第百十一話 思い描いていた未来
「その、ですね」
クレインは応接室の扉の前で止まると、躊躇いがちに、アストリの背後に立つマリウスに視線を送る。
しかし彼は首を横に振り、早く扉を開けるべきだと催促した。
「私には既に、もう一人の妻がいるのですが……ええと……」
二人とも幸せにする。そう豪語してはみたものの、クレインにはここから先で、何がどう転ぶのかが全く分かっていない。
正しい言葉選びのシミュレートはいまいち上手くいかず、多くの商会長や貴族たちと渡り合った経験も生かせずに、視線を右往左往させていた。
そんな彼の姿をくすくすと笑ってから、アストリは言う。
「その件は既にお聞きしています。承知の上ですので、ご心配なさらず」
「……有難いです」
これで最大の関門となる、正妻からの許しは得られた。
形式上はこれで、何の問題もなくアースガルド一家が成り立つことになった。
気持ちの問題はこれからの日々でフォローしていくとして、クレインが想定しきれなかったのは、二人の顔合わせがどう進むかについてだ。
「クレイン様」
「分かってるよマリウス。急かさないでくれ」
どう仕切っていくかは、どう考えてもプランが立たなかった。
そのため彼が選んだ道は、出たとこ勝負という方針だ。
「で、では紹介します。幼馴染のマリーです。夫人です」
アストリは側室など当然のことという価値観から、抵抗なく受け入れた。
マリーもそれが当然だと理解はしている。
だが、口で何と言っても、実際にはどうなのか。
表面上は仲良くしていて、裏では嫌い合う関係にならないか。
自信の無さからクレインの思考が、ネガティブな方向でぐるぐると回る。
しかし時は待ってくれず、クレインの後に続いてアストリが入室した。
「初めまして、マリーと申します」
「アストリ・フォン・アルメル・ヨトゥンと申します」
ノルベルトからの再教育を受けたマリーの礼は、社交界に出しても一応は通じるものだ。
体裁は整っていると見て安堵したクレインだが、気分は戦場の真っただ中である。
――否、戦場ですらここまで緊張したことはなかった。
ここからどうなるかと固唾を飲んで見守っていると、マリウスは誰からも見えない角度から、クレインの背中を軽く叩いた。
クレイン様が場を取り持たなくて、どうするのですか。
暗にそう言われていると気付き、彼は着席を促した。
「それでですね。ええと、本日はお日柄もよく、出会いにはとても喜ばしい日で」
まるでマリーとアストリが結婚するかのような言い回しで、クレインはたどたどしく場を回そうとした。
ここにはもう新進気鋭の若手領主も、反乱を阻止せんとする王子の側近もいない。
今のクレインは容量が限界になっており、史上稀に見る歯切れの悪さを見せていた。
「くっ……ぷぷ」
「ふふっ」
壊れたブリキ細工のようになったクレインは、傍から見れば二股が発覚した浮気男のような姿だ。
しかしマリーは、クレインの新しい一面が見えて嬉しい反面、間抜けな姿に笑いが堪えきれずにいる。
一方のアストリも、可愛らしいものを見る目でクレインを見ていた。
「笑わないでください。真剣なんですから」
「ああ、そう言えば私とクレイン様で、互いに敬語を使うのは、初めてではありませんか?」
「そうなのですか?」
「ええ、普段は友人のような感覚で、会話をしておりますわ。おほほ」
アストリは相手が誰であろうと、敬語を使っておけば間違いないと教育されてきた。
使用人たちにも他家の人間にも敬語で接してきたため、周囲で砕けた言葉が使われている場面など見たことがない。
「それは……むしろ羨ましいかもしれません」
「羨ましいですか。初めて聞く感想ですね」
アストリは家族にも敬語を使っていたので、砕けた言葉で話せる相手はいなかった。
クレインやマリーとそうした会話ができるとすれば、それは特別なことであり、自分が新しい家族を作っていく実感が湧くことでもある。
「で、でしたら、その。私にもその通りに」
「いいんですか?」
「ええ、これからは家族になるのですから」
