闘をする時間が長く、表に出て夜空を眺めることもなかった。
それでも、言われてみればどこよりも綺麗な夜景だ。
故郷であることを差し引いても、思い入れのある風景には違いない。
そう思いながら、彼は並んで手を伸ばす。
「この広い世界の中で……貴方だけが唯一、私に差し伸べてくれたんです」
「そう言われると、何だか照れくさいな。成り行きではあったからさ」
空に浮かぶ星以外の光源は、屋敷から漏れる明かりと、遠く門前に揺らめく篝火だけだ。
月明りと馴染んだ銀の髪をかき上げてから、アストリはそっとクレインの肩に頭を載せた。
戦いの喧噪をよそにして、彼女はただ静かに、寄り添いながら
「……だから、私にとっては恋愛結婚でした。どのようなお方なのかを空想して、想像上の貴方に恋をしていたんです」
クレインが横目で眺めた瞬間。頬を朱く染めた彼女の姿に、不意に心を奪わる。
これまでの人生で見た誰よりも、どの光景よりも神秘的で美しい儚さが、今のアストリにはあった。
だがそれは
「クレイン様と、マリーさんと三人で家族になれて、嬉しかったです。短い月日であったとしても――共に過ごした日々は忘れません」
周囲に漂う血の臭いは、チャールズだけのものではなかった。月を背にして立ち上がったアストリは、左の脇腹に血を滲ませている。
クレインの視線とは反対側にある傷のため、正面から向き合う瞬間まで気づけなかったものだ。
これは命に係わるものか、そうでないものか。
その見極めをする間もなく、護身用の短剣を抜いたアストリは、結論を告げる。
「クレイン様、私はあなたのことが――大好きでした」
最初で最後の告白をして、年相応の笑みを浮かべた直後。彼女は震える手で、自らの胸元に短剣を突き立てた。
深々と刺さった刃に血が滴り、微笑みを浮かべたまま崩れ落ちていく。
もちろん彼女は戦闘どころか、手傷を負うことすら初めてだ。自らに向けて刃を振り下ろすなど、選択肢の中に無かったことでもある。
しかしこの状況を迎えた今、彼女の中では恐怖による
「アス……ティ?」
自分を連れて逃げきれないことは明白だ。もし人質に取られれば、この善良な夫は自分のために足を止めてしまうだろうことも、推測がつく。
では、誰が命を落としてもおかしくないこの場において、家族を確実に守るための方法は何か。
それは足手まといにならず、この場で自ら命を絶つことだ。ここまでの思い出話は、決意を固めるための準備でもあった。
「このまま、お行きください。振り返らずに」
クレインは恐らく、自分を見捨てることはしない。だが、もう助からないと見れば、一人で逃げてくれるだろう。何が最善かを選んで行動してくれるはずだ。
その遺志を残して、彼女は命を差し出した。
それはクレインが止める間もない、一瞬の出来事だった。
クレインは所在なく差し出した手を、虚空に彷徨わせて立ち尽くし、やがて膝をつく。
そして、力が抜けていくアストリの手を両手で包みながら、祈るようにして呟いた。
「どうして、こんなことを」
被害をゼロに戻せる上で、犠牲を避けてきた。
身近な人間の死を見慣れてこなかった。
人情を捨てないように、気をつけながら生きてきた。
全ては、人の道を外れた、外道にならないために必要な心構えだ。
しかしそれは時と場合により、裏目に出る場合もある。
特に今回は展開が巡り廻って、最悪の結末に行き着いた。
「慎重に動いたつもりで、その果てに待っていたものが、これか。……俺は、また間違えた」
口の端から血を流し、永い眠りについたアストリの手を握りながら――クレインは一つの決意を固める。
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次回。第十三章エピローグは、12/9(土)に更新予定です。
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