55回目 今の人生を生きる



「逃げるって、何から」


 クレインがそう聞き返せば、マリーは少しおどけた様子で答える。


「領主としての重圧から。お貴族様の義務から。あとは……何でしょうね。まあ、誰も知らない土地へ、二人きりの逃避行というのもロマンチックです」


 陰謀を仕掛けてくる勢力と一切関わらず、ただ時を待っているのだ。

 逃げるというなら、今が逃げを打っている状態に近い。


 しかしここで逃げたいと言えば、彼女だけはどこまでも付いて来てくれるだろう。

 それが分かるからこそ、クレインも迷う。


「駆け落ちってやつか」

「そうです。物語みたいでしょう?」


 本来の人生であと一年や二年が経てば、そのまま結ばれていたかもしれない。

 元々、彼女との間に恋愛感情はあった。


 これだけ辛い思いをしてきたのだから、一回くらい、幼馴染の彼女と二人で添い遂げて。

 幸せに一生を終えて、その次の人生で領民を救う道もある。


「何もかも忘れて、逃げる……か」


 己に過去をやり直せる力がある以上、どこまで行っても、いつになっても手遅れということはない。


 一度くらい。


 その考えが頭を過ったのは事実だが、しかしクレインはその考えを打ち消した。


「それはそれで、幸せに暮らせそうだ。本当に、心から思うよ」

「でも、そうしないんですよね?」


 微笑むマリーを前にして、何となく手玉に取られているような感覚になったクレインだが。


 全てを投げ払ってでも守りたかったものを置いて、逃げる。

 彼にはその選択肢が選べなかった。


 それでは、今までに払ってきた犠牲に対して不義理と思ったからだ。


 そこに筋を通すこと。前回の人生で彼の配下が言った言葉は、この状況でこそ使われるべきだった。


「ああ。それが俺の、義というやつだろうから」


 初回の人生から、ずっとだ。

 子爵領に住む二万の民は大勢力から無為に殺されたり、戦いに付き合わせて死なせたり、無かったことになっているだけで、命を落とした者の数は計り知れない。


 今までの数十回を思い返せば、毎回、何らかの犠牲を払ってきた。


「逃げるにせよ、全部……やり切ってからだ」


 今も逃げる途上にいるのかもしれないが、初回と同じように何も特別な手を打たないまま過ごして、北候の傘下入りに挑戦してみる。


 それを試している最中だと思えば、確実に前には進んでいた。


 ここに平和な未来への道があると確認し、心に余裕を持ってから最良の未来に挑んでもいい。

 まだ全てを投げ出したわけではない。


 そう整理ができれば、彼の迷いもいくらかは消える。


「義務というか、今ではそれが……俺のやりたいことなんだ」

「それって、貴族じゃなければできないことですか?」

「ああ、そうだ」


 犠牲にしてきた者たちに報いること。

 殺されてきた領民たちを、太平の未来に連れて行くこと。


 死んだことを、例えクレインしか覚えていなくとも。

 そこを曲げることは彼の矜持が許さなかった。


 そして裏事情を知らないマリーからすれば、彼が何を決意しているのかを知らない。

 ただ、彼に逃げる意思が無いと確認できただけだ。


「頑張りますねぇ」

「なるべく頑張らずに、やり切りたい」


 遠回りであっても、例え失敗しても構わない。

 あらゆる手を試すと決めた。

 それは宰相への宣言通りでもある。


 しかし彼の性根は怠け者だ。

 二度寝や昼寝は好きだし。元は上昇志向など無い、田舎の領主でしかない。

 今の状態は、久方ぶりに見せる素のクレインだった。


 そんな彼を見てマリーは、やれやれと言った様子で呆れている。


「ぐうたらで寝坊助ねぼすけさんなところだけは、相変わらずですか。……今のはちょっと格好良かったのに」


 今までの人生で見聞きしたこと。

 体験したこと。

 考えてきたこと。

 自分や誰かの、発言と行動。


 全ての経験が彼の新しい価値観を作り。今、また新しい人生を歩んでいる。


 過去の体験に引きずられ過ぎて、思考がマイナスに陥りがちだったが、マリーからの口づけで頭が真っ白になり。

 空っぽの頭で色々考えてみれば、クレインにも整理はつき始めていた。


「恰好をつけ損ねたかな」

「いいですよ。私は別に、カッコいいクレイン様なんて求めてないですし」

「なら、どういう俺だったらいいんだ?」