対するマリーからすると、お堅い敬語を使い続けるのは疲れることだ。
クレインに対しても敬語とタメ口の中間のような話し方なのだから、今後ずっとこの猫かぶりのような敬語を使うくらいなら、初手で障壁を壊してしまえという考えになった。
「ならアストリさんも、もっと気軽に話してください。これが交換条件です」
「それは……その」
タメ口を要求された深窓の令嬢は、禁断の果実を差し出された気分になった。
ヨトゥン伯爵家の使用人たちからは物申したい雰囲気が出ているが、これは輿入れ先の家中でのことだ。
うちのお嬢様に変なことを教えるつもりかと、口を挟みかけた懐刀をマリウスが制止している。
そんな水面下の暗闘を繰り広げる横で、アストリは決心した。
「わ、分かりました。できる限り気安く接するように努めます」
「努める時点で堅いですよ。もっと自由にしていいですからね?」
クレインはマリーのことを、10年以上横で見てきたのだ。アストリとも夫婦として共に過ごしていたため、彼女らが本音で打ち解けようとしているのは分かった。
しかしこれで一件落着かと思いきや、マリーはもう一つ付け加えた。
これは彼女にとっては大事なことだ。
「あ、努めるという部分では提案があります」
「何でしょうか?」
「貴族的な部分には不慣れなので、政治とか外交の方は……アストリさんに任せてもいいですか?」
マリーがさらっと願い出た内容は、アストリにとっては当たり前のものだ。資金管理や手紙での外交を担うのは夫人の役目であり、現に妻がアストリ1人だった頃は彼女が全て担当していた。
「ええ、構いません」
「やたっ!」
返答を聞いたマリーは、付け焼刃のお淑やかさが吹き飛んでいき、両手を合わせて飛び跳ねた。
だが冷静になってきたクレインは、彼女が何をしようとしているのかを察したため、間髪を入れずに尋ねる。
「それで、マリーは何を担当するんだ?」
「え?」
業務を正妻に任せた分だけ、マリーの時間が浮く。
内政と外交を丸投げした場合は、1日のほとんどを余暇の時間として使えることになるのだ。
これからはメイドの仕事をしなくてもよくなるのだから、貴族の妻としての仕事をしないのであれば、何をして過ごすつもりなのか。ということだった。
「それは……そうですね、癒し担当?」
「君たちは傍にいるだけでも俺の癒しになるから、それとは別の仕事の話なんだが」
「まあ」
「うっ」
この殺伐としたループ生活の中で、彼女たちがいるだけで救われるのはその通りだ。ストレートに言われたアストリは感嘆して、マリーは言葉に詰まった。
しかし私生活や結婚生活の充実も重要だが、実務となればクレインは鬼になる。
「アストリさん、マリーにも仕事を教えてもらっていいかな?」
「ええ、構いませんよ」
「ええー……」
仕事の難度が上がるマリーは後ろ向きだが、一緒に作業をして仲良くなれると思ったアストリは、輝かんばかりの笑顔で言う。
「一緒に頑張りましょうね」
「……はい、ほどほどに」
英才教育を受けた貴族のお嬢様に、全てを何とかしてもらう算段は水泡と帰したのだ。
壮大なサボり計画が失敗して凹むマリーを見て、クレインとアストリは微笑ましい顔をしていた。
「ともあれ、我が家はこんな家風です。結婚生活で慣れないことは多いと思いますが、気楽にいきましょう。時間ならいくらでもありますから」
「そうですね、承知しました」
「んー、まだまだお堅いですねぇ」
予想よりも和やかな雰囲気で終われたため、クレインとしては一安心だ。
これからはこの団欒が日常になるのだと噛みしめながら、彼は受け入れの用意に立ち返った。
「それで――」
「子爵、お話がございます」
「あ」
羽目を外し過ぎないようにと、使者から釘を刺される場面がありつつも、これでクレインが思い描いていた未来は形になった。
あとは戦乱期を切り抜けて、この幸福を守り抜くだけだと、彼はまた一つ決意を新たにする。
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