閑話 奇策縦横①



 王国暦502年1月8日。

 アレスが王城からの逃亡を図った翌朝に、彼女は密偵からの報告を受け取った。


「殿下自らが、あの大火災を起こされたそうです」

「なるほど、そうなりましたか」


 アクリュースは揺り椅子に深く腰掛けたまま、謀略の仔細を聞いていた。


 彼女は潜伏中にもかかわらず、王都の郊外にある別荘の、日当たりのいいテラスで寛いでいる。届いた報告は予想と全く異なる結果だが、それにも特段動じてはいない。


「部下を囮にする程度だと思っていましたが……」

「手前共も、正直に言えば驚きました」


 事件の経緯としては、刺客に襲われたアレスが図書館に火を放ち、歴史的文書の全てを焼失させながら逃走したと伝わっている。


 密偵との橋渡しを務め、潜伏先の提供者でもあるエレボス子爵は、これを受けて呆れたように首を横に振った。

 一見するとアレスの行為は、下策中の下策だったからだ。


「姫様、やはり殿下は錯乱したままだったのでは?」


 整髪料でべったりと固めた七三分けの髪を撫でながら、エレボスは下卑げびた笑みを見せた。

 これは安全圏から愚か者をさげすむ、愉悦ゆえつの笑いだ。


「我らの狙いに気づいて放火した。その可能性は拭えません」

「なんとも薄い線ではありませんか」


 だがアクリュースは笑わない。どれだけ周囲が卑下ひげしていたとしても、彼女が油断する理由にはならなかった。


 何せ、仮にアレスの思考が正常であったとすれば、厄介なことになるからだ。

 だから彼女は正常であった場合のことも、考慮に入れて物事を考える。


「ここまですれば、逃走の時間も十分に稼げます。実際に追手は苦労しているようですしね」

「結果論では? なりふり構わなかっただけのようにも見えますが」


 真相は考えても分からない。しかし傍目から見れば、ここ最近のアレスの突飛な行動は奇行と呼ぶに相応ふさわしかった。


 直近の2年間を振り返っても、思いつきで政治に口を出しては、歯車を狂わせて暴走していただけだ。

 どの勢力の誰が分析しても、彼は無能という評価で落ち着いている。


「ですが行動の結果は、我々に不利益を与えるものばかりです。楽観はしないように」


 アレスの思考が正常かつ、アクリュースの生存に気づいており、反乱や謀略も残らず見抜いている。

 この場合であれば、アレスの行動は全て計算ずくとも見えた。


 しかしアレスの状態がどうであれ、大局を見ればしたる変数にはならない。


 精々が讒言ざんげんにより遠ざけていた忠臣――騎士団長を始めとした数名――を重用し始めた程度であり、国政への影響力は低いままだったからだ。


 監視できる範囲では特段、以前と変わったところも見受けられなかった。そのため現状での求心力など、あって無いようなものだと見られていた。


「使える手足はごく僅か。大掛かりな謀略を仕掛けてくるとは考えにくいですが、そろそろ詰めの段階ですからね」


 捨て置いても問題は無いだろうが、不安の芽は全て摘む。

 それがどれほど小さなものであってもだ。


 この点でアクリュースはアレスの行方よりも、東方の領地を気がかりに思っていた。


「それで、アースガルド領の様子は?」

「ふむ。東伯の侵攻に備え、砦を築いたり治安維持に努めたりと……昨年から変わりないようです」


 砦の縄張りや図面などは、送り込まれた密偵から流出している。

 総戦力から物資の備蓄状況まで、戦力の大半は把握済みだ。


 開戦予定日の2週間前になっても、クレインが流した「本気で攻めてくるはずがない」という風説の通りに、取り立てて警戒すべき事柄は無いように見えていた。


「ヴァナルガンド伯爵軍は常勝無敗。旗下も精鋭揃いであり、数の上でも圧倒的に優位。ですから確かに敗れるとまでは思いません」

