ノーラベルの夕景

高村 芳

ノーラベルの夕景

 耳の奥で心臓の鼓動が私をけしかけてくる。店員はレジ対応に追われており、私の姿は棚の死角になっているだろう。今だ、今しかない。私は震える手で商品に手を伸ばす。周りの音はだんだん大きくなり、棚までの距離がどんどん遠くなる。背中にじわりと嫌な汗をかく。商品を手にとり、あとは鞄にそっと入れるだけなのに。

 鞄まであと少しのところで、手首を掴まれた。目の奥がかっと熱くなる。


「何してんの」


 私の手を掴んだのは、クラスメイトの倉田さんだった。よりにもよって「ノーラベル」の彼女に、ラベルの万引きを止められるなんて。


 若者からお年寄りまで、誰しもが仮想現実デバイスを持ち歩くようになって久しい。今では眼鏡はもちろん、コンタクトレンズでも仮想現実を体験できるようになり、夢の技術はファッションにも変革をもたらした。それが、ラベル・ファッションだ。新進気鋭のアーティストが自分に仮想ラベルをつけてテレビに出演したのをきっかけに、特に高校生の間で爆発的に広まった。今では自分を表現する手段のひとつとして、ラベルを貼り付ける若者が多い。ラベルは言葉であったり記号であったり絵であったり音楽であったりする。街では多彩なラベルが売られており、その組み合わせをファッションのように楽しむのだ。



 「チナツ、そのラベルもう古くない?」


 今日の昼休み、ミキにそう言われて血の気が引いた。彼女はいつも新しいラベルを身につけている。今日は先週のテレビ番組でアイドルがつけていたラベルと同じだった。それにひきかえ、私のラベルは数ヶ月前に買ったものだった。


「もうそのラベルはないって。新しいの買えば? じゃないと“誰かさん”みたいになっちゃうよ?」


 ミキの言葉がナイフのように窓際の席に投げられる。私は笑いが乾かないよう気をつけながら、窓の外を見つめながら座っている「誰かさん」をこっそり盗み見た。

 倉田さんは高校生では珍しい「ノーラベル」、あえてラベルをつけない人だ。私たちの世代は、ラベルでどの芸能人や音楽が好きかを知り、仲良くなることが多い。しかし彼女はラベルをつけておらず、その人となりを知ることができない。いつも独りで何かの音楽をイヤホンで聴いている彼女が誰かと話しているところを、私は見たことがなかった。

 ミキたちの会話を聞き逃さないようにしつつ、私は財布の中身で新しいラベルが買えないかと必死に計算していた。どう考えても足りないことはわかっていた。



 万引きを止められたあと、公園のベンチに座っていると倉田さんが自販機でお茶を買ってきてくれた。お礼を言って受け取り、カラカラの喉を潤す。公園の遊具で遊んでいる小学生たちは皆、親に買ってもらったであろう人気キャラクターのラベルを貼っていた。私はラベルを見たくなくて、コンタクトレンズのスイッチを切った。人々に貼り付けられたラベルがすべて視界から消え、世界が寂しく見える。倉田さんに、この世界はどう見えているのだろう。


「私、倉田さんみたいに“ノーラベル”でいられるほど、強くなくて。良いラベルをつけて、良い人に見られたくて」


 言い訳が口からこぼれた。私は唇をぎゅっと結ぶことしかできない。ペットボトルを握りしめる手に汗がにじみ、それ以上続かなかった。

 倉田さんは、慎重に言葉を探しているような表情をしながら、自分の爪先を見つめていた。


「ラベルがついていると、誰がどんなモノが好きとか、すぐわかる。けど……」


 倉田さんの言葉の続きを待っていたが、夕方の喧騒の中、お互い黙り込んでしまった。

 しばらくして、倉田さんは何も言わず鞄からイヤホンを取り出した。つけてみろ、と彼女の目が促すので、私はよくわからないまま耳に押し込む。知らないアーティストの声が鼓膜を震わせ始める。洋楽で歌詞がわからず、正直そんなに好きではない。けれど、なんだか倉田さんらしい、という言葉がしっくりくる音楽だ。


「どう?」

「ごめん、あんまり洋楽聴かないから……。好きかはよくわからない」


 嘘でも「好き」と伝えた方が、話が弾んだかもしれない。そんなことが気になって、彼女の表情を盗み見ている自分が嫌になる。イヤホンを返すと、予想に反して倉田さんの表情は明るかった。


「私は、どの音楽が好きとか、嫌いとか、そういうのは二の次で。人と音楽の話がしたいだけ。ラベルを見て好きなバンドが同じ人たちだけで集まるのは、何か違うと思う」

「だからラベルをつけないの?」

「それもあるけど……」


 倉田さんはまた鞄から何かを取り出した。表紙の端が折れてヨレヨレになっているバンドスコアだった。


「お小遣いをぜんぶ音楽とか楽器に使っちゃうから、ラベルを買っている余裕がないだけ」


 そう言って照れくさそうに前髪を掻き上げた彼女の表情は、ラベルが貼られていないせいかはっきり見えた。私は彼女に他のおすすめの音楽を教えてほしいとお願いした。


 ノーラベルの公園の景色は、いつもより眩しく見えた。



  了

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ノーラベルの夕景 高村 芳 @yo4_taka6ra

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