55回目 免許皆伝
「いやぁ参った。もう免許皆伝でいいんじゃないかな」
クレインがビクトールの私塾に入ってから三ヵ月ほどの時が経ち、授業の終わりに、クレインはめでたく免許皆伝を伝えられた。
もちろん剣の話ではなく、私塾の卒業という意味でだ。
「まだ三ヵ月ですよ……」
早過ぎる。卒業を言い渡されたときの、クレインの感想はそれ一つだ。
しかしビクトールから見れば、もう本当に教えることが無くなってきていた。
「そうは言っても、教えられそうなことは教えたし。その年でそれだけ物事を知っていれば、あとは自習で不自由しないと思うけどね」
ビクトールはそう言って苦笑するが、クレインは元々子爵家の御曹司として、それなりにいい教育を受けていた。
そして何度も繰り返す人生の中で、余暇があれば違うことを学んできている。
トレックには胃薬以外にも定期的に仕入れを頼んであり、読んだことがある本を除いて、毎回違う本を購入していたりもした。
本屋どころか小さな図書館の本を、読み尽くす勢いで学んできたのだ。
だから主要な学問は、既に履修済みだった。
「学力はまるで問題なし。軍略から農耕政策までよくもまあ、その年でそこまで修めたものだよ」
「はは……」
実際に試したことがある政策も多々あり、問題点を聞かれれば、即座に出てくるようなことが多い。
多少穴がある政策案を例題として出されても、引っ掛け問題に引っかかることすらほとんど無かったのだ。
間違い無く、ビクトールの私塾が始まって以来の秀才扱いだった。
「机の上だけでは分からない実学まで、きちんと理解しているのだからね。これ以上のことを学んでどうする……と、聞きたい気持ちもあるかな」
本は十分に読んできたし、礼儀作法の問題や教養、文化方面でもそれなりに洗練されている。
それはブリュンヒルデだったり、国王の命令でやって来た文官だったり、要は王宮で働いていた出向組から得た知識もあった。
無礼を働けば物理的に首が飛ぶ空間を生き残ってきた、プロフェッショナルの指導も代わる代わる受けてきたのだ。
しかも献策大会の時に優秀な政策を示した者は、何名か部下として雇えており。
特筆することもない日々の空いた時間に、各方面の先生から、雑学がてらに講義を受けてきている。
何かに特化した深い知識は無いものの、知識の総量で言えば既に一人前だ。
平均値なら既に、国内でもトップクラスになっていた。
「それはそうですが。いくら学んでも、損にはならないでしょうに」
「本来だったら僕がそう言うべきなんだろうけど、ね」
だとしても、色々と改善の余地はあるはずだ。
そう思いビクトールを質問攻めにして、細かい粗を削ってみたが、全く知らない分野というものがほとんど無いので、知識量の上昇は緩やかだった。
これ以上は知識の分野ではなく、実際に働く職人の世界に入ってくる。
だからビクトールが苦笑いなのも理解はしたクレインだが。
しかし男爵が自信を持って勧めるだけあり、ここはかなり高名な塾らしいと、彼も噂は聞いている。
これ以上のところが見つかりそうもないので、クレインは食い下がった。
「いえ、しかし……こんな短期間で私塾を卒業したなどと。男爵や故郷の家族が信じてくれるとは思えませんよ」
「それはそうかもしれないが、一筆書くよ?」
微量でも学べることはある。
特に軍略は武官がよく使う戦術論よりも大きな立場に立った、大局観のこと。歴史を引き合いに出した国家戦略論から解説が入るのだ。
領地経営には確実に要らない部分なので、そこを教えるような師と会ったのは人生で初めてだった。
様々な分野の人間を教育してきただけあって、ビクトールは下士官向けの教育から将軍向けの講座、君主の側近として必要な技能など幅広く教えられる人材だ。
何気なく聞いたことが意外と身になることも多く、クレインの立場からすれば有難い知識でもある。
だから勝手に卒業させようとしているビクトールを、何とか止めようと思い。
まあ、クレインも抵抗する。
「いえ。お上品な言葉をした、クビの手紙と受け取られる可能性があります」
「君の能力を知っていれば、そんな疑念は湧かないと思うけど、ね。……うーん」
地方領主どころか、国王の側近として必要なレベルすらもクリアしている。
これ以上何を教えればいい。
「いや。だったら逆に、教えてもらおうかな」
というか、この少年はどこを目指しているのか。
そう悩んだビクトールは、発想を逆転させてみた。
「教える、とは?」
「君が先生をしてみるのさ。教育論の学び……とでも言おうか? その歳だと、あまり人に指導をした経験は無さそうだし」
実のところ、それは正しい意見だ。
クレインは人を使う立場であり、まとめ役であるハンスやランドルフに指示を出せば、勝手に部下への教育が行われていた。
ランドルフの成長を願い本を渡したこともあったが、しかし直接指導をした経験には乏しい。
それは事実かと思い納得するクレインを見て、ビクトールは更に言う。
「本当だったら塾をリドル君にでも任せて、早々にとんずらしたいところだけど。彼を説得するのは……色々と面倒だからねぇ」
「リドル先輩は、哲学者になりたいのでしたか」
どこかに仕えるよりも、一生勉強を続けたいという変わり者もいる。
リドルという門弟はクレインよりも五つ年上で、丸眼鏡をかけた青年なのだが。
実力だけを見れば指導者として問題ない知識量だとしても、本人がそれを望んでいないため、ビクトールは今も一人で塾を営んでいる。
「そうそう。自分の勉強だけしていたいタイプだから、先生役を押しつ……。頼むには、それなりの見返りを渡さないといけないんだ」
自分の研究だけやっていれば満足な人間。
しかも高名な私塾に通える時点で名家の出だ。
食うに困っていないなら、望みに反することはすぐに断るに決まっている。
門下生の中から自分の仕事を手伝う人間を探すのは、意外に骨だと語りつつ。
「その点クレイン君は、特に専門科目の無い雑食だ。先生役、どうだろう」
領地を売り込むとすれば、西候との戦いが激化する王国歴502年の秋となる。
今のクレインに急務は無い。
ただ二年後を待っている状態なので、別に引き受けたとして問題は無いとして。
ビクトールが「押し付ける」と言いかけたところに一抹の不安を覚えたクレインは、少し疑わしそうな表情のまま聞く。
「ビクトール先生が楽をしたいだけに思えるのは、気のせいでしょうか」
「ああ、うん。楽をしたくて提案しているのはもちろんさ」
クレインに指導技術を教えるという名目で、受け持つ生徒を減らし、自分が楽をしたい。その目的もあっさりと認めつつ、彼は続ける。
「特待生だから月謝は少額にしていたけど。生徒を受け持ってくれるなら、むしろ給金を支払おう」
「給金……ですか」
「働いてお金を稼いだことも無いよね?」
地方領主の傍で仕える、名家のボンボン。
それがクレインの設定だ。
それに基づけば、額に汗して働いたことがないだろうという意見は合っているし、実際にクレインは労働をしたことがない。
文官や商人に指示を出すことがあっても、労働と言われればそれは違う。
「だからさ、先生を引き受けてくれると嬉しいな」
「ううむ……」
得難い経験であることは間違いない。
領地に戻ろうが前回のような人生に戻そうが、指導の機会はそれほどないからだ。
真面目に教育論を学べば、それはそれで利益があるかもしれない。
配下の育成に悩む者たちへの、アドバイスができる余地も生まれるからだ。
その経験が何かに役立つこともあるだろうか。
と、クレインは予期せぬ提案へ悩む。
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