「へっへ、そうでしょうとも。でなければ姫様が、あのような蛮人崩れどもと手を組むことなど、あり得ませんからな」


 アースガルド領内の防衛設備は新造の砦のみ。そしていくら通行に難があったところで、未開拓の森林地帯からも攻め上がれる。


「では仮に、アースガルド領の防衛網を突破できなかった場合は?」


 そもそも物量と兵の質で十二分に押し切れる戦いであり、アースガルド側の戦力も丸裸に近いのだ。

 負ける道理などどこにも無いが、彼女は重ねて聞いた。


「ですからそれは、考えられませんと――」

「大がかりな策に不測の事態は付き物ですし、侵攻に遅れが出る程度の誤算ならば、十分に考えられます」


 エレボスは再度、そんなことはあり得ないと一笑に付そうとした。

 しかしアクリュースは、ここにきて初めて笑みを見せる。


「もしも敗北を喫した場合、その先は無策でいるとでも?」


 考え足らずの無能など、いつでも切り捨てる。

 その思考が透けて見える酷薄な笑みだ。


 彼女の中に確固たるプランはあるが、配下がどの程度を察して、先々にまで目を向けられるかは定期的に試していた。


「ふむ。本来の計画に戻るだけとは思いますが、確かに詳細の検討は必要ですか……」

「ええ、貴方の意見は?」


 しかし彼女は恐怖政治に頼らねばならないほど、配下の掌握しょうあくが下手ではない。


 あらゆる手管を駆使して人心を掴んでいるからこそ、正当に玉座を得られないはずの彼女が、多くの賛同者を抱えながら、さほどの離反者を出さずに計画が進んできたのだ。


 だからこれも単なる引き締めだろう。そうは思いつつも、反乱にどれだけ貢献するかで今後が決まるのだから、エレボスも殊更に楽観視することはやめた。


「では予想から述べます」


 成果を出せば評価される。失態を犯せば更迭される。

 それは彼らが共有している価値観だ。


 そのため彼は思考を切り替えて、万が一アースガルド側が勝利を収めた場合はどうなるかと、戦後の勢力図を具体化させていく。


 この点で真っ先に挙がったのは、ヨトゥン伯爵家の去就きょしゅうについてだ。


「軍勢がアースガルド領を突破できねば、南伯はまずもって、現状維持でしょうな」

「そうですね。国を裏切っても孤立するだけですし、今となってはこちらに付く理由も薄いですから」


 衛星都市のいくつかは調略済みのため、足止めを受けないルートがある。最短で進めば王国軍が結集する前に、王都の包囲――場合によっては陥落作戦が成功する見込みだった。


 つまり最良のプランはアレスを暗殺し、中央が混乱に陥った間隙かんげきを縫って、一息に侵攻することだ。


 ヨトゥン伯爵家への寝返り工作は進めていたが、彼らが味方に転ばずとも、日和見ひよりみを決め込む程度の協力が得られれば十分。


 その前提で事を進めていたが、肝心の軍勢が中央に来られないのでは、話が変わる。


「好機と見れば予定を前倒しにして動く。その判断は現場に任せましたが、基本的には弱体化を待つ時期でしたね」

「ですがヘルメスが消えた今、商業面からの圧力も掛けにくくなっています。これまでの成果も、徐々に消えていくものかと」


 国全体で見れば、まだ飢饉の影響は色濃く残っているのだ。何も起きなければ真綿で首を絞めるように、経済と食糧事情を悪化させていくだけで勝率は上げられた。


 つまり基本的な方針としては長期戦狙いであり、ヘルメス商会が中央の経済を荒らしに荒らすことで、攻勢を掛けるまでの間に国軍を弱体化させるつもりでいたのだ。


 だが独裁者の消えた商会は、他商会に乗っ取られつつあるため、余命が幾ばくも無いことは明らかだ。

 計画の成果としては、事前に蓄えた軍需物資が遺産として残るのみだった。


「中長期で考えれば、いずれ飢饉の影響も薄れましょう。だからこその速戦即決案でございましたが……敗退するとなれば仕切り直し、正面きっての決戦となるでしょうな」


