第百三十五話 説教と制裁
「どうだ。どれだけ言葉を重ねるよりも、こちらの方が早いだろう」
唐突に殴られたクレインは戸惑っていた。
彼は尻餅をついたまま、目を丸くしてアレスを見上げる。
しかしその様を見たアレスは、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「普通は危害を加えられた瞬間に、
クレインは情報が得られるならば、試しに殺されてみてもいいか――という考えをしている。
常人からかけ離れた感性をしているが、今回の諜報作戦によって、その傾向がより強くなった。
しかし顔面を殴打されて、椅子から転げ落ちて、その後も冷静に会話が続いている状態。
これが正しくない流れであることは、クレインにも理解できた。
「なるほどな。まあ、それもそうか」
「何を納得している。貴様は何も、分かってはおらぬ」
言いながら胸ぐらを掴み、アレスはもう一度クレインの頬を張る。
それでもクレインは、殴られたことに怒りを抱かず、状況を冷静に分析するのみだ。
やり返すことがなければ、言い返すこともない。
「要は事象を理解したところで、当事者意識が無いのだろう。だからやり過ぎだと言うのだ」
自分の行動を、客観的に評価できないことが弱点――とはクレインも自覚していた。
だが皮肉なことに、今では誰よりも客観視ができるようになっている。
それは主観が消えるほどの変化だ。どう考えても極端でしかない。
そしてアレスからすると、その
「かつて定めた、生存戦略の方針とやら。それを今一度、唱えてみせろ」
「俺の方針? それは、領地を守って、領民を守って――」
「貴様が死なず、生き残るのだろうが」
どのような政策であれ、どのような作戦であれ、最終的には平和を勝ち取り、その三本柱を成立させるための行動だったはずだ。
自分の命は、今や時間を巻き戻すための道具――消耗品としか見ていないのだから、当然のことだ。
この時点で初期目標からは大きく離れている。
全てが終わった後でも、平気で命を投げ捨てそうだという
「どうして
己を見失い暴走している姿。それはアレスにとって、身につまされる有様だ。
だからこそより一層の、呆れと怒りを抱いていた。
「私を正気に戻すため拳を振るった男が、自ら狂気の道に落ちただと? 一体、何の冗談だこれは」
「返す言葉も無いな」
アレスは暗殺への恐怖と、周囲への疑心暗鬼で狂ってしまった。
クレインは身内を殺された怒りと、度重なる死の過程で狂ってしまった。
要素は違えど大枠は同じだ。
だからこの状況は、かつての焼き直しか。それとも意趣返しか。
そんな考えを浮かべたクレインの胸ぐらを掴み、身を引き起こしながらアレスは言う。
「貴様の落ち度は、どこにあったと思う」
「少し疲れただけで、失敗はしていないよ。間違いと呼べるものは何も……」
「いいや、明確にある」
ひたすらに自害を続けて、心を摩耗させたこと。
それは自損を厭わない、
「言いたいのは、非効率な作戦を採ったことについてか」
「それ以前の問題だ。貴様は初手で間違えた」
情報は十分に取れた。だからクレインは、手段の
効率と非効率という話なら分かるが、正解や不正解の問題と言われても、すぐに思い当たらなかった。
「この選択に、模範解答があったとでも?」
「ああ。分からないのなら教えてやる」
しかしアレスが着目したのは、計画そのものではなく、計画を立てるプロセスの方だ。
一連の行動を失敗だと言い切った上で、彼は何が間違っていたのかを宣告する。
「困難を抱えたときは、誰かに助力を求めるものだろう」
「……え?」
それは身分や立場など関係なく、誰でも取るはずの行動だ。
いかにも普通で、当たり前のことだった。
しかしクレインは、「時間を戻せる前提」で物事を考える。
その秘密は他人に明かせないため、一人で考え込むことが習慣化していた。
「孤独に戦い続ければ、遠からず心が壊れるぞ」
どんなときも、悩みの詳細を人に相談できなかったが――全ての事情を知っている――何でも話せる相手なら、確かに今、目の前にいる。
否、アレスは暗殺事件の当時でもアースガルド邸に滞在していたのだから、相談しようと思えば、いくらでも打ち合わせの時間を取れたはずだった。
「視野を狭めすぎだ、愚か者が」
一切何も報せてこなかったのだから、アレスとしては面白くない。
詰まるところ今回の話は、クレインの行動が気に入る、気に入らないという――アレスの主観に基づいた話だ。
「一人で解決する必要が、どこにある。……何故、自らが動く以外の手を取らなかった」
何も言わずに自傷的な行動を選び、茨の道を一人で行ったこと。それが気に入らない。
だからアレスは、もう一度クレインの頬を殴り抜き、そして伝える。
「助けてやるから、私の手を取れ」
クレインは復讐心に囚われて、目前の敵しか見えていなかった。
横や後ろにいる味方の存在は、一律で守るべき対象だと思っていた。
そんな考えが透けていたからこそ、アレスは激怒したのだ。
彼は思いの丈を一方的にぶちまけた末。口の端から血を流したクレインの眼前に、右手を伸ばす。
「
握手を求めるように。または倒れた相手を引き起こすように。
手を差し伸べながら、彼は
