第百十二話 平穏な日々
アストリを迎え入れてから、更に2週間が経った。
屋敷の建て替え計画は順当に進み、マリーへの貴族教育とて順調に進んでいる。
「クレイン様ー! アスティちゃんも、こっちこっち!」
捕虜の返還を除いた処理も一段落した頃であり、風雲急を告げるような事態は起きていないのだ。そのためクレインは久方ぶりの、何事もない平穏な日々を満喫していた。
「前を向かないと転ぶぞ?」
「子どもじゃないんだから大丈夫ですって。……それにしても、外出は久しぶりな気がしますね」
本日は視察という名目をつけて、三人で街中デートに出かけている。
これはマリーの発案ではあるが、要はお堅い講義で溜まったストレスを発散するために、クレインとアストリが買い物に付き合うという趣旨だ。
通りに並ぶ露店に向けて、笑顔で駆け寄るマリーを見たクレインは、軽い口調で後ろ姿をからかう。
「一通りの貴族教育を受けたら、もう少し落ち着くと思ったんだけどな」
「お淑やかにしてみますか? 街のみんなに夫人力を見せつけるのもまあ、やぶさかではありませんが」
連日の講義による反動で、むしろ普段よりもよほど元気に駆け回っている。軽快に動き回り、目当ての品を探す姿はまさに、平民そのものだった。
しかしクレインにとっては、その方が好ましいとすら思えている。
「そのままでいいよ。急に変わらない方が安心するから」
「ですよねー。クレイン様はこういう私に惚れたんですからねー」
「そうだな、そんな君が好きだよ」
臆面もなく言い返したクレインを前にして、マリーは何も言えなかった。気恥ずかしさを誤魔化すために、アストリに話を振るのが精々だ。
「信じられますか? この二股領主様、正妻の前で夫人を口説いたんですけど」
「そうですね……少し、配慮に欠けているかもしれませんね。どのように埋め合わせをしていただきましょうか」
捉え方によっては爆弾発言だったが、アストリもマリーに合わせて、会話に冗談を交える程度には馴染みつつあった。
しかしやり玉に挙がったクレインは、苦笑いをしながらアストリに言う。
「アスティ、乗らないでいいんだよ?」
「そうですか?」
以前までの流れであれば、彼らが打ち解けるまでには2ヵ月ほどかかり、愛称で呼ぶようになったのもそれなりに間が空いてからのことだ。
しかし話し好きのマリーが間に入ったことで、その期間が大幅に短縮されている。これも大きな変化かと思いながら、彼は馴染みすぎた弊害についても考えた。
「あまりに様変わりしていると、結婚式に来た伯爵が驚くかもしれないからさ」
「それは、むしろ見てみたいですね」
ヨトゥン伯爵は生粋の貴族らしく、公の場では礼節を重んじている。脇が甘いものの、動揺の隠し方はそれなりに学んでいるのだ。
娘を嫁に出したくないという強烈な思考のみが
その彼が、元気に駆け回るアストリを見て狼狽えること。確かにそれは見てみたいと――同意しかけたクレインは、すぐに想像を打ち消した。
「やめておこう。私の娘に何を教えたんだと、詰め寄られることになりそうだ」
「そこはもう使者の爺やさんから、散々言われたことじゃないです?」
アースガルド家の流儀は、名門貴族の常識からかけ離れている。そのためアストリが子爵家の雰囲気に合わせて行動すると、必然、クレインには小言が飛んできた。
「マリーの責任も大きいと思うんだけどなぁ」
「そうですかねぇ?」
例の使者は頭に血が上ると、無礼という概念が抜け落ちるきらいがある。
だが当のクレインとマリーは、「ああ、10年前のノルベルトを見ているようだ」と懐かしむ始末なので、彼は頭を抱えることになっていた。
その様を横で見ていたアストリは、今後もお説教が続きそうだと思いつつも、とぼけた顔をした二人に改めて宣言する。