 今年の収穫以降は、情勢も徐々に落ち着いていくと見られていたため、侵攻時期をいつにするかは見極めが必要な部分だった。


 そして結果としては、婚姻によって足固めを終える前に仕掛けるのが最上という判断が下されている。


 東の動きに呼応して、西からも進軍、中央でも謀略を始める算段で動いていた。 


「とは言え短期決戦に持ち込めずとも、やはり我々としては本来の流れに戻るだけです。焦ることではありません」

「……順当に、当初の予定通りに、事を運べば済むことですか」

「ええ、もちろんですとも」


 中央貴族の戦下手は有名だ。だから中央方面に攻め上がるための理由など何でもよく、大きな脅威とも見られていない。


 評価がどれほどかと言えば、彼らを前線に出さなかったとしても、少し権力争いを煽るだけで内輪揉めを始め、現場の足を引っ張る程度と目されていた。


 先ほどの戒めもどこへやら、それを嘲笑ちょうしょうするかのような態度でエレボスは続ける。


「近年の有事を見るに、中央の高官どもが結束を固めることも至難です。不安要素などありませんよ」

「武力で勝つなど、もとより無理なこと……でしょうね」


 宮中の人間は実戦経験の少なさ以前に、戦いをナメている。

 負ければ全てを失う局面でも、誰かが勝利を持ち帰ってくる前提で、権力闘争に明け暮れるだろう。


 それが東侯、東伯の共通見解だ。エレボスはもちろん、アクリュースが直近10年の紛争や戦争を思い浮かべても、その評価は概ね正しい。


「このまま伯爵軍が勝てばよし。次に備える場合でも、抑えるべき人材が多少増える程度ですか」

「へへ、それはもう、姫様の仰る通りです」


 一部の有能な人間が、大勢の無能を無理に統率して、ようやく形が整う程度だ。

 ならばその人材を囲い込むか、排除してしまえば容易に勝てる。これは自明の理だった。


「お父様への忠誠心に篤い、直属の騎士団長たち。そして文の宰相と、武の大将軍は確実に排除。……その他の要人にはそろそろ、もう一歩踏み込んだ調略をする時期ですね」


 やたらと気位が高く、引き入れても大した戦力にならない者や、最初から反乱に乗るはずがない忠義者を除外すれば、声を掛けられそうな人物は大勢いる。


 アレスの暗殺に失敗したとしても、東伯軍が王都に到着するまでの間に、内部分裂を誘発する程度の揺さぶりを仕掛けておくことは既定路線だった。


 確保すべき人材と、声を掛けるべき人物。そして順番を思案するアクリュースだが、傍らのエレボスは軽く揉み手をしながら彼女に尋ねる。


「陛下には刺客を送らないのですか?」

「時が至れば、もちろん仕掛けます。それが今ではなかったというだけのこと」


 答えをそこで区切ったアクリュースは、快晴の冬空を見上げた。

 彼女は目を細めながら、虚空こくうに向けて締め括りの言葉を吐く。


「大戦前の、最後の大役は貴方に任せます」

「へっへ、もちろんですとも。事が成った暁には、その功績を是非お忘れなく」


 アクリュースからすると、既に戦後のプランまで頭に入っている。有為の人材を謀殺し過ぎれば、統治が回らないことも承知の上だ。


 そして、こと人材という観点で見れば、国盗り後の目標は大きく2つとなる。

 まずは旧体制に忠誠を誓っていて、かつ、脅威になり得る人間を排除することだ。


「さて、先ほど話題に挙がったことでもあります」

「む? 何か気がかりなことが?」


 忠義にあつい有能な貴族。このカテゴリの中で、どうにも評価が難しい男が一人いる。


 第一王子に様々な便宜を図り、近しいように見えていながらも、中央への興味を一切示していない地方貴族。彼女らの価値観では、変わり者に分類される子爵のことだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る