第七十六話 決意を新たに
「よし、周辺の足場固めは終わった。基盤はできたな」
「はい、クレイン様」
時期は春を通り過ぎて、2年目の夏を迎えた。
クレインはブリュンヒルデが整理した報告書を読んでいくが、どこも順調だ。
まず、1年前から始めた新農具の普及は順調に進み、編入した領地へも順次配備が進んでいる。
この点では、今までよりも多めに人を呼び込んだので、消費される食料は増えていた。
しかし初期に大量の作物を輸入したことと、新型農具の早期配備ができたことで、生産高が若干でも向上したことから――そこまで苦労しているわけでもない。
「戦争の被害を抑えたから、新領地は既に安定してきている。これなら再来年くらいには他の地域と同じ水準になるな」
「現地の担当から上がった報告書を見る限りでは、そのようですね」
3年間ほぼ無税という政策を実行した結果、荒れ果てた北部地域も再建が進んでいる。
新規開拓は全て中止して、既存の畑の保守に力を注いだ結果だ。
「武官組も残党をあらかた掃討したか。思ったよりも抵抗は少なかったようだ」
「生き残った領主たちが、いい働きをしてくれましたからね」
いい働きとは、新体制
とは言え公開処刑したわけではない。
不当な重税を課していたことを、各村へ謝罪に回らせただけだ。
「石を投げられたり、罵声を浴びせられたり、酷い目には遭ったみたいだけどな」
「
平民に落ちた元貴族の末路を見た、周辺の土豪たちはいくらか大人しくなった。
諦めて子爵家に従うところも増えて、治安の回復は過去よりさらに早く進んでいる。
「ああ、最北部の準男爵は脱走して、反乱を起こそうとしたんだったか」
「グレアム隊が鎮圧しました。問題は何も起きていません」
「なら良し」
反乱を企てれば、不穏分子を一網打尽にできて良い。その考えを基に生かした面はある。
この期に及んで反抗するなら、討伐の大義名分になるからだ。
しかし3人のうち2人は完全に心が折れていたので、体制が変わったことの宣伝に使ってからは、年金を支払う約束で場末に住ませている。
「子爵家の統治に移った。その宣伝は終わったし、治安が回復した地域には文官の送り込みも順調と」
過去には、「自分たちが領主に返り咲いたから反乱に協力しろ」という名目で反乱を煽る、小貴族の縁者もいた。
だが、没落させた当主を引き回した結果、そんな風説は一切流れなくなっている。
治安も回復できたので、志願した文官は順次、大きな街から順に送り出していた。
「数字を弄るような奴がいれば
「お任せ下さい」
政治が腐っているエリアだと二重帳簿はお手の物なので、書類だけを信じると痛い目に遭う。
しかし怪しい動きをする人物などクレインからは分かり切っているので、そういった手合いにはマリウスとブリュンヒルデが指揮を執り、諜報部が徹底的にマークしている。
そこに加えて、レスターを中心とした王宮からの応援組が監査役として派遣されていた。
既に摘発も何件か行われており、再建のペースを乱すような輩は即排除の流れとなっている。
「で、地方の統治を任せて役職を用意し切ったと思えば、春先からまた仕官志望が微増しているのか」
「追加の紹介状が届いています。後ほどご確認ください」
「分かった。この書類を仕上げたら読むよ」
不景気では、地方の監督を任される程度の仕事に就くのも簡単ではない。だから
子爵領の好景気は向こう5年は続くだろうし、その後も安泰に見えるからだ。
今のうちに仕官させておけば、将来は安泰。
そんな世知辛い考えをする者は多かった。
「となれば次は、旗印の殿下と歩調を合わせていきたいんだが……。王都の動静はどうなっている?」
クレインの領地は現時点で人口8万5千人ほどとなり、最大兵力は9000を数えるようになった。
しかし東伯、東侯の動員可能兵力は未だに未知数だ。
有能な政治家になったアレスが、何か過去と違う動きをしていないか。
確認してみると、ブリュンヒルデは今朝がた受け取った密書をクレインに手渡す。
「選定しながら進めているため、集まりはそれほど良くありません。しかしお味方は着実に増えているようです」
「そうか、それならいいんだ」