「嫁入りした以上、私はアースガルド子爵家の人間です。お父様にも爺やにも、過度な干渉はさせないつもりでいますから」
子煩悩が過ぎることで、恥ずかしい思いをする場面なら何度かあった。クレインらが知らないところでも、繰り返し経験してきたことだろう。
アストリが拗ねた顔をしたことで、その辺りを察しながら、露店の果物商から差し入れられたリンゴを齧りつつマリーは言う。
「うーん。伯爵様まで似た感じなら、これは俗に言う嫁と姑の関係になりますか?」
「まあ、否定はできないな」
「そこまで過保護とは……噂からは何とも想像がつきにくいですねぇ」
ヨトゥン伯爵とは、建国以来続く名家の当主であり、立派な大貴族であり、飢饉の解決に多大な貢献をしてきた聖人である。
井戸端会議の話題になる範囲からでは、そんな人物像しか思いつかないのだ。
そして今世のマリーはヨトゥン伯爵と面識がないが、前世までの全てを振り返っても、お茶出しの際に顔を見たことがあるだけだった。
彼らの相性が合うかは分からないため、少なくとも貴族的な部分はクレインが間に入るつもりでいたが、この点では今やアストリの方が熱意を燃やしている。
「誰であれ、何であれ、異議や蔑みは許しませんよ。マリーさんも私の家族ですから」
「アスティちゃん、ほんと好き」
マリーはリンゴをクレインに手渡してから、熱烈なハグをした。彼女は顔を綻ばせながら、珍しく強い口調で断言したアストリに、天下の往来で臆面もなく引っ付く。
突然のことにアストリも恥じらいはしたが、この距離感にも順応した頃だ。しがみついてきたマリーの頭を撫でながら、感慨深そうに返答をした。
「ええ、その……私もです。マリーさんは姉のように思っています」
「どうだろう、どちらかと言えばマリーが妹に見えるけど」
「うるさいですね、このクレイン様は」
マリーはアストリの身体を更に抱き寄せると、唇を尖らせて抗議した。
この結託しましたと言わんばかりの態勢を前にしては、これ以上の追撃はできず、クレインも笑って話を流すのが精々だ。
さりとて結婚式では必ず顔を合わせるため、アストリとて事前に対策を教授するつもりではあった。
彼女は小首を傾げながら、実の父がどのような人物かを端的に言い表す。
「チャールズさんの言葉をお借りすれば、お父様は親ばかに分類されますね。私が弱点となりますので、間に入れば無礼は働かないはずです」
まずは率直な印象を告げたものの、これに対してクレインとマリーは、気まずそうな顔をするばかりだ。
「……クレイン様?」
「……不可抗力だよ」
アストリは融和を進めるために、家臣たちと面談を繰り返していた。
その他にも訓練中の武官を見舞うことがあれば、文官と内政策を推し進めることもあり、直言が叶う主要な家臣とは、日常的に言葉を交わすようになっている。
そこで問題になるのが、アースガルド家の家臣には平民が多いという部分だ。
特に、誰も彼もが暑苦しいランドルフ隊や、一歩間違えば山賊のグレアム隊は、お世辞にも行儀がいいとは言えない。そのためそちらには、事前に言い含めてあった。
「一応は全体に向けて、気を付けるように言ったんだけどな」
「予想外の方向からきましたねぇ」
まだ多感な時期である、アストリの教育に悪いことは口にしないこと。
これは平民部隊の間で徹底されており、実際に想定内の影響で留まっている。硬さが多少取れる程度であれば、歓迎できそうだと思っていたくらいだ。
しかし全く注意を払っていなかった方面。名門貴族家出身の放蕩息子から影響を受けていたと知り、クレインとマリーは顔を見合わせた。
「帰ってから、口が軽そうな貴族出身者にも念押ししておこうかな」
「それがいいと思いますけど、今はお買い物ですね」
本来の目的に立ち返ったマリーは、喜色満面の表情でクレインを見つめる。
