第5話 蜥蜴

暫く男は考え込んでいた。

何処からどう話せばいいのかわからなかったからだ。

雨音は次第に弱まっていた。

「ヤモリ?」

窓ガラスに頼りなさそうに張り付いている其れは、青年の一言で一気に三人の注目を浴びる。

其れは、三人がじっとこちらを見ている事に気が付いたのか、其れもまた三人をじっと見つめていた。

「此処を始めて三年になります」

男は落ち着いた口調で話し始めたが、テーブルの上のキャンドルは、不安げにゆらゆらと揺れていた。

「もともとこの店は、恋人と二人で始めました。恥ずかしながら店の名前は、彼女の名前にしました。私が料理を作り、彼女は接客です。当たり前に繰り返される、当たり前の毎日が、私にとって幸せでした。店も少しずつ軌道に乗って、これからってときだったんです」

青年と中年男は、不思議そうな顔をした。

「そういえば、さっきから思っていたんですが、このお店看板がどこにもないのですね」

青年がそう言うと、中年男はこう続けた。

「辞めるから、取り外したんだろ。そういえば、この辺はよく通るんだが、店の名前は知らなかったなぁ・・・あれか?看板を出さない隠れ家みたいな店ってわけか?」

男は、眉間にしわを寄せて妙な顔をしている。

「看板がない?」

そう呟くと、よろよろと立ち上がり、店の外へ出ていく。

少しすると男はまた店内に入って来て、椅子に座ったまま、黙り込んだ。

出してある筈の看板が何処にもないのだ。

何処を探してもない。

「どうかしましたか?」

青年の心配そうな問いにも男は全く反応しなかった。

男はメニューを手に取るが持つ手が震えている。おまけに額から変な汗が流れている。

男にとっては見慣れたメニューであったが、ある筈のものが無かったのである。

「消えているんです・・・店の名前が・・・」

中年男は笑い出す。

「疲れているんだろ。消える訳がないじゃないか」

「そうですよ、きっとお疲れなんでしょう。で、なんという名前なんですか?」

男は顔を強張らせながらも、何とか平常心を保とうと、余裕の笑みなどを浮かべようとするから、いっそう妙な表情になっていた。

「思い出せないんです・・・」


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 ハンバーグの中身 tori tori @dodo44

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