第2話 ハッピー・フライト
機体が軌道に乗って安定すると、坂口がゆっくりと頭を上げた。ずっとうつむいていたためかそれとも青臭い告白をしたためか、顔が少し赤いが、とりあえず大丈夫そうだ。
「そうだったのか。いつから?」その頃は坂口も二次元の女子にしか興味がないと思っていた。
「うーん、高三の割と最初の方」
「言ったのか」
坂口が苦笑して首を振る。「俺たちそういう系じゃなかったじゃん」
確かに、当時は今のように“オタク系”が公言できるステータスとして受け入れられてはいなかった。
「今だってそうなんだ、俺は」
谷崎は変わったよな。悟ったような、投げやりなようなその様子は、大学4年の夏に、慣れないスーツ姿で汗を拭いていた坂口を思い出す。
いじけるような坂口の口調に、奥歯に肉の筋が引っかかるような気持ち悪さを感じた。
「どういう意味だよ」
「谷崎は最近会うたびに彼女が替わってる」言われてみればそうかもしれない。
「俺だって、そろそろ落ち着かなきゃとは思ってるよ」
「女の方が寄ってくるってか」
「・・・やけに突っかかるな」
坂口がこういう風になるのは珍しかった。普段女の話をしても、ふんふんと聞いているだけだ。高校卒業まで俺も坂口も色恋には縁がなかったが、俺は大学の華々しい雰囲気の中で、なんとなくサークルの女子と付き合い、別れ、社会人になってからもそんなことを繰り返した。みんなそんなものだと思っていたが、坂口は社会人になっても高校生の時とあまり変わらない。色恋と疎遠なところも(興味がないわけではない)、外見も。大学の時に少しだけ付き合った女がいたと聞いたことがあるが、それ以降そういった話は聞かない。
坂口はハッとして「ごめん」とつぶやいた。これから数日間旅行する相手と初っ端から喧嘩するのはかなりきつい。せっかく離陸という難関を突破したのだから楽しい旅行にしたい。
「なあ、あのCA、本当に内田だったらどうする」
不穏だった空気を払う意味で言ってみたが、内田のことを思い起こすうちに本当にそうなのではないかという気がしてきたのだ。
「え」
「もう一回よく見て確かめようぜ」
ちょうどシートベルト着用サインが消えた。トイレに行くついでに確認できるだろう。本当に内田なら俺たちに気付くかもしれない。
「次来た時でいいだろ」シートベルトを外そうとすると、坂口が止めた。
「だって、気になるだろ」
「あんまりうろついたら不審だし」
「自然にやるんだよ」
坂口は頭をガシガシと掻くと、分かったよ、と言った。
冷房で冷えた金属のシートベルトを手早く外し、通路に出る。カーペットの独特な柔らかさを足裏に感じながらトイレの前まで行った。トイレの前には機内食などが保管してある、蛇腹のカーテンで仕切られた部屋がある。ちょうどよくそこに内田がいる可能性は低いと思ったが、トイレを待つそぶりで立っていることにした。
『ハッピー・フライト』という映画で、蛇腹カーテンの狭い部屋の中でCAがパズルを組み合わせるみたいに体をはめ込みながら、靴を脱いだり食事を貪り食ったりしているシーンがあったなと思い出していると、カーテンがジャっと開いてCAがひとり出てきた。靴も履いているし口元に食べかすもついていない。当たり前だ。胸にある銀色の名札には“木村”と書いてあり、先ほどの内田に似たCAではなかった。トイレを待っていると思われたようで、CAは俺にニコッと微笑んで通り過ぎて行った。
あまりにも長い時間立っていると流石に不審だろう。そう思ってトイレに入ることにした。実はトイレには誰も入っていないのだ。
とりあえず便器に座って考える。そうか、名札を見ればよいのだ。さっきブランケットをもらったときに確認しておけば良かった。しかしもし結婚していたら苗字が変わっている可能性もある。旧姓を使っていたら別だが・・・。とにかくもう一度見てみるしかない。
せっかくなので用を足してから外に出ると、蛇腹のカーテンが開いていて、ひとりだけCAがいた。その顔には確かに見覚えがあった。あの、と俺が言いかける間に、「どうされましたか?」と問われる。名札には“内田”とある。
「内田、さん?」
「えっと、もしかして谷崎くん?だよね?」
明るすぎない茶髪は一本も乱れず後ろにまとめられ、緩くカールした前髪のすぐ下にある瞳がまっすぐ俺を見た。首に巻かれた薄いピンク色のスカーフがよく似合っていた。さっき内田だと気がつかなかったのは、外見、雰囲気がCAとして全く違和感がなかったからかもしれない。それでも俺だとわかると少女のような表情が重なるのが、開きかけた薔薇の花の中を覗いてしまったような感覚だった。
「やっぱり内田だったんだ、良かった」
「私も、さっきそうかなあと思って」本当に久しぶりだね。内田は口元に左手を添えて囁く。薬指に指輪はない。
「CAになってたなんて全然知らなかった」
「まだまだだけどね。谷崎くんは、ハワイは観光に?」
「そう。坂口の奴に誘われてさ。ずっと飛行機ダメだって言ってたのに」
「坂口くんも一緒なの?」
「え、うん。さっきブランケットもらった時いたでしょ」
「そっか、隣にいたの坂口くんだったんだ。ずっとうずくまってて、顔上げなかったから大丈夫かなあって思ってたんだけど−−−−−」
その時、『業務連絡・・・』とアナウンスが流れ、少女がCAの顔になった。
「仕事中邪魔してごめん。また声かけるかも」
「うん、何か困ったことがあったら言ってね」
坂口は何かを隠している。そう思った。
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