それが何を言いたい顔かは分かりきっているので、彼も諦めたように両手を挙げた。
「勉強を頑張ったご褒美だから、予算は気にしないでいいよ」
「そうです、その言葉が聞きたかったんです。へへ、愛してますよ旦那様!」
「マリーは現金だなぁ」
彼女としては盛大にやるつもりだが、あくまで庶民感覚での話だ。
宝石商で大人買いをするわけでもなし。両手に余るほどの品物を買ったところで、子爵夫人の予算からすれば雀の涙だろうと、クレインは大喜びの妻を微笑ましく見ていた。
「そうです、アスティちゃんの洋服も一緒に選びましょう」
「私の服……ですか?」
アストリとて、豪華絢爛な服はもちろん着用しておらず、視察に回っても「上品」以外の感想を持たれない格好で過ごしてきた。
だがアースガルド領はヨトゥン領と比べて、北に位置しており標高も高い。そのためファッションの傾向が微妙に異なっているというのが、マリーの見立てだった。
「なるほどな。よし、いい機会だからアスティの分も買い揃えようか」
「……あの、あまり散財するのも、よろしくないのでは?」
服装とは最も分かりやすく帰属を表す要素だ。アストリが馴染む努力をしているのは分かっていたので、これはマリーなりの配慮でもあった。
一方でアストリは節制を促したが、これに関してはクレインも苦笑いするしかない。
「実は、散財していないのが問題なんだよ。個人予算が9割以上余っているんだ」
「なるほど、そうでしたか」
要はクレインが、アースガルド家が莫大な税収を上げるようになってからも、個人的な支出は皆無に等しいということだ。
アストリはもちろんのこと、マリーにもすぐに意図は通じた。
「使用人と似たような食事をしてますし、引きこもりだから夜会の服なんて要らないですし……絵画や壺も買いませんし、宝石にも興味なし。今にして思えば逆に不経済ですよね」
「勉強の成果が出ているようで何よりだよ」
つまり政策の費用と分けてある、クレインらの個人的な貯金が積み上がりすぎると、市中にも悪影響が出る。
領主が高級品を買うのは経済向上策の一つであり、放蕩経営にならない程度には、支出を増やさねばならなかった。
「そういえば、庭の温室を建てた時もそうでしたっけ?」
「ああ、そうだな。似たようなものだよ」
クレインは5年ほど前に、個人的な趣味と実益を兼ねた温室を建築した。
領内にガラス細工の技術がないため、技術習得を目的にしたバルガスと、畑弄りが趣味のハンスと共謀して、それなりの資金を投入したものだ。
しかし人生最大の個人的な出費も、お坊ちゃんの気まぐれで済む程度でしかない。
その時にもノルベルトからは、もっと使っていいと言われたのだったか。
今となっては遠い昔を懐かしみながら――クレインはふと思う。
「振り返る余裕があるのも、平和の証だな」
「なんです、それ?」
「将来が不安だと、未来のことしか考えられないからさ」
「ええまあ、確かに」
ラグナ侯爵家との同盟は既に確定したも同然であり、ここから覆ることはないと断言できるところにまできたのだ。
そのため今後の約1年間は、戦乱と無縁の生活が送れると知っているクレインは、明るい顔で通りの先を指した。
「じゃあ、まずは服を見ようか。ジル婆さんの店でいいんだろ?」
「領都で一番腕がいいですからね。ついでにトムさんが持ち帰った、交易品でも摘まみましょう」
行商人の家に向かい、その妻に服を仕立ててもらいながら、お土産のお菓子を食べよう。この発想が自然と出てくる辺り、マリーが貴族の思考になるのは、まだまだ先のことだろうか。
そんな考えを浮かべながら、クレインは賑やかな大通りをゆっくり歩いていった。
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