第十六話 有能な部下と会合への一手
「東地区の決裁書を渡してくれ」
「どうぞ、閣下」
大して豪華でもないが質素でもない、クレインの執務室。
今、ここには二人の男女がいたのだが――言うまでもなく領主と微笑み騎士だ。
「ありがとう。鉱山の陳情書は処理したかな?」
「ええ、そちらは対処済みです」
クレインとブリュンヒルデは二人がかりで決裁書類を回していた。
しかし以前はブリュンヒルデの方が圧倒的に処理が速かったものの、今ではクレインの方が速いくらいで執務は進んでいる。
それもそのはず、大半の政策は一度やったことがあるものだ。
タイトルだけ見て決裁ができるような離れ業まで見せているのだから、負けるはずがなかった。
以前までと比べて、仕事の許容量にはかなりの余裕がある。
「そう言えばブリュンヒルデ。手際がいいけど、騎士団では事務方だったのか?」
「いえ、閣下。私の本職は殿下の護衛――のようなものです」
「……そうか」
彼女が凄腕の暗殺者なことを、クレインは知っている。
が、
しかしそれでも、彼女のことを何も知らないまま進めるわけにはいかない。
殺された衝撃というか、殺させた衝撃が強く。
クレインとしては前々回のような結末を避けるために、コミュニケーションの頻度は増やしていこうと思っていた。
「まあいい、午前中の仕事はこれで最後にしよう。少し茶でも飲まないか」
その第一歩が、食事や休憩に同席させる時間を増やすことだ。
詳しい身の上まで聞く前に、まずは友好関係の構築から始めていた。
そして、そもそも本人を相手にどこまで聞いていいかも分からないので、ピーターが仕官していくらか経った頃に動く予定でいる。
今は前準備の時だと、クレインは割り切っていた。
「よろしいのですか?」
「早めに終わったんだから、それくらいはいいだろ? 早摘みだけど手製の茶葉があるんだ」
彼はブリュンヒルデを、今度こそまっとうな秘書官として扱っていた。
暗殺の指令が届いていなければ、ただの有能な部下だ。
「では、ご相伴に与ります」
手綱の握り方さえ間違わなければ、脅威も無いだろう。
そう判断して、彼はブリュンヒルデを茶に誘う。
「……いや、マリーも誘っておくか」
しかし、王都から来た美しい女性騎士。
しかも仕事ができるバリバリのキャリアウーマンということで、マリーなどは彼女に憧れの目を向けている。
そうと知っているだけに、ここで配慮を一つ挟んだ。
「何かございましたか?」
「いや、気にしないでくれ」
変に浮気を疑われるのは勘弁だと、お茶会にマリーも誘うことを決めつつ。
クレインは執務室がある二階から、一階のテラスを目指す。
「すまない。テラスにマリーを呼んでくれないか」
「畏まりました、クレイン様」
途中で使用人に声を掛けてマリーを呼びつつ、彼は廊下をゆったりと歩く。
一日の大半で行動を共にしているが、彼も暗殺を気にしなくていいだけで、これほど気が楽になるとは思っていなかった。
発展したと言っても田舎のアースガルド領では、重要拠点や屋敷の周りを余所者がうろついていればすぐに見つかる。
身内の裏切りを除けば、暗殺への警戒はそれほどしなくてよかった。
「アレス王子も同じだったのかな」
「殿下が、何か?」
「いや、四六時中暗殺を警戒していると疲れそうだな……という話さ」
いつ殺してくるか分からないブリュンヒルデの圧力に耐え兼ねて、この時期から胃薬と友達になっていたクレイン。
彼はその不安が解消されるだけで、何だか疲れにくくなった気さえしていた。
「まあ、殿下の周りから忠誠心が怪しいやつを引き抜いたんだ。多分問題は起きないだろうけど」
「左様でございますね」
その話はブリュンヒルデにもしてあり、いくつかの打ち合わせは既に済んでいる。
彼女へ時渡りのことは詳しく説明していないが、そこへ何と切り込むかは考え中でもある。
「しかし、そう言えばそろそろか」
「何かご予定が?」
「明日の午後に会合があったなと」
暗殺という単語で思い出した事件。
暗殺対策が必要となったのは、主にアレスの命令を受けたブリュンヒルデ関連か。
それか翌日の午後にある会合の席、そこで毒入りワインを見破るくらいだ。
事件への対策は万全に打っていたが、そろそろ本番の時期となる。
「ええ、昼は商会長たちとの会食となります。街のレストランで、正午に待ち合わせです」
「そうだな……仕上げをしないと」
まず、事件解決の鍵となる銀食器は既に用意してある。
技術者集団を紹介してくれと、再びお願いに来られたヨトゥン伯爵家側は少し驚いていたが、特に条件を吊り上げることなくこれに応じた。
いずれ義理の実家となるし、それはクレインの中で確定事項だ。
だからここでは、遠慮なく義父の力を使っている。
「当日はいくつか頼みたいことがある。詳しくはテラスで話すよ」
「承知致しました。閣下」
頼み事ついでに、新しい作戦の一環として南伯が所有する横帆船を、東へ向けた航海に出していた。
これにも南伯は戸惑っていたが、船の借用にかかる金額自体は大したことはない。
未踏の大森林を南に抜ける道も既に確保した。というか、ハンスにやらせた。
何はともあれ、全部の対策案が問題無く通ったのだ。
あとはブリュンヒルデに計画のあらましを伝えて、下準備は終わりとなる。
「クレイン様ー、どうされました?」
「ああ、マリー。ブリュンヒルデと一緒に休憩するんだけど、一緒に茶でもどうだ?」
「ふふん、領主命令では仕方ありません。茶菓子を持って来ましょう」
廊下の向こうから現れたマリーはそのまま通り過ぎていき、流れるように厨房へ向かった。
子爵家当主を前に、随分と軽い所作だ。
それを見て小首を傾げたブリュンヒルデは、不思議そうな顔をしたまま言う。
「アースガルド家の方々は、本当に仲がよろしいですね」
「王宮から見れば緩いだろうけど、早く慣れてくれ」
「……はい、閣下」
「閣下も硬い。クレインでいいよ」
距離を置くために敬称で呼ぶことを許していたが、今となっては堅苦しいだけだ。
呼び方がよそよそしいことも、コミュニケーション失敗の一員かと思い、クレインは呼び名の訂正を求めた。
一方のブリュンヒルデは少し間を空けたものの、やはり、いつもと変わらず微笑みながら彼の名を呼ぶ。
「承知致しました、クレイン様」
「よし。じゃあ茶を飲みながら、会議の席で何をやるか説明しておこう」
彼女も味方に付けるなら、まずはこの辺りから始めてみようか。
人間関係は何が正解かが分かりにくいが、この対応で間違ってはいないはずだと、クレインは外を眺めながら思っていた。
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