エピローグ 執念の復讐者
クレインはしばらくの間、アストリの手を離さずに握り続けていた。そうしていると、やがて覆面をつけた集団の一人が彼の姿を認める。
「こっちだ」
襲撃者たちは身振り手振りで連絡を取り合い、クレインを取り囲むようにして参集した。
領主はよく表に顔を見せるため、容姿を見間違えるはずがない。
確実にクレインだと認めた数名の男女は、各々が小さな声を上げた。
「子爵だな」
「間違いない」
この状況は誰が見てもシンプルだ。クレインは妻に先立たれたショックで、その場から動けずにいる。
周囲に護衛の姿はなく、標的が動く気配もない。暗殺を成功させる絶好の好機を前にして、集団の一人が剣を抜きながら近づいた。
「これで、任務完了――」
だが彼は、クレインの言葉で足を止める。
何故なら次の発言は、この場にそぐわないものだったからだ。
「ああ、よかった」
気が触れたにしては落ち着きすぎている。もちろん負け惜しみでもない。かと言って周囲を見渡しても、やはりクレインを救えそうな人間はいないのだ。
ならば何故、彼は襲撃者たちを
剣を抜いたまま足を止めた男は、次の行動に迷った。
だが彼が何をするまでもなく、クレインはアストリに視線を戻してから呟く。
「厨房係のアーベル。衛兵のカール。それから庭師のアレクセイに、ランドリーメイドのサラか」
名を呼ばれた順に、小さく身じろぎをした。クレインが読み上げた所属と名前が一致していたからだ。
特に庭師などは世代交代によって雇用されてから、いくらも経っていない。それにもかかわらず、顔を隠した上で身元が割れたのだから、少なからず動揺が走った。
しかしクレインが知っていることは、それだけではない。
だから呟きも止まりはしなかった。
「アーベルは中央広場前の長屋から。カールは武官宿舎の近くにある実家から。アレクセイは旧市街地の古民家から通っている。サラは使用人寮の……2階に住んでいたな」
クレインは人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。しかし
だから王国暦500年の4月、行動を始めた直後から北部に向かうルートを選択して以降、彼は積極的に人との関りを持とうとしてきた。
大量に引き入れた人員の一人一人と言葉を交わして、人となりを知ることを習慣にしていたのだ。
何が好きで何が嫌いか。どのような生い立ちで、どんな性格をしているのか。
そういった些細なことを、可能な限りで覚える努力をしてきた成果は、この
「きちんと向き合ってきて、本当によかった。全部、覚えている」
青い血筋の貴族からすれば、下々の者に興味を抱く者など少数派だ。そのため彼らにも、布で口元を隠す程度の変装をしておけば、まず特定はされないという読みがあった。
しかしクレインは身分によって相手を差別せず、全員に一個人として接してきた。
だから彼には背格好や呟き声から、誰が誰なのかの見分けがつく。
「見覚えが薄いのは先頭の男だけだな。扇動役はお前か」
間者の育成にも多大な費用がかかるものだ。だから全員が送り込まれた人間という例は少なく、現地の住民を手駒にするやり方が主流になる。
そこを行くとこの集団は、一人の旗振り役に扇動されて、使用人たちが暴動を起こしているという行動様式に近い。
それは当たっていたが、クレインが話をしているうちに、剣を抜いた男は落ち着きを取り戻した。
「……分かったところで、どうだと言うのだ。知ったところで何の意味もない」
これまでの話は、ただの時間稼ぎだったか。
リーダー格の男はそう判断して、もう一歩クレインの近くへ踏み込む。
「ここで死ぬのだから、無駄な足掻きだ」
人が駆けつけてくることを期待しての、足止めであれば確かに無意味だったかもしれない。
しかしクレインにとって、これはただの確認だ。
答え合わせができた時点で既に、目標は達成されている。
だから悪足掻きだと吐き捨てられても、世迷言だと断じられても、これからの行動に狂いは生じなかった。
「お前たちのことを考えるよりも、まずは、自分の慢心を
「……何?」
クレインはアストリとの再会を心待ちにして、それを原動力にして進んできた。
マリウスは最後まで裏切ることがなかった腹心であり、チャールズはクレインがどれだけ出世しようとも、変わらず友人の距離で接してくれた兄弟子だ。
視界の外で命を落とした者たちも、大勢いるだろう。本来は起きなかったはずの事件なのだから、全ての命はクレインの選択によって失われた。
少なくとも彼自身はそう思っている。時間を巻き戻せば全てを元に戻せるとしても、命に対する責任は感じていたからだ。
そのためクレインは目前の敵よりも先に、自分の行動方針を振り返ることにした。
「間者を事前に炙り出すことは、本当に不可能だったのか」
人の出入りが激しい現状で、領民の身元を確認して回るのは難しい。
行動を起こしていない敵を発見することも難しく、精査には領民を全員調べるのと同程度の労力がかかる。
だからこそ問題が起きない限りは、保留という選択肢を選んだ。
事が起きて、結果が出て、犯人を確定させてから対処する方針だったのだ。
しかしここに至り、彼はその考え方を改めることにした。
