屏風を出る

川谷パルテノン

記憶喪失の男

 雲雀が鳴いている。春を告ぐ鳥と言うがこの身も軋むような冷たい風の吹く寒村は雪溶けを知らず、四月も半ばになって未だ軒には氷柱が生える。脚立を軒下に立て、尖った先の辺りからハンマーで少しずつ落としていく。以前は根こそぎ一度で落としてしまおうと雑にハンマーを振り抜いたために屋根の一部が破損している。そういう反省から氷柱は先から少しずつ落とすということを覚えた。氷と金属のぶつかる甲高い音に雲雀が驚いてしまわないか。そんなことを気にしながら叩いてみるが結局のところそれで驚かせてしまったのか、それとも単にその場への興味が失せてしまったのか、雲雀はもう鳴いてはおらず、目を凝らせど耳を澄ませど雲雀はもう居ないのだった。春の兆しが俄かほどにも感じれない息の白さはいつかの暖かさを知ればこそ、その白さなき季節などないこの寒村での暮らししか知らぬ俺が覚えているはずもないのだが、暖かきを知るならばそれはやはり俺の生まれがここではないのだろうということを物語っていた。俺は記憶を失っていた。ついでに意識も失って、村を敷き詰める白い雪の上で全裸で倒れていたのだった。

 今考えても何故死ななかったのか不思議なことである。こうしてストーブに薪をくべていると確かに俺は生きていて、それはその時何故か助かってしまっての今なのだとあらためて実感する。全裸で氷点下の中をいったいどれほど眠っていたのかはわからない。通りすがった村の人間に見つかって「あんだ素っ裸で寝でだんだ」とその時の俺について教えてくれたが、確かに意識を取り戻した俺はまともに布を纏っておらず、俺を助けた村で猟師をやってるというジジイの嫁のババアに借りた毛布で身を包みストーブの前でブルブルと震えていた。金玉は臆病に縮み上がってそのまま腹部に吸い込まれそうな有様で、そんなことには思いが至るのに俺が何者であるのかみたいなことには余裕がないからか意識が及ばない。いや、余裕がないなら金玉のことなどいちいち心配などするかと思うかもしれないが、なんというか金玉の有る無しはただの死に損ないながら拾った命の残像としてみれば優先されるべき一大事だとその時は納得したのである。ババアが「とにかく風呂沸かしてっから早よ入れってば。臭えからあんだ」というので俺は毛布を引き摺りながら風呂場へと歩いた。それはえらく遠くに感じられたのを今でも覚えている。寒さから脚は腐ったかと思うほどにずっと痺れていて感覚がなく、加えて臆病な金玉である。バランス感覚などとうの昔に忘れてしまったようでババアの手を借りてやっと風呂場に辿り着いた俺はその湯気沸き立つ風呂桶に落ちるように入った。垢の浮いた湯船が俺の汚さを露呈させた。寒さで死んでいた嗅覚が熱をもって蘇り、動物特有のにおいが鼻をつんざく。「シャンプー、あっがら」とババアが置いていったのは薬用の手洗い石鹸だった。俺はそれを掌にしこたまポンプして全身に塗ったくった。擦るうちに泡が立ち、躍動する俺。泡を流そうと頭から湯を被って、そこでようやく悟った。俺は誰だ。俺には記憶がない。

 風呂をあがるとジジイが居間で猟銃の手入れをしていた。俺はなんとなく「お先いただきました」とジジイに断った。ジジイは俺をジロリと睨んだ後、ゆっくりと手元に目線を戻した。「あんだ、これさ着ど。爺さんのんだげど入るべ」ババアは俺にジジイのおさがりだと言って服を誂えた。中にはヒートテックもあって、その肌触りと暖かさとヒートテックという単語への微かな馴染みなんかの色々な感情で思わず泣き出してしまった。「あんだ、なんで泣ぐ。早よ上も着ど」俺は鼻を垂らして泣いたので床の木板と接続された。そこから木材の声を聞いたのだ。「いつからズボンをパンツって言い出したの?」意味は分からなかったが確かに木板はそう言っていた。

 翌朝、ジジイに連れられて山に入った。俺が「狩りですか」と問うたまま山中を歩いて二〇分ほどの沈黙の後に「まだ早え」とジジイが返事をした。「え、何て」と言ってしまう。またジジイは黙りこくってしばらく経ち、徐に雪の下に手を突っ込んで何かを摘み始めた。フキノトウだった。こんな寒い中でも育つんだなと独り言を呟いたがジジイは無反応のままフキノトウを摘み続けていた。連れてこられた以上、手伝えということだろうと勝手に解釈し俺もフキノトウを探した。しかしこれがなかなか見つからない。ジジイには何かトリュフを掘り当てる豚の嗅覚に似たアンテナがあって、それでフキノトウを見つけられるんだと直感した。確かトリュフを掘れるのは雌豚だったようなと思った瞬間、俺はなんでそんなことを覚えているんだと考えてみるも答えは出ず、ただ気分が悪くなる。目眩がして卒倒した。ジジイが何かを言って俺の頬を叩いた。実際頬を打たれる前に意識は戻っていたので痛いだけだった。それに腹を立てたわけではないが俺はなんとなく「フキノトウは婆さんのマンコとおんなじにおいでもするんですか」と、あくまで素朴な疑問として聞いた瞬間、拳骨が飛んで意識が途切れた。

