55回目 ファースト・キス
北の街に来てから、ちょうど一ヵ月。
この日もクレインは夢を見た。
血だまりの中で笑う亡者たちの姿を。
そして、苦難の末に結ばれた少女のことを。
「……また、この夢か」
夢見が悪く
まだ日が沈んですぐの時刻で、眠りについてから三時間も経っていないと気づく。
今回の人生が始まってから、もうすぐ半年。
馬車で旅をしている間も、ずっとそうだった。
そして北の街で生活を始めてからもだ。
彼は前回までの人生で見てきた光景を、夢で見ていた。
同じ状況を再現して、違う未来へ変えるまで。
そうするまで、それは恐らく一生引きずっていく。
「違う。発展することだけが、生き残る道じゃない」
そう言いながら頭を振り、今回の目標は何かを思い出す。
何事も起こさず、陰謀に巻き込まれないような弱小領地のまま。穏便に北候の傘下へ入ることだ。
それが恐らく、最も平和的に生き残れる道となる。
そうは決めたが、自分はあの地獄から逃げているだけなのかもしれない。
そう思えば、起きてからも心は沈んだ。
「……夢を見るのは、罪悪感からかもな」
道順を覚えているので、もう一度同じ状況に辿り着くことはできる。
しかしその過程ではどうしても同じことが起こる。
周囲の人間、全員が自分の死を望み、自分が死ねば歓喜の声を上げるような状況。
それをもう一度作ることになるかもしれない。
そうならないために行動しようと思っても、何をどうしていいかは未だに分からず、むしろ前回の人生のことを考えるのを、頭が拒否していた。
考えないようにすれば夢に出るようになり、夢に出てくれば考えざるを得ない。
「酷い悪循環だ」
しかし心情的なものなので、これはどうしようもない。
気持ちの上で言えば、あの狂気的な笑みを浮かべた者たちを、もう一度配下にしようなどとは考えられなかった。
「……ダメだな、寝られない」
もう一度眠りにつこうとしても、飛び起きたばかりだ。
すぐに寝るのも難しかった。
だからクレインは枕元のベルを鳴らして、マリーを呼ぶ。
甲高い音が響いてから数秒後。
廊下をパタパタと走る音が聞こえ、彼女はすぐにやってきた。
「お呼びですか?」
「酒を持ってきてくれないか。種類は何でもいい」
「……分かりました。すぐにお持ちします」
ランドルフと出会った際には、酒を飲んで眠りにつけばすぐに眠れたし、その日は悪夢を見ることもなかった。
だから今では、眠れない時には酒の力を借りるようにしていた。
「これでいいですか?」
「ああ、銘柄は何でもいいよ」
ワインを持ち戻ってきたマリーは栓を抜いてグラスに開け、クレインに差し出してからも、退出しようとはしなかった。
しかし何を言うわけでもない。
「そろそろトム爺がもう一度来る頃だろ? 明日にでも来るかもしれないから、早く寝た方がいいよ」
「クレイン様が眠ったらそうしますね。……あ、また子守唄でも歌いましょうか」
「……やめてくれ、威厳が無くなる」
不眠の例外としては、マリーが添い寝して子守唄を歌った時だ。
その時は寝起きなはずなのに、ぐっすりと熟睡できた。
それは事実として、彼も幼馴染のメイドにそれを命じるのは羞恥が咎めている。
「むぅ。でも最近のクレイン様、前よりは良くなりましたけど……まだまだ暗い顔をしてるじゃないですか」
「そうかな」
そんなクレインを見て、マリーは口を尖らせていた。
「そうですよ、今も眠れなくてお酒を飲んでますし」
「飲みたい時もあるよ。マリーも飲んだら?」
クレインがそう言うなり、マリーも予備のグラスを用意して。
彼に注いだワインを手酌して、一気に飲み干す。
「いい飲みっぷりだな」
「私はお酒に強いからいいんです」
それはクレインからすれば羨ましくもあるが、そうであれば酒に逃げることができなくなる。
自分が酒に弱くて、むしろ良かったと思うクレインだが。
少しの間が空いて、マリーがグラスを寝室に備え付けられたテーブルへ置き。
何気なく呟いた。
「私たちには、クレイン様が何で苦しんでいるのかが分かりません。だから、見守ることしかできないんです」
「マリー?」
いつになく真剣な顔をした彼女は顔をクレインに近づけて。
暗く沈んだ目を、じっと見つめて言う。
「旅に出てからも、ずっと辛そうな顔をしていますよ」
「……そうかな」
確かに夢見が悪い日が多く、トムとマリーが心配そうな顔をすることは多かった。
しかし体感としては、徐々に心の傷は癒えてきている気がしていた。
今回の人生で北侯と縁を結べず領地が滅びるようになれば、その時はまた立ち上がれるだろう。
彼はそう考えていた。
「大丈夫だよ、俺は。やらなきゃいけないことは、沢山あるんだし」
もし次回があるなら、その時にはもう諦めて王子とも交渉するし、配下たちとも上手く付き合う。
ブリュンヒルデの生い立ちは分からないにしても、殺されるような事態はもう回避できる。
だから、少しの恐怖と不快感さえ我慢してしまえばいい。
クレインがそう割り切ろうとしていれば、マリーは唐突に話を変えた。
「ねえクレイン様。私のことをお嫁さんにしたいって言ったこと、覚えてます?」
「え? ああ、五歳くらいの時だったかな」
幼い頃に、クレインはマリーに向けてそう言った。
しかしそれは子どもの口約束だ。
その約束をしてから、十年も恋仲に発展していない。
普通に暮らしていたなら、一年後くらいにはいい雰囲気になる時も訪れる。しかしそれは収穫祭の雰囲気と、酒の力に寄るところが大きかった。
それにしても、どうして今その話をと、クレインが意図を考えようとすれば。
彼の口に、何か柔らかいものが触れた。
「……え?」
「えへへ、ファーストキスだったりします」
すぐに離れたが、クレインにそっと近寄りマリーはキスをしていた。
話の脈絡が無い上に突然のことだったので、クレインは余韻を楽しむこともなく呆然としている。
「ちょ……な、なんで?」
「こんな
多少恥じらいながらそう言う彼女は、少しだけ顔を近づけると、今度はクレインの目を真っ直ぐに見つめながら聞く。
「今、クレイン様の目の前にいるのは私です」
「え、うん」
「……少しは、意識しましたか?」
マリーとしては。領地を離れて少し元気になったクレインが、また落ち込もうとしているのを見ていられなかった。
多少庇護欲や母性をくすぐられたところもあるが、しかし、遠いところで起きている問題を考えて、辛そうな顔をするくらいなら。
目の前のことだけを見てほしい。
少しは自分のことも見ろ。そんな思いもあった。
そして、彼女は真面目な顔をして聞く。
「ねえ、クレイン様。このまま逃げちゃいませんか? 誰もクレイン様が貴族だって知らないところまで――二人で」
逃げる。
それは生き延びること。立ち向かうことをだけを考えてきたクレインにとって、初めて与えられた選択肢だった。
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