これまでの方針は、何度でもやり直せる力を持ったことによる――慢心の産物だ。
クレインはそう結論付けてから、己を客観視しながら自問する。
「やり方なら他にいくらでもあったはずだ。なあ、そうだろう? クレイン・フォン・アースガルド」
身近な人間の死を目の当たりにしたくないのなら、万全を期すべきだった。
悲劇を未然に阻止したいのなら、もっと徹底して、突き詰めるべきだった。
そう
「時間ならいくらでもあるんだ。どれだけの労力が掛かったとしても、領民の全員を試してみよう」
ただでさえクレインの動きで、反乱軍に不利な出来事が多発しているのだ。
謀略を阻止するために派手な動きをすれば、アクリュース姫を刺激することになり、本来とは違う場所で儀式を敢行される恐れがあった。
しかし王城の書架が焼き払われたことで、今やそのリスクは大幅に低減されている。
もちろんアレスが想定していない経路から、禁術を見つけ出したことも否定はできない。
しかしその小さな可能性は、彼を縛り付ける
「何百、何千回かかるかも分からない。全員を見つけ出せるとも思えない。だけど限りなく、ゼロに近づける努力をしよう」
平静を保っているだけで、気が触れているのか。まだ終わりではないと確信しているかのような物言いに、男は自然と後ずさる。
一方のクレインは、事切れたアストリの額に口づけしてから、彼女が取り落とした短剣を拾い上げた。
そしてゆっくりと立ち上がり、寂しさと愛しさを込めた、別離の言葉を告げる。
「……ごめんな、アスティ。またしばらくの間、お別れだ」
見た目には、クレインは自暴自棄になって刃物を握りしめただけに過ぎない。
およそ武道の構えではなく、別段の脅威も感じない動作だった。
「でも今度は、この約束を嘘にしない。俺は必ず、ここに戻ってくるから」
声色も静かであり、威圧されるような要素は何もない。
しかしそれでも、誰一人として斬りかかれはしなかった。
「だから、待っていてほしい」
アストリに別れを告げてから作った、無表情とも真剣ともつかない顔つき。それは襲撃者たちからすると、ひどく不気味なものだ。
名状しがたい緊張によって生まれた、一拍の間を置き、小さな宣言が静寂を切り裂く。
「覚えたぞ」
領地を滅ぼされ、領民を無差別に殺されたことに対する報復。それを決意した瞬間と並ぶほどの激情が、クレインの胸中で燃え上がる。
感情に色を付けるならば、それは毒々しいほどの赤色だ。
「お前たちの顔は、覚えた」
身体から流出した血液が冷えて固まり、黒色の染みになるかのように。熱を帯びた赤い感情が変色して、黒い衝動となって彼の心にこびりつく。
今、彼の中では熱く激しい怒りと、暗く濁った感情が
「お前たちだけじゃない。屋敷の外に潜伏している人間も、総ざらいにしよう」
心にまとわりついて離れない、淀んだ感情。
それは紛れもない復讐心だ。
関与した全員に報いを受けさせるまで、この情念が消えることはない。
「出身、住所、仲間関係。生きる希望や人生の意義まで、一切を残らず調べ上げる」
愛する人を、忠臣を、友人を奪い去った者たちを相手に、もう慈悲の心は残っていない。
何があろうと、報復を完遂することが彼の本懐となった。
だからクレインはまた、自ら死を選ぶ。
依然として緩慢な動きのまま、彼はアストリが取り落とした短剣を逆手に握りしめて、水平に構えた。
「利用価値があるのなら、生かしておいてもいい。情状も
他所よりも好条件で雇用して、個々人への配慮までしてきたのだから、裏切るには相応の理由があるはずだ。そこは理性的に判断した。
だが同時に、そこまで心を砕いても裏切り、大切な人たちの命を奪った怨敵とも認識している。
領主として謀反人を裁くという意味でも、クレイン個人が抱く好悪の感情からしても、彼らを無罪放免にするなどあり得なかった。
「どこに潜んでいようとも、どれほどの数が隠れていようとも、
この
覆面で表情を隠しているが、そんなものは関係ない。二度と忘れはしないだろう。
そう再認識してから、短剣の切っ先を己に向けて、振り下ろす先を胸元に定める。
「怒りを風化させないためにも、この決意は……痛みで刻みつけよう」
次の瞬間、クレインは力任せに短剣を振り下ろした。
その身を貫くほど強く、魂を貫くほど深く。復讐を誓うための刃を心臓に突き立てる。
どこまで行っても支払う代償は、己の命を失う過程で生まれる痛みだけだ。
彼が抱えた怒りと憎しみ、そして悲しみ以外の全ては、これで取り返しがつく。
「裏切り者を、どこまでも追い詰めて」
突然の凶行に唖然とする襲撃者たちの顔を、クレインは最期まで目に焼き付けていた。
そして今わの際。彼は地獄の淵から、どうあっても避け得ない――確実な死を宣告する。
「生きた証ごと、この世から消してやる」
クレインの意志が続く限り、何度でも繰り返し、終わることのない調査を進められるのだ。
見える範囲の全てが平らになるまで、捜査が続くことになる。
その先に待っているものは、過去に類を見ないほどの粛正だ。
報いを受けるべき相手を探し出すために、彼は再び時を遡った。
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