 俺はすっかりとジジババ、中田黒夫妻の世話になっていた。ジジイは中田黒トミジと言って村では名うての猟師で、ババアの方は中田黒フサと言った。フサの若い頃の写真を見せてもらったが、本人曰くとびきり美人の一枚というその写真は色褪せ過ぎていて白紙の上に、微かに見て取れる、おそらく目口と思われる黒胡麻のような点が浮いていた。「べっぴんですね」と社会性が腹話術を披露する。中田黒夫妻は俺にとてもよくしてくれた。トミジはぶっきらぼうだが男気があり滲み出る優しさみたいなものがある。対してフサはわかりやすく親切で料理の腕前はべらぼうに上手く、記憶のない俺を気遣ってかかつて同居していたという息子が使っていたという国語辞典をくれた。夜な夜な発情して営みだす時の野女と野獣といった呻き声に目を瞑れば何も言うことはなかった。しかしながらこうも生活が足りてくるとかえって申し訳ないという気持ちも芽生え、ある日俺は夫妻に提案した。

「この辺で使われてない空き家みたいなものはありませんか。二人の生活だって大変なのに、大の男が無職で何にも役に立ててないのは些か虚しくもありご迷惑かとも思っています。もし空いた家があるなら一度ひとりで暮らしてみようかと。さもなきゃ今すぐ殺してください」

 フサは俺のことを普段から桃太郎と呼んで孫みたいに思ってくれていて馬鹿なことを言うなと鼻の穴を広げた。俺がしばらく「馬鹿なこと」とはこの家を出たいと言ったことを指すのか、それとも唐突に殺害を依頼したことなのかを考えていると、奥からトミジが銃を持ち出してきて俺にその口を向けた。

「あんだ何しど!」

「煩え!」

 トミジはフサを蹴り飛ばしてこう続けた。

「キツネもサルも、イノシシもシカも殺しでくれど言わねえ。殺されるだおぼわばっでだがらむつかしい。おいは死にださいっで逃げもせんか!」

 何と言ってるのか分からなかったが文脈を読んだ俺が「じゃあ空き家はありませんか」と続けた瞬間、顔の横を熱が走った。かと思うと次に音が消えた。撃ちやがった。聴覚が戻るまでずっと前を向いていた俺は、フサがなんとかトミジを止めようと腰の辺りに抱きついて泣いているのを目の当たりにしながらなんだか西洋画みたいだと思った。音を取り戻すとトミジが「出でけ!」と叫ぶのが聞こえて俺はスッと立ち上がり深くお辞儀をした。静かに二人に背を向けるとフサは号泣していた。俺が中田黒家の外に出てからもフサの泣く声が辺りにずっと響いて、そこに野鳥の羽ばたきが混ざり合うのでなんとも言えない気持ちになった。この寒空の下、いよいよ死ぬなと俺は思った。

 死を覚悟してみるとその前に失った記憶というのに興味が湧いた。考えてもみれば中田黒夫妻との生活は俺にとってあまりに足りた日常だった。だから過去を振り返る理由などないに等しく、なんだかんだで楽しんでいたのだ。けれどそれを失ったからこそもっと昔になくしたものにも目が向く。俺は少ししがみついてみようと思った。トミジに教わったフキノトウの見つけ方を実践して掘り返す。見つけた。齧り付いた。土が来て、緑が来て、つまりべらぼうに不味かった。フサの腕前をあらためて思い知る。俺はなんと無礼で恥知らずなのだろうか。わざわざ生かしてくれた人間に殺してくれなどと惨いことを言う。ありとあらゆる尊厳を何処かに置き忘れた血の通わぬ怪異か何かと思われでもして、トミジの割り切りで、あの場で撃ち殺されていても楽になるのは俺だけだ。俺はそこで初めてトミジの想いに気付き、誰も居ない林の中でこうべを垂れた。

 村の夜は早い。すっかり暗くなった林道は前後不覚の迷路である。当て所なく歩いた俺はいつしか山に入っていたようだ。冷たい空気はヒートテックの向こう側にも差し込んでくる。少しずつ息苦しくなって、疲労から足も鈍っていた。俺は歩くのをやめて天を仰いだ。狼煙のような息が昇っていくその先には満天の星が輝いていた。その星空に目を奪われていると途端ヌッと影が視界を覆い隠した。それは生温い舌で俺の鼻を舐めた。オオカミか。なるほど殺せるとあらかじめ分かりきった獲物に対して余裕の味見というわけだ。息を荒げた畜生は顎をひろげて今にもかぶりつこうしていた。