トレックたちだけでなく、アースガルド領へ古くから出入りしている商人たちも定期的にラグナ侯爵家の黒い噂を持ってくるようになっていた。
しかし頭脳労働ができそうな幹部には真相を伝えてあるし、ヘルメス商会が大打撃を受けたからなのか、圧倒的に悪評の数は少ない。
クレインはこれを、良い変化と受け取った。
「よし、では最大の懸念へ対処しよう」
「懸念ですか?」
「ああ。殿下の暗殺が画策されているんだ」
アースガルド領が発展した場合、アレスは殺害される。
今はまだ7月だが、12月の後半か、年明けには暗殺される見込みだ。
だから残された猶予は半年ほど。
しかし今回は暗殺者を送ってきそうな勢力が既に判明しているので、監視する対象はある程度絞れる。
「恐らく東側か、若しくはアクリュース王女の手の者だろうけど。起きる可能性は高い」
実行犯を雇うにせよ、手の者を使うにせよ、王子の暗殺を個人で行うのは無理だ。
クレインは中央貴族の中でも東と縁のある家か、第一王女アクリュースの派閥に属していた家が絡んでいると見ていた。
「……あの」
「どうした?」
唐突に主が暗殺される可能性があると知ったブリュンヒルデは、少しだけ驚いた顔をしている。
眉が少しだけ動き、目を軽く見開いたが――それだけだ。
彼女が大きく取り乱すことは無く、クレインに質問を投げかけた。
「そのような情報を、どこから?」
クレインが過去に聞いた話を統合するに、ブリュンヒルデは洗脳されていて、アレスに盲目的な忠義を向けていた。
死ぬ間際には、彼への忠節が心の拠り所になっているかのような発言もあった。
しかしクレインが思ったよりも、動揺していない。
そんな様子を見つつ、細部をぼかしてクレインは続ける。
「秘密だ。君にもマリウスにもね。……ただ、殿下はご承知の上とだけ言っておく」
「畏まりました。今は殿下の身の安全が第一ですね」
今は情報の出所を探るよりも、アレスの身を守るのが優先だ。
そう呟いたブリュンヒルデに向けて、クレインは命じる。
「秋になったら何人か手配するから、最悪の場合は殿下を王都から脱出させてほしい」
過去には人材不足で、送れたものは金だけだった。
しかし今回は余るほどの人材を抱えているので、アレスの援護に回す人員も出せる。
「連れて行きたい人間がいれば教えてくれ。先に言っておくと、領地を空けられないのはハンス、マリウス、ランドルフ、グレアム、ピーター、トレックの6人だ」
一度王都に送り出せば、いつ帰って来られるか分かったものではない。
だから東伯戦における各作戦の、主力メンバーだけは送り出すことができなかった。
「殿下から借りた人員も何人かは戻すし、うちからの随行員も10人は出せるかな」
過去にはアレスから帰還要請が出されており、レスター他数名の人員は強制的に王都へ帰還させられた。
しかし今回は東側に所属している裏切り者を子爵領に留め置くつもりなので、少しばかり人が減っている分の補填も兼ねて多めに設定するつもりだった。
そしてこの指示を聞いたブリュンヒルデは、少し思案をしてから、確実に連れて行きたい人間の名前を口に出す。
「であれば、ビクトール殿を。あのお方が動いてくだされば安心です」
「先生か。……動いてくれるかな」
小貴族連合戦では陣頭指揮を執っていたので、クレインとしては次回の東伯戦で、助言を貰う程度に留めようと思っていた。
働きたくないという希望が第一なので――今さら無いとは思うが――あまり酷使すると、教え子ごと離反する恐れがあるからだ。
「いや、分かった。承諾が得られたら同行をお願いしよう」
考えどころではあったが、ビクトールであれば臨機応変に動ける頭はある。
王都方面にも顔が広いので、連れて行けば何かの役には立つだろう。
そう判断したクレインは、候補に含めておくことにした。
「ありがとうございます」
「いいんだよ。ここで殿下がお隠れになったら、俺も困る」
今回の人生では真っ当な共闘関係を築いているので、死なれては本当に困る。
クレインはそんなことを思っていたが、ブリュンヒルデはいつも通りに微笑みながら言う。
「クレイン様は、あの短い間で殿下と打ち解けられたのですね」
「……んー、まあ、そういうことになるか」
振り返ればたった1日、数時間話しただけだ。
