第3話 機内食
「内田だったよ」
坂口はそれほど驚いた様子もなく、セリフを読み上げるかのように「そうだったんだ」と言った。落ち着かずに身じろぎしているのは、苦手な浮遊感のせいだけではないだろう。
「うん。でもお前がいたことには気づいてなかったよ」
「そりゃ、客の中に同級生がいるとは思わないだろ」
「俺のことには気づいてた」
「お前の方が内田と普通にしゃべってたし、印象に残ってたんだろ」
「違う。お前があの時うずくまってて顔を上げなかったからだ」
坂口の眉毛がぴくりと動く。
坂口は、“口元が内田に似ていた”と言っていた。内田の言うように全く顔を上げなかったとすると、それはおかしい。口元を見ることなどできなかったはずだ。その前に内田を見つけていたならその時点で言えばいいし、声で分かったならそう言えば良い。とにかく何かが変だ。
「何を隠してる?」
坂口は白状した。
別の同級生と飲みに行く機会があったこと。そいつは航空関連の仕事をしていて、内田とも連絡を取り合っていたこと。内田が念願のCAになったこと。今度初めてホノルル便に乗ること。それがこの日の835便であること。
「ストーカーって言うんじゃないの、それ」
内田も空の上までストーキングされるとは思っていないだろう。
「気持ち悪いだろ」坂口は自虐的につぶやく。
「だから、予約は自分がやるって言ってきかなかったのか」
ハワイに行きたいから飛行機に乗る。そうではなく、この便に乗るために、ハワイに行きたいという理由をつけたのだ。飛行機恐怖にもかかわらず。
「高校の時に好きだった女子のためにそこまでするか?」俺は5年前に付き合っていた女の名前すらパッと出てこない、と言いかけたが坂口がまたむっとしそうなのでやめた。
「お前には考えられないかもしれないけど」坂口はそこで言葉を切って、ゆっくり口を開けた。言葉が転がり出てくるのを坂口自身が待っているかのようだ。坂口と付き合っていて、今までもこういう瞬間があった。俺はいつも黙って待っている。
「俺は内田を好きになって以来、他の女を好きになってない」
「まじか」
「まじだ」
なんとなく予想はしたが、なんという純粋さか。しかし、俺はどうだろう。最後に誰かを“好きになって”付き合ったのはいつだったか。あらゆる言い訳をまくし立てる坂口を横目に、俺はそんな思いにとらわれた。もしやと思い、「じゃあ、過去形じゃなく、今も気持ちは変わってないってこと?」と聞くと、坂口が神妙に頷いた。
ポーン、と丸い音が響いてベルト着用サインが再び点灯する。『気流の関係により、揺れが大きくなることが予想されます・・・』とアナウンスが流れる。坂口は「えっ」と大げさに驚いて自分のベルトが締まっているかどうか確認した。
「で、どうする」揺れがおさまったので聞いてみる。
「どうするって」
「内田を見つけて終わり、じゃないだろう。ストーカーっていうのは普通は盗撮したり、下着を盗んだり・・・」
「おい、声でかいって」坂口が小声で叫びながら俺の隣の席に顎を向ける。そうだ、隣に親子連れがいたんだった。俺は怪訝そうな顔でこちらを見る母親と思われる女性に、顔だけで会釈し、今度は坂口に顔を寄せて小声で言う。
「今のは冗談にしても、これで終わりってわけじゃないだろ」
「ああ、まあ・・・」
「ここまで来たなら、言えよ」
「何を」
「告白だよ」
この歳になって中高生のような会話をしている、とばかばかしくなる。しかし、ハワイに着いたら坂口がやりたいことにとことん付き合ってやろうと思っていたのだ。それが着く前から始まったというだけだ。
「今更してどうする」
「今だからだよ。こんなチャンスないし、向こうは偶然乗り合わせたと思ってるんだ。そこで告白されれば運命だと思うかもしれない」坂口と内田には悪いが、俺は正直面白がっている。
「しかも空の上だぜ。この上ない吊り橋効果だ」
「もう相手がいるかもしれない」
「少なくとも結婚はしてないと思うぞ、名札に内田って書いてあったし、指輪もなかった」
「旧姓で働いてるかもしれないだろ。指輪だってしない人もいる」
坂口はいろいろ言いながらも満更でもない様子で、機内食の提供を始めるというアナウンスが流れる頃には俺の提案に乗っていた。
「空の上で飯食ってるんだな」坂口がメカジキのフライにかぶりつきながら独り言つ。
「そうだな」俺はパンにガスパチョを浸している。あまり意識していなかったが、改めてそう言われると妙な感じだ。しかし坂口は自分で「空の上」などと言って平気なのだろうか。飛行機恐怖症というのも案外、食わず嫌いのようなものだったのかもしれない。
機内食は予約時にすでに選んでおいたので、beef or chicken?と聞かれることはなかった。(そもそも日本の航空会社だから英語で聞かれることはないのだが)そう思うと、意外とCAから乗客に話しかけてくる機会は少ないと気づく。どこかでタイミング良く、坂口が想いを伝えられればいいと思っていたが、そう簡単ではないかもしれない。
「どうやって言う」あまり期待はできなかったが、坂口にも意見を聞いてみる。
「うーん」もぐもぐとメカジキを飲み込んでから、「これに手紙を置いておく」と、機内食のプレートを指差して言う。
「内田が取りに来るか分からないだろう」運んできた時も内田ではなかった。
「さっきみたいにトイレに行くふりをして、手紙を渡す」
「手紙が好きだな」
「直接言うってのか?無理ゲーだ」無理ゲーはちょっと死語だろう。
俺たちが乗っているのは定員500人のジャンボ機で、CAの数もおそらく10名以上だ。さっきは運良く内田に遭遇したが、いつでもその辺にいるわけではない。だが何度かトライすれば、不可能ではない。
そもそも、告白したいだけなら誰か同級生を通じて連絡先を聞いて、直接連絡を取ればいい。しかしそれでは意味がない。せっかくの吊り橋効果だ、ということもあるが、せっかくのゲーム性が台無しだ。
「じゃあ、まず手紙書けよ」言ったものの、紙がないことに気づいて周囲を見渡すとある物が目についた。
「これでいいか」と坂口に航空会社のロゴマークがついた青色のエチケット袋を手渡す。
「え、これ?」坂口はげんなりという風に肩を落とした。
「これしかないんだよ」
「なんか台無しだなあ」坂口はブツブツ言いつつもエチケット袋を受け取った。
CAが機内食のトレーを回収にきたが、やはり内田ではなかった。どのCAもそれなりに美人だが、その中でも内田は結構いい女なのではないか。目の覚める美人、というわけではないが、香水とわからない自然な香水を嗅いだような、立ち止まって嗅がないと香りが分からない小さな花のような−−−−そんな女だと思った。
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