第百十三話 イメージチェンジ
「うーん、どれを着せても似合いますねぇ」
「そうだな。一通り買ってもよさそうだ」
仕立屋の隅に置かれたテーブルでクッキーをつまみながら、マリーはしみじみと呟いた。
横に座るクレインも同意したが、しかし店主の老婆は腰に手を当てて、呆れたようにぼやく。
「伯爵家のお嬢様を、着せ替え人形にするもんじゃないよ」
「まあこれからは身内ですし? それに私も、子爵家のお嬢様ですし?」
「マリーがお嬢様ってガラかね」
狭い社会なので、近隣の住民はほとんど顔見知りだ。夫である行商人のトム共々、服飾店のジル婆さんも幼少期からマリーを知っている。
成人してから多少は落ち着いたとは言っても、彼女からすると目前の子爵夫人は、目端の利く
「まあまあ、本人も楽しんでいると思うからさ」
「坊ちゃんも坊ちゃんだよ。天下の南伯様の愛娘に、変なことを教えてないだろうね」
生き死にに直結する食糧問題を解決してくれる存在なのだから、やはり領民から見たヨトゥン伯爵家への評判は高い。
買い物に連れ回すことは、無礼に当たらないか。その心配は尤もであり、家臣が変な言葉を教えていたことも事実なので、クレインは苦笑いするしかなかった。
「そこはまあ……融和ってことで」
「小難しい言葉で、婆さんを煙に巻くつもりかい。変な知恵ばかりつけてからに」
「生活水準の向上には、十分に役立っていると思うけどな」
覇気のなかったクレインが、立派な領主になったこと自体は誰もが認めている。彼が学んできたことが、領地の発展に役立ったことも同様だ。
しかし立派な大人になったかと言えば、そこには疑問が残った。
溜息を吐きながら、ジルはしかめっ面をして言う。
「坊ちゃんには賭博の癖がついたようだからね。マリーのお行儀のことも含めて、そろそろノルベルトのやつにも小言を言っておこうじゃないか」
「いやいや、勘弁してよジル婆」
「これ以上のお勉強は嫌ですー……」
先代の子爵夫婦は穏やかな性格をしていたが、良家の人間らしく、落ち着いていたという意味では大人だった。
そしてクレインは両親に似たばかりか、そこに輪をかけてのんびり屋だったのだ。
――だが彼は、ある日を境にして人が変わり、唐突な大規模改革に打って出た。
今にして振り返ってみても、結果論で言えばどれも大当たりではある。だが過程だけを切り取れば、まるで意味が分からない施策も少なくはなかった。
だからこの雑談の最中にふと、クレインは反省点を思い浮かべる。
「なるほど。俺の決定を客観的に見たら、博打にしか見えないか」
冷害が起きなければ財政難確定の農業政策であったり、融資の取り付けに失敗すれば破産確定の鉱山開発などが、その最たるものだ。
答えから逆算した結果、最適解かつ滅茶苦茶な策を打ってきた自覚は、流石にある。
何気なく出てきた苦言ではあるが、こうした古株や長老衆からの小言の中にこそ、市井で語られる本音や問題点が表れるのだろう。
そう捉えたクレインは、一領民である老婆の発言を至極真面目に分析した。
「家臣と民間――いや、家臣の間でも情報格差があるな。地方と領都の間ではもっとだ」
一般の領民や現場職員は、政策への理解が追い付かない以前に、そもそも何も聞かされていないことが多い。
そうして不透明な部分が増えるほど、噂や憶測が広まりやすくなるのだ。
改善せずに放置しておけば、いつか「領主はギャンブル狂い」という風聞が出回りかねず、その評価が民衆に定着すると、不要なトラブルを引き起こすことも想像に難くなかった。
「ということは、ここはハンスの出番か?」
成功して結果を出せば、多少の問題には目を瞑ってもらえるだろう。しかし各所からの不満を残さないためには、過程の周知とて
この点で東伯戦後のハンスには、騒動防止のために吟遊詩人をやらせていたが、今では新規に囲った人材で広報部隊を組織できるほど、十分に頭数が揃っている。
しかし指揮官を任せられる人間はまだ見つかっていないため、内向きの広報隊を組織するならば、必然的にハンスが責任者を続投という考えになる。
「坊ちゃんにだって何かしらの確信があって動いたんだろうけどね、そろそろ地に足つけたらどうだい。いつかは子どもだって生まれるだろうに」
「そこもまあ……いずれ、かな」
「えへへ。やだもう、まだ早いですよ」
続く言葉にしても、マリーは近所のお婆さんがからかってきた程度にしか思っていなかった。
だが跡継ぎ問題は貴族に付き物であり、いずれ子が生まれてくることも、過去の歴史が証明している。
「というかジルさん。この奥手なクレイン様が、そうそう手を出してくると思いますか?」
「ああ、まあ……マリーも大変だねぇ」
ここまで突っ込んでくる領民は少ないが、子が親の背中を見て育つのはその通りだ。そしてクレインが時を遡れているのは、第一王女のアクリュースが発動した禁術を、乗っ取ったからに過ぎない。
