第4話 消灯
窓の外を見るとすっかり日が落ちていた。背中を丸めてエチケット袋に愛の言葉を書こうとする坂口に、暗いだろと言って読書灯を点けてやる。ボールペンは持っていたらしい。坂口は、おお、サンキュと天井に俺がいるかのように見上げて礼を言った。上を見上げる坂口を見て、デジャヴを感じた。高三の修学旅行だ。
軽井沢だった。日中にスキーをした後、夜はナイトウォークと称して普段は立ち入り禁止になっている、廃線が通るトンネルを歩いた。正直、メインのトンネルの中のことはあまり覚えていない(何かが出そうな空気は充満していて、お化け屋敷に入る前のようにみんなが譲り合っていた気はする)が、トンネルを出た後、坂口が白い息を吐きながらひとり夜空を見上げていたのを覚えている。
「何してるんだ」と坂口に声をかけると、
「星見てる」と空に引っ張られるように顔を見上げたまま言った。
「見えないだろ」その日はあいにく濃い曇りで星ひとつ見えず、満天の星空を期待していた俺はがっかりしていた。
「見えないけどあるんだ、と思って」
そんなことを言う奴は他にいなかった。
高校の時、俺も坂口もゲームや漫画に夢中なのは同じだったが、坂口は密かに内田の魅力に気づいていたのかもしれない。俺も同じ教室で同じものを見ていたはずなのに——————そう思った瞬間、ぶわりと羞恥心を感じた。俺が今まで、無意識に坂口を下に見ていたこと、それにこの年齢まで気がつかなかったことに対して。俺は間違いなく、坂口に嫉妬していた。
「なあ、日本からハワイって6430kmなんだって」坂口の声で我に返る。
「へえ」数字だけ聞いても、遠いのか近いのかよく分からない。飛行機に乗ると行き先までの遠さを距離というよりも時間で捉えていることに気づく。俺ももうすぐ三十歳だ。今までの人生の時間が距離に換算できるのなら、何kmになるのだろう。そんなことを考えているうちに眠くなってきた。
見上げると、満天の星空だった。「おーい」と声が聞こえたかと思うと、坂口が歩いてきて俺の隣に腰をおろした。坂口は学ランを着ていて、なんだか高校生みたいに若い。そうか、今は高校の修学旅行中だったと思う。しばらく2人で空を見ていたら、流れ星がすっと一筋流れて、遠くでかしゃん、と音がした。「落ちたんじゃないか」坂口が言う。まさか。見上げるとまた星が流れて、今度は別の方向から音が聞こえる。花びらみたいな薄いガラスが割れるような音だ。3つめ、4つめの星が流れて、数えきれない、と思うと雨のように降り注いだ。俺たちの周りにも星は落ちてきて、割れた。それは痛いほど白く発光していたが、拾い上げると光を失った。俺は、なんだ、と思ってそれを捨てたが、隣にいた坂口は、星を拾い続けていた。「光らないだろ」と声をかけた瞬間、坂口の手の中で星は土になり、淡い緑色の芽が吹いてするすると伸び、鮮やかな赤い花がゆっくり首をもたげた。「あれはヒアシンス」耳元で声がして、振り向くと内田だった。「揺れるから気をつけてね」「気流が乱れてるから」
目を覚ますと、機内は完全に暗くなっていた。消灯時間になったらしい。
「なあ」再び目を閉じようとすると坂口に声をかけられる。飛行機にはすっかり慣れたようだ。よく喋る。「やっぱりやめようかな」
「何を」眠る意思を示すために目を閉じる。
「内田に告白すんの」
「腹を括れよ」
「やっぱ今更だし、迷惑だろ」妙に甘えた声音に、チリリと苛立ちが湧く。
「じゃあ俺が言おうか」
「告白代行?」
「違う。俺自身が内田に告白する」
「は?」
俺自身も俺の言葉に驚いていた。目を閉じているので坂口の顔が見えないが、表情の予想はつく。
「ハワイまでの6430kmで、俺が内田を好きになる可能性だってあるんだ」
坂口は一瞬虚をつかれたように固まったが、おもむろにシートベルトを外して立ち上がった。
「どうした」降りるとか言うんじゃないだろうな。坂口は前を向いて、バンジージャンプをする前の人のような顔をしていたので俺は心配になった。
「高三の時の修学旅行、覚えてるか?トンネルの」
「覚えてる」坂口も同じことを思い出していたのか。坂口は俺の返事を聞いているのかいないのか、立って前を向いたまま、コップから水が溢れるように語り出した。
「なんか出そうな雰囲気だっただろ、あそこ。ふざけ合って誤魔化してたけど、みんな結構マジで怖がってたよな。俺もそうだった。あの時、先陣切っ他のが谷崎だった。懐中電灯ひとつで、躊躇いもなく。それがめちゃくちゃかっこよかった」
そうだっただろうか。全く記憶になかった。
坂口は続ける。「なんか分からないけど、最近その時のこと思い出して。それで思ったんだよ。俺は今までためらいすぎて見落としてきたものがいっぱいあったのかもしれないって。谷崎の背中について行ったら、何か別のものが見えるのかなって。それで、このハワイ行きも決めたんだ」
「いや、お前は内田に会いにきたんだろ」
「それもそうなんだけど、違うんだ。内田のことは計画の一部でしかないんだ」
「計画?」
「計画って言えるほど大層なものじゃないけどな。俺が、俺自身を変えるための計画。飛行機に乗れないことも、内田に告白できなかったことも・・・他にも情けないことばっかりで。なんか変えたいって思ったんだ。自分の力で、って思ったけど、やっぱり谷崎に頼っちまった。いつでもお前が引っ張ってくれるんだよな、トンネルの時みたいに」
違うんだよ、坂口。お前は俺を買い被りすぎだ。
「ばかだなあ」
「そうだなあ」坂口は全てから解放されたかのようにアハハと笑う。素直にこんな藩士ができる坂口が、単純に羨ましかった。
「そんなんだから彼女出来ねえんだよ、童貞」
「だから、声でかいって」
「いいから、早く行ってこいよ」
坂口の最中をポンと叩いて、反対側の通路に押し出す。坂口の顔は暗闇でよく見えなかったが、もう迷いはないようだった。微かな非常灯に照らされた通路を歩いていく坂口の後ろ姿を見て、坂口がトンネルで見た俺の姿を想像した。確かに悪くない、と思った。
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