「やめなさいバターハッピー」

 影は退いた。俺は上体を起こして声の聞こえた方へと振り向いた。真っ暗で何も見えない。「そこにいるのか」と問う。返事はない。俺は溜息をついた。

「今にも小便が漏れそうだ。きっとその匂いに気づいたオオカミかさもなくば野犬が嗅ぎつけて一目散にやって来る。お前は山に慣れているか。逃げられるといいが声を聞く限り子供だな。その足で迫りくる途中の獣と鉢合わせしなきゃいいが。ああ漏れる。ちょっと出た。もうこれでトリガーになったかもな。もう来てるかもしれないし一緒だから今から全部出す。俺はもう死ぬかも知れないがお前を巻き込んですまなかった。さっさと逃げたほうがいいぞ。ああ出てる出てる。温いな。聞こえないか奴らの遠吠えが。アオーーーン!」

「一緒に来て。パンツは脱いで」

「ズボンのことか」

「パンツはパンツよ。早く!」

 俺はフルチンのまま山を疾走した。実際尿に野犬が引き寄せられるかなど知らなかったが子供騙しには程良かった。訛りのない口調。ハイカラな名前の犬。俺は咄嗟に声の主がまだこの村の暮らしに浅いと睨んでかましたハッタリは功を奏した。野犬はハッタリだが失禁は事実だったため股間は冷たい空気に曝されることとなったが、元より全裸でコールドスリープ状態にあった俺だ。この程度で未来を繋げられるなら安い犠牲だった。山の麓まで降りた俺たちは息を切らしながらようやく顔を合わせた。少女だった。しかしおそらく純粋な日本人ではない。どことなく異国の風情があった。幼気な飼い主にグロテスクな椰子を見せまいと犬、バターハッピーが絶妙な位置に座り込みハッハハッハと息を刻んだ。

「あそこで何してたの」

「星を見ていた」

「嘘よ」

「嘘じゃない。お前こそ何をしていた」

「お前って言わないで。エーコよ」

「A子? 変わった名前だな」

「あんたは」

「さてな」

「名乗りなさいよ」

「知らないんだ」

「どういうこと? ッッ!」

 A子は突然悲鳴をあげた。バターハッピーが動いたからだ。バターハッピーはA子にヤシの木見るも良しと判断したのか、関心が別に移ったのかは分かりかねるが俺の股間は無修正になった。

「しまいなさい!」

「もう慣れてしまった。もう臆病じゃない」

「何のことよ! しまえったら」

「生憎、俺の一張羅でな。お前が捨てろというから捨てた」

「もういいわ! 助けるんじゃなかった」

「待て。お前は俺を助けようとしてくれたのか」

「エーコよ!」

「じゃあA子。お前は俺を助けようとしてくれたのか」

「だから! ああもう! あんなところで寝転がってたら死んでるかと思うじゃない。それが生きてたからどうしようかって焦ってたら、その、汚い話!」

「悪かったA子。ところで家は近いのか」

「来る気? その格好で? 信じられない」

「俺は記憶がない。無論雨風凌ぐ屋根などあろうはずもない。だがお前にはそれがある。俺はそれを頼りたいと思っている。今包み隠さずに全部話すとそんな感じだ」

「呆れた。こんな子供をあてにするなんて大の大人がやることかしら」

「なら、何故助けた」

 A子はしばらく黙った。そして妙なことを口走る。機構の命令。なんだ機構とは。A子は誰かに電話をかける。俺の股間は今にも凍傷寸前。生存競争から切り離されようとしていたまさにその時、ライトの光が俺たちを照らした。

「エーコ、それから……まあいいや旦那。早く乗って」


 俺は車内でぶるぶる震えながらバターハッピーを抱きしめていた。犬が何を思ったかは知らないが大人しく抱かれていた。

「災難でしたね。あんな雪山の中で。よく生きててくれた」

「あんたは?」

「俺は印南っていいます。機構の職員で、エーコの同僚ですわ」

「機構ってなんだ」

「まあ、そうですね。正義の味方かな」

「よくわからないな」

「ですわね。記憶ないんですもんね。今の情勢とかこんな山奥じゃ入ってこないですもんね」

「印南さん、あんた何言ってんだ」

「旦那にはこれから俺たちと働いてもらいます。職務は世直しってことで」

 俺は匂わせでものを言う人間が嫌いだった。ミニバンは最寄りの高速インターを通過する。(続)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

屏風を出る 川谷パルテノン @pefnk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る