 先ほどよりも少し余裕のある表情でクレインが聞けば、マリーはクレインの横に腰かけた。

 そして顔を、にへらと緩めながら言う。


「そのままでいいですよ」


 変わらなければ生き残れないと思っていた。

 だから変われるように努力をしてきた。


 しかし彼女は緩い笑顔を浮かべて、変わらないままのクレインでいいと言う。


 その顔が何だか愛しくなり、クレインは横に座るマリーの頭を撫でて、手で髪をく。


「ねぇ、クレイン様。ベッドに腰かける女の子の髪に触れるのが、どういう意味を持つのか……知ってますよね?」

「ん? そうだな」


 撫でられているマリーは頬を染めながら聞くが。

 これが恋愛的な親愛表現の一つであることは、クレインも知っている。


「まったく。さっきまで真剣に悩んでいたと思えば、急に口説くんですから」

「何も言っていないけど」

「言う前に行動してますからね」


 初回の人生でも、同じようなことは起きていた。

 しかしその時はお互いに怖気づき、それ以上には発展していない。

 それでも今回は違う。


「行動って言うなら、こういうことだろ?」

「あっ、もう……。責任は取ってもらいますよ」

「それは取るさ」


 本日何度目かの呆れ顔を見せるマリーだが、これは照れ隠しだ。

 クレインもそう判断して、仰向けに寝転んだ彼女の顔を覗き込む。


「まあ、意外と義理堅いクレイン様の性格を考えれば、領主の立場から逃げるわけないと思ってましたけどね」


 アストリに対する浮気になるかとも思うクレインだが、彼女は浮気に対して特に思うところは無いらしい。


 マリーを第二夫人にしても、仲良くやっていけるだろう。

 本人もマリーなら歓迎すると言っていたし、お願いしてみようか。


 などと、このままでは結ばれることが無いと知りつつ、言い訳を探している自分に気づき。

 彼女に関しては全く吹っ切れていないなと自覚しながら。


 それでも、決して裏切らず。

 自分のことを真剣に考えて、献身的に支えてくれる女性が目の前にいる。

 だから彼も前を向いた。


「こういうことは、いけないと思うんだけどな」

「今さらですよ。ここで逃げたら一生チキン野郎と罵ってあげます」

「それは勘弁してくれ」


 クレインは自分が精神的にかなり不安定な状況にあることは自覚があった。

 違う道を試すと言いつつ、前の人生で起きた事件のことばかり考えていた。


 このまま平和が訪れたらどうするという考えよりも、前の人生でどうしていたらよかったのか。

 そればかりを考えて月日は流れていたのだ。


 しかしこのやり取りで、いくらかは吹っ切れている。


 クレインに記憶が残り続ける以上、無かったことにはできないとしても。

 マリーから見れば少しは顔色が晴れたように見えていた。


 彼女は仰向けに倒れたまま。

 少し照れた様子で、クレインの頭を撫で返して言う。


「……ええと。たまにはこうやって甘やかして、現実から逃がしてあげますので」


 彼女の目にはクレインしか見えていない。

 彼の前には、クレインという一人の人間を見ている者がいる。


 自分のことを心から心配して。

 自分のことだけを考えて、愛してくれる女性がいるのだから。


「だから……ね? こうしている間は、私のことだけ考えてください」


 今、彼女のこと以外に意識を向けるのは。それはそれで誠実ではない。

 内心でそんな言い訳をしながら。


 前の人生でのトラウマを忘れることはできないにしても。

 クレインは、今の人生を生きることを考え始めた。


 過去に払った犠牲と。

 不義理と。

 失敗の数々から目を背けることになるかもしれないが。


 今だけは何も考えないようにして。

 今度はクレインの方から、口を重ねにいった。



― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


 過去にあの選択肢を選んでいたらどうなっただろう。それがいつでも選べ治せる状況だからこそ、迷い続けていました。

 今の人生でやるべきことをやろうと、いくらか迷いが消えたクレインですが。


 次回「死なない程度の大ダメージ」 お楽しみに!

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