この能力が子に遺伝するなどとは考えておらず、むしろこの力を多用せざるを得ない、過酷な運命を自分の子に背負わせるなど、想像したくもなかった。
「まだまだ子どもの坊ちゃんに言うのも、なんだけどねぇ。その辺りもきちんと考えておきよ」
「分かってるって」
恋仲になってから2年も経てば、子を授かるだろう。そのためクレイン個人としては、跡継ぎ問題そのものに不安は抱いていない。
しかし親としてやっていけるかと問われれば、頷けるはずがなかった。息子や娘が自分のやり方を踏襲した場合に、どうなるかは分かり切っているからだ。
「まあ確かに、俺の政策は真似させられないな」
「そうしておくれ。安心して余生を過ごしたいからね」
しかし今考えても仕方のないことではあるため、それは戦乱を切り抜けた先々で考えようと、クレインは頭を切り替える。
その直後に試着室のカーテンが開いて、服の端を摘まんだアストリがおずおずと出てきた。
「あ、あの、着ました」
「わっ、これもいいですね! お買い上げで!」
「片っ端から大人買いとは、また豪勢だねぇ」
今の彼女はまず、白シャツの上から黒のベストを羽織っている。そして普段よりもやや短い真っ赤なスカートは、下端にフリルが付いた幅広のものだ。
長い銀髪は赤のリボンでまとめているため、首元も開放的になっており、足元はふくらはぎ近くまで覆うブーツを履いている。
つまり総じて、普段とは全く違う系統のため、慣れない服装で気恥ずかしくなっていた。
一方でマリーとしては大満足であり、購入予定の山には即座に物品が追加されていく。
「ジル婆も、多少は無駄遣いしてくれよ? 一応はそういう政策だから」
「プレゼントにごちゃごちゃと理由を付けるんじゃないよ。いつまでヘタレなんだいこの坊ちゃんは」
「あはは……」
貴族の中でも大物になってきたクレインだが、田舎の年功序列には勝てない。
下手に抗おうとすると、過去の失敗談を持ち出されるのだから、彼は黙って代金を支払うだけだ。
「さて、それはさておき、そろそろ昼にしないか?」
「いいですね。せっかくだから、映えそうなカフェテラスに行きましょう!」
「え? この服装で、往来の目立つ場所で……食事を?」
いくら似合っていると太鼓判を押されても、アストリ本人からすると違和感がある。そして街中の飲食店にふらりと立ち寄ったことはなく、テラス席になど座ったこともない。
怒涛のような初めての連続に、アストリは戸惑い始めるが、マリーは両肩を掴み説得にかかった。
「こんなに綺麗なんですから自慢しにいきましょうよ。これからの領都の流行は、アスティちゃんが作るんです!」
「いえ、あの、ええと……」
適度に顔を見せて、領民に子爵夫人のお披露目をしておくのが上策。そうお題目を語るマリーだが、要はイメージチェンジした女友達とデートをしたいという、そんな目的での誘いだった。
やれやれと首を振りながら、先に店を出たクレインは、店外で待機していたマリウスたちに移動の旨を伝えてから、活気づいた通りを何気なく眺める。
「本当に平和だな。今日もいい天気だ」
ここ数日だけで何度も味わった実感を噛みしめながら、通りかかる人並と馬車を、見送り続けて数十秒。
やがて通りの先から、街中にしては早足の騎馬がやってきた。
「……ん?」
騎乗した騎士はクレイン一行を発見するや、真っすぐに馬を進めてくる。
護衛たちは前方から来た戦闘要員に警戒を強めたが、しかしマリウスですら一瞬で表情を緩めて、警戒も即座に霧散していった。
反対にクレインの表情は、どんどん硬くなっていく。
それと同時に冷や汗をかくような、えも知れぬ、嫌な予感が彼の胸を貫いた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「え、あれ?」
見慣れた青い騎士服を着用した姿は、記憶とまるで変わらなかった。むしろこの姿が自然すぎて、がらりと系統を変えた服装は想像できそうにない。
そんな現実逃避の思考を浮かべつつ、クレインは恐る恐る確認した。
「ブリュンヒルデ?」
前触れもなく訪れたのは、かつて最も多くクレインの命を奪い去った、微笑みを浮かべた死神こと――近衛騎士のブリュンヒルデ・フォン・シグルーンだ。
「ご無沙汰しております、クレイン様」
「ええと……あれ?」
安寧と平穏を享受していた近頃のクレインは、心情穏やかなままに過ごしてきた。
だが、晴れ晴れとしていた彼の心に、突如として暗雲が立ち込める。
北部に向かったはずの彼女が、どうして急に現れたのか。
今度は一体何が待ち構えているのかと、彼は内心で戦々恐々としたが――この瞬間には既に――最低でも数日くらいは、やり直す覚悟を固めきっていた。
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