それも怒鳴り合い、殴り合いに発展した有様なので、言われてみれば何故友好関係を築けているのかはクレインにも分からない。
よほど味方がいなかったのだろうかと納得はしていたが、それにしても、不可解な面もある。
だからの会談の日のことは、逆にクレインが聞きたいくらいだった。
「不敬で処断されることを、恐れてはいないのですか?」
「その時は真っ先に、君が首を刎ねに来そうだな」
思えばもう長いこと、彼女に殺されていない。
クレインの主観で言えば、10年近くは殺されていないだろうか。
毎日のように殺されていた日々は、最早懐かしくすらあるが――それは絶対にいい思い出ではない。
それだけは確信しながら、クレインは冗談めかして笑っていた。
「……クレイン様」
「なんだ?」
クレインとアレスにしか分からない冗談に対して、ブリュンヒルデは少し切なげな微笑みを浮かべた。
そして彼女は、今までであれば、まず言いそうにない願いを口にする。
「私が貴方を殺す日が、来ないことを願っています」
ブリュンヒルデの本職が暗殺者だと、クレインが知っていること。
それ自体は彼女も、かなり前から気づいていた。
しかしその確認をしたことは無く、精々が裏方に携わらせて、諜報員として活用したことくらいしかない。
「それは……」
「……」
もちろん、クレインの主観で言えば何度も殺されているので、複雑なところはあった。
クレインは少し動揺しながら言葉を探したが、これに対する返答など決まっている。
「そうだな。そんな日は来ないよ」
「……この穏やかな日々が、続くといいですね」
穏やかな日々に戻りたい。
それはクレインが何よりも願うことだ。
しかしブリュンヒルデからすると、穏やかな日々とは今のことを言う。
子爵領に来てからは、人生で最も平穏な時を過ごせていた。
「なんてことはない。誰だって、争いたくて争うわけじゃないんだよな」
「そうですね。平和に生きられるなら……それが一番です」
立場や利害の衝突で殺し合うことは多いが、心から殺人を楽しむ者の方が稀だ。
彼女の身内に、その稀な例に該当しそうな者がいるという皮肉はあるが。
そこも改めて確認したクレインは、決意を新たにしていく。
「それでも、ここからは動乱になる。それも今までとは、比にならないくらいの」
「クレイン様はその中で、何を思いながら生きていきますか?」
やり直しを始めてから、彼は一貫して領地の滅亡を避けようと思い行動してきた。
その目標自体は、ごくシンプルだ。
「簡単だよ。俺の考えはいつだって単純なんだ」
例えば今までのクレインは、王都を含む領地外の政治や、そこに関わる人々には特に興味が無かった。
そこから導き出される結論は――領地を守るという言葉を、別な言葉に言い換えるだけだ。
「身近な人の被害を最小限に抑える。それだけだ」
戦いになれば人は大勢死ぬが、せめて縁があった人間だけでも守りたい。
彼の望みはこれ一つだ。
たった一つの願いしかない。
「望みは、それだけですか?」
「加えるなら、生き残った上で幸せになりたいかな。まだ結婚もしていないし」
彼が考える幸せはアストリとマリーと共に、のんびり過ごすことだ。
人並みの幸せを得るまでがなんて遠いんだと自嘲しながら、それでもクレインは前だけを見ている。
「……まあいいや。先生の件は確認しておくから、他の用意だけ頼む」
「承知しました」
アレス暗殺事件は年内が山場で、領地の存亡を賭けた戦いは年明けからが本番だ。
秋を過ぎれば、本格的な戦いの用意が始まる。
「この半年が勝負か」
クレインは机に向かい直して、対策を練る。
だが、それと同時に、もう一つやっておくべきことがあった。
「……とは言え人の心配ばかりじゃなく、自分の幸せも摑んでいかないとな」
領地改革に乗り出してから1年も過ぎているので、クレインも自分の幸せのために動こうとしていた。
バルガスに命じてあった、とある作戦は順調に進んでいる。
それは生存戦略とは関係の無いもので、しかし幸福な人生を送るためには、絶対に済ませておくべき作戦でもあった。
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