「それが、友情というものだろう?」
アレスは反応が鈍いクレインの手を取り、強引に引き起こしてから、元のソファーに突き飛ばした。
対座にドカリと腰を下ろしたアレスは、仏頂面のまま紅茶を
「貴様は全知全能の存在ではない。たまたま強大な能力を手に入れただけの、凡人だという事実を心に刻め」
初期の話を聞く限り、本来のクレインは平凡もいいところだった。
失敗しながら学んできているが、未だに完成とはほど遠い。
未来が読めることと、完璧な対応が打てることは別だと前置いた上で、アレスは再度、念を押す。
「いいか、貴様は
「……分かったよ」
「本当に理解したか?」
「ああ、もう殴られたくないからな」
クレインは怒るどころか、笑っていた。
謁見時とは、何から何まで正反対の結末ではあるが、彼らの中ではこの拳で決着だ。
冗談が言えるようになったのなら、とりあえずはこれでよし。
そう判断したアレスは、もう一歩話を進めた。
「では改めて、ここからが本題だが……。陰湿な嫌がらせは私の得意分野だ」
次なる話の取っ掛かりは、彼らの間でだけ通じるブラックジョークだった。
昔のことを引き合いに出して、アレスは堂々と言う。
「過去の私から散々食らったはずだな。性格が悪い策の数々を」
「自分で言うのか、それを」
身に覚えがあり過ぎて、クレインは自然と頷いてしまった。
思えばブリュンヒルデを始めとした、周囲の手勢を送り込み、アースガルド家の領地運営を補助するという名目で、監視体制を敷いたことがあった。
王子の庇護を受けているという立場以前に、クレインはこの派遣で多大な利益を受け取っていたので、この監視に一切の意見を出せていない。
ヘルメス商会を送り込んだ件とて、クレインが使える人材か見極めると同時に、厄介ごとを分散させる意図での行動だ。
政商と絡ませた以上、アースガルド家にも政治的なキャパシティを割かせることができる。
クレインが上手く立ち回り、商業面でも北部と対立して、牽制になれば最高だった。
「支離滅裂な思考の中、適当に考えただけで
もちろん銀山からの資金もいただく。
それとは別に、クレインの
不利益を生めばブリュンヒルデが即座に動くため、どう転ぼうともアレスだけが、一方的に利益を得られたということだ。
「適度に恩恵を与えて反論を抑えつつ、その実、害を与えて利益を絞り尽くす――そんな企みをさせれば、私の右に出る者はいない」
ラグナ侯爵家に対抗する勢力を増やすために、裏工作も行っていた。
支援要請という名の命令を受けたクレインは、人を送れない分だけ金を積んだが、ここにも新参者に力を持たせすぎないようにと、派閥内のパワーバランスを調整する意図があった。
そして味方がゼロの状態から募兵を始めたアレスは、わずか2年という短期間で、最低限の勢力構築に成功していたのだ。
気が狂い、まともな思考プロセスを放棄していたはずの廃人が――敵への妨害と、味方への牽制という――謀略だけは完璧に実行していたということだ。
その
「私に任せれば、かつて与えた苦難と心労を、敵陣営にも与えてやる。……その効果は他の誰でもない、貴様自身のお墨付きだろう?」
「今さらだけど、アレスが
「同感だな」
過去の諸々を思い返せば、クレインは苦笑するしかない。
しかし、それを受けたアレスの反応はと言えば、冷ややかなものだった。
「無能を王に据えるなどと、考えるだに
「……そうじゃないんだが」
「知っている。ただの
無論、アレスにできることにも限りがある。
これは頼ってもいい分野を伝えるためのアピールだった。
「さて、
クレインからすれば、謁見後にアレスを襲撃したという認識に近い。
だから
やられて初めて分かることもあるか――と、相変わらず達観した考えは抜けきらないまでも、冗談めかして笑いながら、彼は尋ねる。
「言ったからには、最後まで手伝ってくれるんだろ?」
「今回はこのまま請け負うが、次に同じ真似をしたときは覚悟しておけ」
「はいはい。俺たちは友達だから、遠慮はしないよ」
「……それでいい」
アレスは口の端を吊り上げて、薄く笑った。
その後、机に両手を突いて彼は言う。
「過程の是非がどうであれ、集めた情報は使い切るぞ。伯爵家との会談は明日に延期して、まずは地図を持ってこい」
ここまでに聞いた概略と、今の自分が持っている情報だけでも、プランは浮かんでいる。
しかし具体的に考えるためにも、更なる話し合いは必要だった。
「どのタイミングで仕掛けるか。どこにどれだけの力を割き、どの程度の被害を与えるか。私も検討してみよう」
要は、誰をどう破滅させていくかだ。
制裁案を考えるアレスの顔は邪悪に歪み、一方のクレインはと言えば――
「そうだな。誰よりも向いていそうだもんな、こういうの」
「ほざけ。冗談を言っている暇があるのなら、必死で集めた情報とやらを、資料にでもまとめていろ」
適材適所の重要性。最初期に学んだ人生訓を、改めて思い返しながら――また笑った。
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次回の更新は6/8(土)を予定しています。
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